第49話

 王都のアレクサンドル第1王子はその日、大変不機嫌だった。


 手下に暗殺させるかあわよくば魔獣に食い殺されるかすればよいと思っていた弟が、手下も魔獣も返り討ちにして傷一つ追わず、それどころか彼の地の脅威である魔獣を殲滅したという成果が、密偵から届けられたのだ。

 そのイレギュラーだけならばまだ、計画の変更はたやすい。

 弟に預けた13人の手下には貴族の子弟が多く含まれている。

 無責任で無計画な討伐により部下を死なせた無能の将として、軍議にかけて処分すればよい。

 ひとまず城の牢につないでおき、その間に、王に対するを挙げる。

 謀反の咎で弟を公然と処刑し、主を失ったヴィッテをアレクサンドルの直轄地へ編入する。

 それで、不穏の種はすべて排除できるはずだった。


 だが、その計画は3番目の弟によりすべてが無に帰した。

 アレクサンドルが信頼していたティオディスは功を焦ったか、騎士の家族を人質を取って操り、弟を暗殺しようとしたのだ。

 恐らくはタルファスの賊が弟を殺したのだとか言いつくろい、彼の地へ責任を擦り付けるつもりだったのだろう。

 しかし暗殺は無様に失敗し、騎士はその場で捕らえられ、精神に作用する魔術をもって拷問を受け、すべてを洗いざらい白状してしまった。


 取り調べを行ったのが他の者であれば、捏造だと言い張ることもできただろう。

 だが騎士に術をかけたのは現王の弟でかつ国軍の将軍でもあるオデッサ公爵ゲオルグ・チレノフであり、他の魔術師たち――つまるところ、その証言に信憑性のある貴族階級の者――もその場に同席していた。

 ティオディスはトリムという田舎町でゲオルグの指示により拘束され、魔術を使えぬよう口輪をはめられるという辱めを受けたまま王都に送還されてきた。


 幸いなこと――と言っていいのか、弟の暗殺に直接関わった騎士は、その計画の後ろにアレクサンドルがいることまでは聞かされていなかったようで、彼の口から出たのはティオディスの名前だけだ。

 今、無能なティオディスは貴人牢に収容され、取り調べの日を待っている。


 貴人牢は城の敷地の片隅にある離宮の1つに作られていた。

 かつては寵愛の薄れた妃を住まわせる場所であったというが、今はもっぱらこういう用途でしか使われていない。

 それでも貴人を住まわせるには充分な広さと調度を揃えており、口輪も外されていて、自由に外出したり外部と連絡を取ったりすることを禁じられている以外に、不便はないはずだった。


 その日の夜――アレクサンドルは不機嫌なまま、重たい体をゆすって馬車に乗り込み、貴人牢のある離宮へ向かった。

 かねてから患っていた飲水病は薬で進行を抑えているものの、どうにもここのところ以前よりも疲れやすい。

 魔術や薬でなんとかできないのかと先代の賢者に研究を命じたところ、既存の薬の改良はしてくれたものの、完治させる魔術の研究が成る前に彼女は死んだ。

 後継の賢者となった愚弟は、領地の統治が忙しいとかでまともに研究をしている気配がなく、そのこともまたアレクサンドルを苛立たせる理由の一つである。

 王国の叡知を引き継いだ身ならば、王国のためにその智を探求するのが賢者の本分であるはずなのに。

 領主の真似事になど精を出さず、そんなものはエフィム・ペトレンにでもやらせておけばよいものを――アレクサンドル自身がかつてエフィムを毛嫌いして表舞台から葬ったのだが、それはそれとして、領主など誰がやっても変わらないのだと彼は都合よく考えている。

