第48話
夜半になって――レオニードは部屋の外で足音を聞いた気がして目を覚ました。
狭い宿の部屋にはオデッサ公とレオニードの2人がベッドを並べており、叔父はよく眠っているのだろう、低いいびきが聞こえてきた。
「……恐れ入ります、ヴィッテ伯はおいででございますか」
案の定、控えめなノックののち、扉の向こうから小さく呼びかけられた。
「……今行く」
オデッサ公を起こさぬよう静かに起き上がり、扉から外に出ると、若い娘が頭を低くして待ち構えていた。
彼は確か――ティオディスの侍女として身の回りの世話をしていた娘のはずだ。
「こんな時間に申し訳ございません。ティオディス殿下より、ヴィッテ伯へ内密の御相談があると申しつかっております」
「わかった。殿下のところへ案内してくれ」
トリムの街に宿は2つだけで、ティオディスの宿はこちらとは別だ。
真っ暗な道を行く娘のそばに魔術で生み出した明かりをともしてやると、娘は驚いたような顔をしてから、こわごわといった様子で礼を述べた。
空を眺めると切れ切れになった雲の隙間から細い月がのぞいている。
このぶんならば明日は雨に降られずに済むようだ。
(……宿には向かわないのか)
娘の行き先はティオディスの宿ではないとすぐに悟ったが、レオニードは黙って彼女の後ろを歩いていく。
その背中が震えていることには、とうに気づいてはいた。
「……間もなく殿下がお越しになりますのでこちらでお待ちください」
連れてこられたのは、小さな街にふさわしい小さな礼拝堂だった。
娘は建物の中にレオニードを通すと、頭を下げて素早く出て行ってしまう。
しん、と静まり返った礼拝堂に、レオニードは1人で取り残された。
魔術で生んだ明かりを天井近くに浮かして周囲を見回す。
信者用の長椅子が左右に5列ずつ並び、正面にの祭壇はイオチャーフの主神を象った像が置かれている、どこにでもありそうな内装である。
きちんと手入れがなされているようで、古いながらも清潔感のある内装に、レオニードは少々好感を覚えた。
ややあって――そろそろ待ちくたびれてあくびが出そうになった頃、正面の扉が開いて男が姿を現した。
「……コーヴァレン卿?」
現れたのは3番目の兄ではなく、アンドレイ・コーヴァレンという魔術師だった。
伯爵家の4男で、本人は相続する爵位がなく、騎士としての身分を持っている2級魔術師である。
今回は別の隊で行動していた男だが、王都にいた頃に面識がある。
非常に優秀な剣士で、騎士団の訓練で手合わせをしたレオニードは、彼の力強い剣技に舌を巻いた覚えがあった。
「こんな時間にお呼び立てして申し訳ございません」
「いや、かまわない……私は兄上の御用と聞いていたのだが」
「はい。殿下から内密の御伝言を預かっております」
コーヴァレンは扉を閉めて近づいてくると、懐から何かを取り出し、両手で包んで大事そうに差し出してきた。
まるで鳥の雛でも隠し持っているような手つきに、レオニードは防御魔術の『陣』を描きながら顔をそっと近づける。
瞬間、コーヴァレンの手が閃いて、細かい何かが撒き散らされた――体をそらしながら素早く唱えた呪文が防御魔術を発現させ、それを吹き飛ばす。
レオニードは魔術の巻き起こした風に乗るように背後に跳ぶ。その直後、自分の立っていた場所を銀色のきらめきが真横に駆け抜けていった。
「……それが兄上のご意思か?」
目潰しの粉と短剣のいずれもかわされたコーヴァレンは、レオニードの問いを黙殺し、腰の長剣を抜き放つ。
こちらの体勢が整うのを待つ気はないようで、両手に長短の剣を構えて低く息を吐いて飛び込んできた。
反撃のための魔術の『陣』を描くことはできない。
少しでも気がそれた瞬間、きっと彼の剣は容赦なくレオニードを切り裂く。
体術だけならばレオニードも負ける気はしないが、長短の得物を振りかざす熟練の彼を相手に丸腰で挑むのはあまりにも不利である。
コーヴァレンもそれは当然承知しているのだろう、魔術師として何枚も格上のレオニードに『陣』を描かせぬよう、息もつかせぬ斬撃を放ってくる。
それだけではない――先ほどから妙に体が重い。
周りの空気が粘つくような奇妙な感覚で、いつものように体を動かすことができない。
もしかしたら夕食に薬でも仕込まれていたか、と内心で毒づく。
礼拝堂の最奥にいたレオニードは徐々に追い詰められ、がん、と踵が祭壇の石にぶつかった。
「御免!」
一声叫んで、コーヴァレンが剣を突き出した。
その切っ先をぎりぎりで避け、剣に添うように体を滑らせて彼の懐へ飛び込む。
短剣を持つ彼の左手首を肘で打ち落とすと同時、額を彼の顎へ思い切りぶつけてやった。
コーヴァレンは2、3歩後ろへたたらを踏むが、しかしレオニードの動きが常よりも緩慢なせいか失神させるには至らず、彼は再び鋭い目でかわされた長剣を引き戻して。
湿った音。
体ごと吹き飛ばされそうな衝撃に、両足を踏ん張ることで耐えながら、腹へ真横から叩きつけられた剣をちらりと見て、レオニードは(即死は避けた)と薄く笑う。
恐らく左の腎臓やその周辺を肉ごと両断されているはずなのに痛みもない。
むしろ全身が凍るように冷え冷えとする。
体に刺さったままの剣を左手で押さえつけ、コーヴァレンの目を見返す――深い動揺と絶望を見て、これが彼の本意でないことを知る。
レオニードの意識はこれまでにないほど鋭く尖り、深く深く沈み込んだ。
「貴き神の御業により、風よ疾く疾く打て!」
いっさいの無駄を省いた美しい『陣』が未だかつてない速度で起動し、発現した魔術がコーヴァレンを瞬時に襲った。
真正面から凶暴な風の球に顔面を殴られたコーヴァレンは、勢いよく頭を後ろにそらし、今度こそ失神した。
どさ、と音を立てて派手に倒れたコーヴァレンを見ながら、レオニードは自らも膝をついた。
今の自分にならば癒しの魔術を描くこともできる――そう思ったのだが、強引に剣を引き抜いた瞬間、視界が真っ暗になった。
急に息がしづらくなる。
深く息を吸おうとしても、はっはっと犬のように短く浅い呼吸しかできない。
頭の芯が、足の先が、指先がしびれる。
傷から血が噴き出すのと同時に冷たい熱が体を貫き、押さえた手の隙間から今にも内臓が零れ落ちそうだ。
「――――――――レオ!」
誰かが礼拝堂の扉を蹴倒すような勢いで入ってきて叫んだ。
そこまでは、確かに意識があった。
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