第50話
負傷してヴィッテに帰還したレオニードは、久々にのんびりと休養をとっていた――という流れになろうはずもなく、帰還した翌日から疲労と貧血に苦しめられながら早々に執務に戻り、今も王都から届けられた書簡の束を執務室で読んでいた。
貧血の症状を改善する薬の製法が“知恵の樹”から与えられた知識の中にあったため、城に仕える魔術師に頼んで作ってもらったところ、確かに症状は多少楽になったものの、劇的に改善するとまではいかない。
うなりながらペンをとるレオニードの傍らには、領主の不在中、城代としてヴィッテを守っていた義父エフィムの姿もある。
「閣下、少しお休みになさいませんか。ちょうど茶の時間ですから」
エフィムは執務中、レオニードを敬称で呼ぶ。
もちろん普段はそんなこともなく、娘婿として「レオ」と呼んでくれているのだが、今の彼の口からそうやって「閣下」の2文字が出たということは、部下としての忠告であろう。
「そんなにひどい顔色をしてるかな……じゃあ、そうしようか」
「閣下をだしに使いましたが、私も老体ですので実は休みたかったのですよ。久々の書類仕事は腰にきますなぁ」
朗らかに笑うエフィムだが、その体つきは現役の武将であるオデッサ公と並べても遜色はなく、とても老体と謙遜するような貧弱さではない。
いつの間にか部屋を出ていっていた侍女が、菓子や茶器を乗せたカウンターを押して戻ってきた。
この侍女はレオニードの母親よりも年上ながら、ずいぶん長くヴィッテ城に仕えているらしく、以前は侍女頭の地位にあった。
確か、エフィムの妻の従妹か何かであったか。
今は城を辞してエフィムの屋敷で働いており、彼が再び出仕することになったために、専属のような立場で戻ってきたのだという。
表情の乏しい女性だが、エフィムが言葉を発するよりも先に行動をする機敏さがある。
たいてい貴族の専属侍女というと愛人のような扱いをされるのだが、恐妻家のエフィムに限って彼女に手を出しているということはあるまい。
単にこういう使い勝手のいい侍女は貴重だからそばに置いているのだろう――などと、やや下世話なことを考えながら、レオニードは彼女の淹れてくれた茶でのどを潤した。
「ところで――レオ、殿下はどう動くだろう」
殿下、すなわちアレクサンドル王子のことであろう。
レオニードはうーんと低くうなった。
「当分は下手な手を打つことはないと思うが、義父上はどう思う?」
腹心とも呼べるティオディスを使ってあれだけ派手に失敗したのだ。
表立っては「嫉妬にかられたティオディスがレオニードを害そうとした」ということで裁判が進みそうな流れではあるが、実際は、その話の主語をアレクサンドルに交換したものが真実であることに間違いはなかろう。
今回の騒動については当然箝口令が敷かれているものの、ヴィッテから王国各地に送り込んでいる者たちの動きにより、ヴィッテ伯暗殺未遂の噂はすでに民の間に回り始めている。
ヴィッテは――というよりエフィムは、以前からそうやって情報操作を行うことを得意としてきたのだという。
妬み嫉みを受けやすい豊かな領地を守るためのひとつの手段である。
レオニードもいずれ領主としてそれを引き継がねばならないのだが、この5年は領内をまとめたり魔獣討伐をしたり復興支援をしたりと多忙であったから、未だにその手の後ろ暗い業務はエフィムの担当のままだった。
「私もレオと同じ考えだ。現状、殿下は身動きがとれまい。レオを王都に召還するにしても理由に乏しいし、強引に呼び出せば何を言われるかわかったものではない。まあ、ティオディス王子の裁判が始まってから証人として召喚されるのは間違いないと思うが、その最中に手を出すほど、殿下も愚かではないと期待したいものだ」
エフィムが民の間にばらまいたのは「ティオディス殿下がヴィッテ伯を暗殺しようとした」という事実のみである。
ただ噂というものは人の口にのぼるにつれて変質していくものだ。
彼らの間にはすでに「アレクサンドル王子はヴィッテ伯がとてもお嫌い」という共通認識があるのだから、そこに暗殺未遂などという王家のスキャンダルが混ざりこめば、噂がどういう変化を起こすかは考えるまでもなかった。
アレクサンドルとて次期王として教育された人物であり、レオニードが絡まなければまずまず優秀な為政者である。
今回の北方山脈の魔獣討伐も、魔獣云々以上に、王国の治安維持のために必要なことだと判断して行っている。