 賢者自身が政治に手を出すなどという愚行よりは、まだ先代を引っ張り出したほうがマシなはずだ。


 離宮の一室に拘束されたティオディスを訪ねると、弟は驚きに目を丸くしたのち、床に平伏して許しを乞うた。

 アレクサンドルは深く嘆息し、哀れな弟を抱きしめて助け起こしてやる。


「使った手駒の質が悪かっただけだ。おまえは何も悪くない」

「兄上……お許しくださるのですか?」

「当たり前だ。私はおまえだけを身内だと思っている」


 アレクサンドルの本心を聞いて感激して泣き始める弟をなだめ、長椅子に座らせてやる。

 自分の宮から持ち出した酒とつまみを並べさせ、人払いをしたのち、2人で盃に口をつけた。

 酔いが回るにつれ、ティオディスの目つきが座っていく。


「兄上、あの愚弟は今どうしているのでしょうか」

「城で今回の件の取り調べを受けてヴィッテに戻っていきおったわ。傷は癒えても血が足りぬとほざいてな」


 血の気を失い苦しげなレオニードの顔を思い出し、アレクサンドルはほんの少しだけ溜飲を下げた。

 事実、ゲオルグがレオニードを発見するのがあと少し遅れていれば、暗殺は成功するところまでいっていたのだ。

 今の魔術では傷を癒すことはできても、失われた血液を補ったり内臓の疾患などを治したりすることはできない――アレクサンドルの飲水病が治らないのと同様に。

 せいぜい薬で症状を緩和したり体力を補ってやったりするのが関の山だ。


 当初、アレクサンドルはレオニードに、彼の生母である妃の宮に滞在して療養するように勧めたのだが、弟はなんやかんやと言い訳をして結局ヴィッテに戻って行ってしまった。

 命じれば無理にでも帰還を止めることはできたものの、ゲオルグが「レオニードが術師と兵を失った状況も妙だ。彼を処罰するならばきちんと調査する必要がある」などと余計なことを言い出したため、アレクサンドルは最初の暗殺未遂をうやむやにするためにも、レオニードをむしろ王都から離さねばらならなくなった。

 あの堅物の叔父は、どうにもアレクサンドルの意を汲もうとしないところがある。


「今度はヴィッテに手の者を忍ばせますか」

「……どうしたものかな。あちらはあちらで守りが堅い」


 ティオディスには教えていないが、この5年、アレクサンドルはすでに幾度となく暗殺者を放っているのだ。

 それらはすべて痕跡もなく消されており、侍女や料理人に紛れた手下に毒を仕込ませても同様の結果に終わっている。


「…………兄上への謀反の証拠は、作れたのでしょうか?」


 だんだんとティオディスのろれつが回らなくなってきた。

 アレクサンドルは大きな鼻息でその問いを黙殺する。

 計画がうまくいっていれば、第1王子派の者たちがをし、一息に愚弟を処刑台送りにするつもりでいた。

 だが計画は頓挫し、今の状況で配下を動かすのは危険ばかりが大きい。


 アレクサンドルの求める結果は、弟の命そのものだ。

 そのために取りうる手段は暗殺もしくは処刑のいずれかという極端な選択となり、前者はなすすべもなく跳ね返され、後者となれば適当な策ではうまくいかない。

 アレクサンドル自身の派閥が盤石であれば多少強引に事を成すことはできただろうが、腹立たしいことに、今の宮廷には密かにレオニードを神輿として担ぎ上げようとする勢力がいて、下手に動けばアレクサンドル自身の王位継承に響きかねない。

 であれば、難癖をつけて先代のヴィッテ公と同様に政治の表舞台から消し去って、平民に落としたあとに暗殺するということも考えたのだが、1級魔術師を野放しにするのはあまりに危険だ――と、側近に止められてしまった。

 確かに今は弟にヴィッテ伯という身分があるから動向をつかみやすいわけで、あれが野に下って自由に行動するようになれば、かえってアレクサンドルの身が危うくなるかもしれなかった。


 正直なところ、八方ふさがりだ。


「…………兄上、申し訳ござ……いません…………眠気が」


 哀れな3番目の弟はそれだけを口にすると、ついに酔いに負けて眠りに落ちてしまった。

 アレクサンドルはその寝顔を静かに見やる。

 ティオディスの顔には疲労の色が濃く、ここしばらくの心労がしのばれた。

 同じ母を持つ弟だけあって、まるで自分の若い頃を思い出すような弟の顔立ちに、アレクサンドルは深く嘆息する。


「可哀想になぁ、ティオディス……自らの罪を悔いて命を捨てるとは……」


 懐から取り出した短剣を躊躇なく、深く深く弟の首に突き立てた。

 眠っていたはずの弟は目を開いてびくびくと痙攣したのち、不明瞭な音を口から洩れさせてから、血の海の中で動きを止めた。


「――誰かある! ティオディスが自害した!」


 部屋の外に向けて呼ばわると、扉のそばで待機していた騎士たちが慌てた様子で部屋に駆け込んでくる。


「殿下、お怪我は……」


 騎士に体を支えられながら遺体から引き離され、アレクサンドルは真っ赤に染まった手を見つめながら体を震わせた。


「私の落ち度だ……私が常に護身用の短剣を持っていることを、ティオディスが知らぬはずもなかったのに……!」


 強大な魔術師は、人の心を顕わにする魔術などという恐ろしい術を使うことができる。

 件の騎士の取り調べでゲオルグが用いたのもそれだ。


 だが、いかに彼らが神の如く傲慢に振舞ったところで、死者の心を暴くことなどできない。


「可哀想なティオディス……たった1人、私のことを愛してくれる弟であったのに……」


 アレクサンドルの、それは真実、心から出た言葉だった。

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