第46話
「……あら」
踊り子の娘の声に、レオニードは彼女の視線を追って通りへ目を向ける。
見慣れた真っ黒な青年が娘を連れて歩いていた。
「……あの子、うまくやったわね」
「知り合いか?」
「ええ、妹の友達。ラシーってば、あんなのにまで引っかかってあげなくてもいいのに」
不満げに唇を尖らせて踊り子がうなるように言う。
レオニードはその様子に意外の念を覚えた。てっきり、あの子とはグラシムのことだと思ったのだ。
「ラシー……グラシムのことを知ってるのか?」
「ええ、もちろん。タルファスで彼を知らない女の子はおりませんわ」
やや、皮肉気な声音。
「……どういう意味か聞いても?」
「素敵でしょ、彼。優しくて、思い遣りがある。それに伝説に残る古い民そっくりな見た目だし、みんな彼の子供を欲しいと思っているのに――誰のものにも、ならないけれど。もしかしてヴィッテに恋人でもいるのかしら?」
踊り子はレオニードを突き放すようにバルコニーの手すりへ押しやった。
彼女の言葉にレオニードは驚きを禁じえない。
ヴィッテで彼は優れた魔術師として語られることはあっても、人柄について話題に上ることはまずない――社交面は最低の部類だからだ。
優しくて、思い遣りがある? それは果たして、レオニードの知る青年への評価なのだろうか。
「グラシムは、ヴィッテでは人付き合いをしないんだ。みんな、取っつきづらいと思ってる」
「あなたがたが差別してるのではなくて? 王国民にとっては不吉な見た目だって聞いたことあるわ」
「……そういう人もいるかもね」
「閣下はそうではないと言えて?」
赤茶けた髪を風になびかせた女に、嫌味たっぷりに言われてレオニードは顔をしかめる。
「古馴染みなんだ。昔、喧嘩をしてね……私は彼に嫌われてるんだよ」
「まるで閣下はラシーを嫌いじゃないみたいにおっしゃるじゃありませんか」
「嫌い……ではないよ、決して」
2人で言い合っているうちに、グラシムたちは通りの向こうに姿を消した。
「……あの女性は、グラシムの恋人なのかな」
「まさか。ラシーは誰のものにもなってくれませんの。ご飯を一緒にして、家まで送ってくれる。いつもそう、それ以上は全然踏み込んでくれない」
「そうか……あいつ、どこで寝泊まりをしてるのか知ってる?」
「自分の家でしょう?」
「家?」
は、と冷めた目を踊り子がこちらに向ける。
広間にいたときには貴族へ向けた丁寧な物腰だったのに、今はもう敵対心を隠そうともしていない。
恐らく彼女はグラシムに対して友愛以上の感情を持っており、それと同時にかつて自分たちの民族を迫害したカンチアネリの人間を好いてはいないのだ。
それに、彼女の言葉を信じれば、彼の見た目はそれだけでこの土地では価値のあるもののようだから、対極にある外見のレオニードは嫌われてしまうに違いない――ミルスロータ族を滅ぼそうとした王国民の末裔なのだから、当然といえば当然か。
「ラシーはここに来てすぐに家を買ったのですよ。あの歳で家を買うんだから驚いたけれど……今は貧しい老夫婦に家の管理をさせていますわ」
「そうなのか……」
「閣下、古馴染みなのにそんなこともご存じないの?」
「ああ……そうだね、私は彼のことを何も知らないんだ。弟のように思っていた時期もあるというのに……みっともないな」
ほんの少しだけ、彼女の目が和らいだように見えた。
「弟みたいに?」
「ああ……もう何年も前のことだけどね。剣を教えてやったんだよ」
「彼に?」
「ああ……まだ小さくてね、私の胸のあたりに頭があった頃だ。折れそうなほど細い体をしていたから、どう扱ってよいのか迷ったものだよ」
あの頃の自分はレオニードにとって忘れたい過去だ。
あんなに嫉妬にかられて己を見失うなど、どうかしていたとしか思えない。
ほんの5年だ――5年前、グラシムはまだ子供で、よく笑って、城ではあまり食が進まない様子なのをエリスが気にしていたから、レオニードも気に掛けるようにしていた。
たった5年。
その短い時間に、自分たちの関係の何と変わってしまったことか。
それを壊したのは、自分。
「……閣下は少しお酒を召し上がりすぎたのでしょうか? ここは役所ですから、横になれるところはありませんの。宿に、案内してくださいません?」
