第51話

 この世界にはいくつかの『要素』があり、それらが寄り集まって人や物の姿かたちを構成する。

 『心の要素』は人の肉体を作るうえで最も重要なもので、それがなくなると命を失うことになる――動植物にも多少含まれてはいるが、人と違って生命活動に影響するほどのものではないという。

 数多くの生き物の中で、人だけは『心』を失うと死ぬ。


「……ゆっくりと、自分を水の底に沈めることを意識して……」


 オデッサ公の低い声に導かれるように、レオニードの意識が揺らいでいく。

 瞼を閉じて開けるまでほんの数秒だったように感じられたけれど、実際には1時間近くが経過していたらしい。

 頭がすっきりしていて、天気の良い日に昼寝をした後のような爽快感があった。


「取り調べ内容は直ちに王都へ送り届ける」


 調査官が書き留めた調書に目を通したオデッサ公が署名し、硬く封を施した。

 その言葉通り、調書を携えた調査官は部屋を辞して、そのまま早馬で王都へ駆け戻っていった。


「お疲れ様だな」

「いえ、叔父上。貴重な経験でした」


 城の執務室の奥に設けられた休憩室の長椅子で、レオニードはほっと息を吐いた。

 例の侍女が用意してくれた茶を口に含みながら、正面の椅子にくつろぐオデッサ公の顔を盗み見る。

 魔術の行使に神経をすり減らしたのだろう、いつも飄々として見える叔父の顔に、わずかに疲労が浮かんでいるように思えた。


「まあ、そうだな、まっとうに生きていて『心の魔術』をかけられる経験をすることはないだろう」

「まったく覚えていないのが残念です」


 あえて軽く言えば、叔父も肩の力を抜いて笑ったようだった。


 魔術師は生まれながらに持ちうる『適性』に応じた魔術を使うことができる、というのが魔術における基本である。

 もっとも1級以上の魔術師ともなれば、己の身に備わらない『適性』の魔術であっても、豊富な魔力に物を言わせて強引に発現させることが可能だ。

 しかし――唯一の例外が、『心』の領域にある魔術である。

 いかに強大な魔力を持っていたとしても、『心』の魔術を発現するためには『心の要素』に対する『適性』を持つ必要があり、それなしでは、たとえ稀代の大魔術師エリス・ランドスピアをもってしても不可能であった。


 『心』の『適性』を持つ魔術師は王国広しといえどほとんど存在しておらず、ここ100年では、エリス・ランドスピアの兄と、このオデッサ公爵ゲオルグ・チレノフのたった2人しかいない。

 『心』の魔術は使い手が希少であるためか“知恵の樹”にもほとんど情報がないほどで、魔術の種類もさほど多くないそうだ。

 感情を揺さぶる術、感情を操る術、記憶を消す魔術――そして先ほどレオニードがかけられたのは、嘘をつけなくなる魔術である。

 レオニードは覚えていないが、術をかけられて意識を失っている間、王都から派遣された調査官が口にする質問に対してレオニードはすらすらと回答をしたらしい。


 感情や記憶に干渉する魔術は、禁止薬物と同様に恐れられ、禁呪の扱いをされている。

 人の心は繊細にできているため、魔術の直截的な干渉に弱い――極端なことを言えば、術をかけることにより廃人にしてしまう恐れさえあるのだ。

 オデッサ公も国から特別に命じられたときでなければ使うことはできないし、叔父本人も任務とはいえ術を使うことを嫌がっている節がある。

 そのオデッサ公がヴィッテを訪れてレオニードに対して禁呪を使ったのは、早い話が、すべて兄王子の命令のもとに行われたことだ。


「これで殿下も少しは安心なさるとよいが」

「そうですね……」


 例の暗殺未遂に対する取り調べの一環である。

 精神魔術による取り調べを受けるようにとのアレクサンドルからの勅命に対して、当初ヴィッテの陪臣たちはひどく憤ったもので、レオニードは彼らをなだめるのに大変苦労した。

 というのも、この国では精神に干渉する魔術を用いること自体が一種の拷問と見なされる――つまり、本来は重罪人の取り調べでしか行われない。

 ヴィッテ伯にいったいどんな疑いがあって、そのような扱いをするのか、と家臣たちが怒るのも当然だ。


 オデッサ公とて『心の魔術』を用いることのできる唯一の1級魔術師であり、国軍の将を務める王弟であって、かつ政治的には特定の派閥に属さない領主である。

 この老獪な男が唯々諾々とアレクサンドルに従ったわけもなく、この取り調べでなにも出てこなければ、これ以降はレオニードとをするようにとアレクサンドルを説き伏せ、なんとあの偏屈な兄から一筆もぎ取ってきたのだという。


「私は覚えていないのですが、どんな質問があったのですか?」

「ん? 大したことではない。森で兵を失ったときの状況や、コーヴァレンに殺されかけたときの話を、レオの口から説明させたり、あとはアレクサンドル王子に対する悪意の有無を聞かれたり、まあ、そんなところだ。特に問題のある回答ではなかったから、安心するといい」


 規則として調書の内容をレオニードが目にすることはできないが、その程度ならば答えても構わないと叔父は判断したようだ。

 レオニードはカップをテーブルに戻しながら思案する。

 もしも質問の中に――玉座を望むか、とあったら。

 自分はいったいどう答えたのだろう。


 5年前の苦い記憶が不意に蘇る。

 “知恵の樹”と叔母エリス、グラシムのいるあの場で、自分が何を口走ったのかを、レオニードは今でも生々しいほどに覚えているのだ。

 分不相応の望みを抱いた結果、レオニードは大切なものをすべて自らの手で壊してしまった。

 だからそれ以降、自らの手にあるカード以上のものを望まぬようにと己を戒め続けてきたが、幼い頃から心の奥底にくすぶっていた渇望は、本当にすっかり消えているのだろうかと我がことながら不安だ。


「ところで、レオ、体調はもういいのか?」


 不意に叔父のヒゲ面が覗き込むように視界に飛び込んできて、レオニードは思わずのけぞりそうになった。

 いつも飄々とした物腰のオデッサ公ではあるものの、黙っていれば王族の威厳もあるうえ現役の武将だけあって、実際はなかなかの強面である。

 突然近づいてこられると、幼い頃から慣れ親しんだレオニードであっても少しばかり驚いてしまう。


「あ、ええ。もう貧血もずいぶん良くなりましたよ。義父が心配するので療養を続けていますが、叔父上をお見送りした後には執務に戻るつもりです」

「そうか――いや、な、いい酒を持ってきてるんだ」


 形よく整えられた髭に囲まれた唇が、にっ、と笑みの形を作った。


「実の兄貴との仲直りをしたんだ、この際、弟分との仲直りもしたらどうだ」


 そういえば大喧嘩の仲裁してやると言っていたな、とレオニードは思い出し、小さく笑ってうつむいた。

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