レオニードの暗殺はそのついでのようなものだ。
だからそれくらいの頭がある人間ならば、今の状況下において、これ以上レオニードにちょっかいをかけることはないだろう――とエフィムはおかしそうに笑った。
うっかり討伐ついでに暗殺されかけたレオニードとしては、あまり笑える話でもないのだが。
「……兄上は聡明だよ。ここ数年は目が曇っておられるのも事実だが……先日の派兵の判断も、見事だったと思う」
「君主としては当然だ。たとえ私でも同じことをしたと思う」
いつも弟ごとヴィッテを敵視して嫌がらせをしてくるアレクサンドルに対して、当然エフィムの評価は芳しくない。
レオニードは苦笑して肩をすくめるよりほかになかった。
ミルスロータは歴史的にカンチアネリ王国と良好な関係を結んできたとはいえず、特にこの5年、魔獣被害で疲弊した彼らが、峻険な山脈の向こうにある諸外国と結んで反乱を起こす可能性は常にあった。
もちろんミルスロータにも物的人的支援は行われてきていたものの、王国には他にも被害の大きな地域がある。
王家からしてみればそちらにも資源を回さざるを得ず、ミルスロータに十分な支援を行うことができない状況なのだが、彼の地の民がそれに納得しているかどうかは別の問題だ。
だが、そもそもミルスロータは、王国の政治からある程度切り離された特別自治区なのだ。
自治区内で何とかしろと言わずに王国が支援を行っているのだから、むしろ多大なる感謝をしてほしい――というのが、カンチアネリの本音である。口が裂けても言えないだろうけれど。
ゆえに今回の派兵には、北方地域に反乱へつながる不穏の種が転がっていないかを調査する目的もあったというのが、オデッサ公からの内緒話だ。
ミルスロータは魔術を使えない民がほとんどで、かつ資源にも乏しい土地ではあるけれど、山の向こうから攻めてきた外国勢力の拠点となってしまうのは、当然王家としても避けたい。
彼の地から馬を駆けさせれば1週間もしないうちに王都にたどり着いてしまうのだ――実際のところは山の向こうから戦に使えそうな軍馬を連れてくるとも思えないし、途中にはいくつかの城壁都市があるから、直ちに王都が危機に陥る危険はないにしても、いざ反乱が起これば脅威となり得る距離であることに違いはなかった。
アレクサンドルはそのことを十分に承知しているし、だからこそ王弟を2人も含めた国軍派遣で人心掌握と現地調査を同時に行い、最悪の状況になればその場で敵の勢力をタルファスごと壊滅させるだけの人員を送り込むことまでやった。
魔術師たちが王都を離れる分、王宮の守りは薄くなるので、兄にしてはずいぶんと思い切ったことをする、と当初レオニードは思ったものだ。
だがそういう決断力と判断力があれば、父が崩御したあとも、兄はまず問題なく王国を統治できるだろう。
王に求められるのは、レオニードの行ったわかりやすい人気取りのような復興支援ではなく、そういう資質だ。
兄がそれをきちんと自覚していれば――レオニードになど煩わされることもあるまいに。
「まあ、殿下はしばらくは派手に動けないだろうと我々の考えが一致したところで、義父として提案したいのだが、レオにはしばらく休養を優先してほしい」
「……私でないと決裁できない書類の山はどうする?」
「内容の精査は済ませておくのでサインだけしてくれたらいい」
領主をあまりにないがしろにした発言ではあるが、実際、エフィムは権力に対する執着が薄いようにレオニードには感じられる。
言葉のとおり、彼は先代領主としてレオニードの意に沿った書類の精査を行ってくれるに違いなかった。
「……では、今回だけ城代殿にお任せしてもよろしいだろうか」
「もちろん。休養中、娘との仲も深めてくれるとなおよいのだが――」
義務だからな、と娘の気性を理解しているエフィムが気の毒そうに嘆息した。
レオニードの妻であるエフィムの末娘は母に似た強烈な性格をしていて、夫婦仲はあまりよろしくない。
それでも後継者問題をそのままにしておくわけにもいかないのは、レオニードとしても承知している話だ。
第2夫人でもいれてしまえばいいのだろうけれど、その女性が正妻の毒牙にかからない保証もない。
「努力はしますよ、義父上……」
王都からオデッサ公来訪の報せが届けられたのは、男同士がそんな話を交わしている最中のことだった。
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