踊り子の娘は心なしか表情を柔らかくして、丁寧さを少しだけ取り戻した口調でレオニードを誘う。
自分で思ったより酔いが回っていたのかもしれないとレオニードは思い、娘の誘いに乗ってバルコニーを後にした。
************
隣に眠る裸身の娘の姿に気づいてほんの少しだけ慌てたのは、まだ朝というには早すぎる時間だった。
寝直そうと思ったがどうにも寝付けず、ぼんやりしているうちに窓から夜明けの光が差し込んできて、レオニードは小さく伸びをして、娘を起こさないように静かに布団から滑り出た。
召使が夜のうちに用意していた水で顔を洗い、シャツを羽織って部屋を出る。
そのままなんとなく宿を出て街を散策する。
牛と鶏の鳴く声に混じり、いくつかの民家からは人の声がし始めている。
シャツ1枚で歩き回るにはまだやや肌寒い時間だが、しっかり目を覚ますにはちょうど良いかもしれない。
そんなことを考えながら特にあてもなく歩いているうちに、ふと、白い朝もやの向こうから見知った顔が歩いてくるのに気がついた。
「……おはよう、グラシム」
グラシムには珍しいことに、こちらの存在に気がついていなかったらしい。
十数歩の距離でようやくこちらの姿が目に入ったのか、細い目が驚きに丸くなるのを、レオニードはずいぶん久しぶりに見た気がした。
そういう表情をすると年相応の青年だ。
「……自分の家で寝ていたのか?」
返事を期待したわけではなかったが、うなるような声が返ってきた。
「……誰かから聞いたのか」
「ああ、昨日の宴にきていた踊り子の娘が教えてくれた」
そう答えて、今彼を宿に連れて帰ると、その娘とグラシムが鉢合わせしてしまう可能性に思い至る。
娘の汗ばんだ健康的な肌を思い出して、なんとなく、それはまずい気がした。
「朝食にはまだ早い。少し、一緒に歩かないか」
「……暇なのか?」
世を拗ねたような皮肉っぽい目が呆れたようにこちらを見ている。
「ああ、優秀な魔術師が大活躍してくれたおかげで、ほとんどやることがなかったからね。少しくらい街を歩く時間はあるさ」
「……俺はそんなに暇じゃないんだけどな」
言って、くるりとグラシムは来た方向に踵を返した。
レオニードはその背中をなんとなく追いかけて歩いていく。
タルファスの人口は決して多くはない。
しかし1軒1軒の家はそれなりの広さがあり、庭がついているものも珍しくはないらしく、鶏を放し飼いしている家も時々見かけた。
日干しレンガ造りで背の高くない平屋が並んでいる風景は、王都ともヴィッテともまったく趣きが違い、同じ国とは思えないほどだ。
時折、桶を手に歩いている人々とすれ違う。井戸に水くみに行くのだろう。
「おはよう、ラシー」と声をかけてくる者もいる。
ダルクレーニやヴィッテをレオニードが歩いていれば、誰だって丁重に礼をするであろうに、この街では誰一人レオニードを気にしないのがかえって面白く感じられた。
(……ああ、風が気持ちいいな)
王都やヴィッテは上下水道が整備されているから、生活臭が問題になることはあまりないが、それでも貴族が平民街に足を運べば慣れないにおいで顔をしかめることもある。
タルファスはそうではない――城壁で囲まれておらず、風通しがよいせいだろう。
馬で突っ込めば壊れてしまうような脆い柵だけが守っている小さな最北の都市……
「……あんた、ミルスロータに来るのは初めてか」
低くかすれた声が不愛想な背中から飛んできて、レオニードは、はっ、と顔をそちらに向けた。
「初めてだよ」
「どう思った」
「そうだね……素朴な印象を受ける。ただ、ちゃんと見て回ってはいないから、感想を言うにはまだ早いかな」
ふん、と小さく鼻を鳴らす音が聞こえた気がしたのと同時、グラシムが足を止めた。
いつの間にかずいぶん街の外れまできていたようだ。
目の前にはやはり日干しレンガ造りの、他に比べて小ぶりな家がある。
「気が変わった。散歩に付き合ってやったんだから荷運びを手伝え、暇人」
ちらりとこちらを見遣ってから、グラシムが家の扉をノックした。
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