第44話

 オデッサ公爵と合流したレオニードはその日のうちにタルファス市へ帰還した。

 当初オデッサ公爵の隊は総員20名であったはずだが、レオニードが数えてみると隊長であるオデッサ公を含めて9人しかおらず、16人いた平民兵はたった5人しか残っていない。


「気の毒に、こちらも不慮の事故が起こったものでなあ」


 何事もなかったように言い切るオデッサ公爵に、レオニードは為政者としての己がまだ甘かったことを痛感させられる。

 オデッサ公爵とて王弟である――どのように生き抜いてきたかなど、聞かなくとも想像がついた。


 レオニード隊の兵士や術者は魔獣に襲われ死体さえも残らなかったという報告に、作戦本部となった市庁舎でふんぞり返っていたティオディス王子はさすがに怪訝な顔をしたものの、現地を見に行くかとオデッサ公爵が訊ねると「よい」と面倒そうに手を振った。

 レオニードが唯一ヴィッテから伴ったグラシムのことも、生死不明で行方もわからないと告げたのだが、ティオディスはそもそも彼のことを記憶していなかったのだから呆れたものだ。

 どう見ても異民族の風体である1級魔術師など、一度見れば忘れられないはずなのだが。


「……もしかしたら、ティオディス兄上は今回の件についてご存じないのでしょうか」

「いや、それはあるまい」


 2人は雨の降り始めた中をマントを頭にかぶり、宿に急いで戻った。

 グラシムはまだ戻っておらず、レオニードはオデッサ公の誘いに乗り、彼の部屋で酒を酌み交わす。

 レオニードの暗殺が失敗したことについて、ティオディスは動揺した様子もなかった。

 もしかしたら長兄の独断であったのではと疑問を呈するレオニードに、オデッサ公は小さく首を振ってみせた。


「アレクサンドル殿下にとっては、暗殺が失敗したとしても、レオの落ち度さえあればよいのだ。レオが討伐に失敗すればその咎を責めればよいだけなのだから。実際、レオは自らに与えられた責務は果たしたが、陛下に与えられた兵の多くを失った……2級魔術師とはいえ、彼らは全員貴族だ。家族をなだめるためにもレオへの処罰は必要だと主張なさるだろう」


 長兄の考えそうなことだ、とレオニードは気分が落ち込んだ。

 先ほどまで糸を引くような雨脚だったのが、いつの間にか窓の外が見えなくなるほどの激しさに変じている。

 雷が遠くで鳴っていた。


「……グラシムは、大丈夫だろうか」

「心配あるまい。夜は彼の領域、だったか?」


 魔術で生みだした氷をグラスに落とし、オデッサ公爵が何でもなさそうに言う。


「ですが、夜の森はあまりに危険です」

「エリス・ランドスピアが“黒の森”で育てたのだろう。それに比べれば、ミルスロータの森など、子供の遊び場のようなものだ」


 レオニードは不意にその言葉になにか含みがあることに気づく。


「叔父上は、何かご存じなのですか?」

「なにかとは?」

「グラシムのことを……その、私は彼のことをもとより知っていますが、叔父上は今回初めてお顔を合わせたはずだ」

「知らない人間の目から見たほうがわかることもある。それだけだ」

「……叔父上の目から見て、彼はどのような人間でしょうか?」

「強い子だ」


 オデッサ公は、ただそれだけを言い切った。

 その後に続く言葉があると思っていたレオニードは、いつまでも口を開かない叔父に目を瞬かせる。


「……あの、叔父上」

「あの子は何が好きなんだ、レオ」


 突然話をそらされた。

 あの子という親しみを込めた呼び方がグラシムを指すことに、レオニードが気づくのに数拍を要した。


「あ……すみません、よく知らないのです」

「食べ物は? 酒は?」

「……彼は、城でほとんど飲み食いしませんし……子供の頃もこれといって好物はなかったように思います」


 もちろんそんなことはないだろう。

 かつてグラシムはごく普通の少年であった。好きなものの1つや2つ、あって当然だ。

 ただ城で歓待してもグラシムが特段嬉しそうに食べ物を頬張っていた様子はなかったし、大人になってからは食事をしている姿を見ることさえ稀だ。

 満足のいく回答を寄こさなかったレオニードに、オデッサ公はむしろ破顔してみせた。


「では、そこからだな、レオ」

「はい?」

「おまえたちの関係は、そこから始まるのだ。どんな喧嘩をしたのか知らんがな、相手のことを知らねば仲直りもできまい」


 ざあっ、と一際大きな雨音。雷が落ちる音。

 レオニードは目を閉じ、ゆっくりと開いた。


「私が、エリス・ランドスピアを殺しました」


 突然の告白に、オデッサ公はしかし表情一つ変えなかった。


「賢者が代われば、古い賢者は“知恵の樹”に命を捧げることになる。私はそれを防ぎたくて――防げなかった。私が賢者の肩書を得ると同時に、伯母上は亡くなりました」


 レオニードはじっと己の膝を見つめたまま言葉をつなげていく。

 怖くて、叔父の顔など見ることはできなかった。


「私は、賢者の代替わりとともに伯母上が亡くなる未来に耐えられなかった。だから、代わりにグラシムを……まだ成人する前の彼を、“知恵の樹”に捧げたのです。あの子を生贄とする代わりに、伯母上を誓約から解放してくれと……彼女の命を奪わないでくれと……そう、“樹”と交渉し、私は失敗しました。己の感情に振り回され、グラシムは贄とならず、私が新たな賢者となり、伯母上は誓約に従い“樹”に命を奪われた」


 オデッサ公爵に“知恵の樹”や“黒の森”の情報はないはずだ。

 知らない人間からすると支離滅裂としか思えない話を、しかし彼は黙って聞いている。

 沈黙はレオニードにとって救いでもあり、責められているような恐怖をも与えた。


「グラシムは、みなしごなのだそうです。貧民街で死にかけていたところを伯母上が拾ったと……伯母上は、グラシムにとってたった1人の身内でした。母親だったんです。それを私が奪った……彼の目の前で、伯母上を死なせてしまった……」


 許されるはずなんてないんです、とうめくような声が歯の隙間から漏れた。


「……あの子は、私のもとまでレオを守って導いた。それは、あの子とおまえの答えにはならんのかな」


 戸惑ったようなオデッサ公の声に、レオニードはゆっくりと顔を上げて、首を横に振った。


「恐らく彼の主……義父上になにか言い含められているのでしょう。いつでも殺せるのに、彼はこの5年決して私に近寄ろうとしなかった」

「ふむ…………ということは、だ」


 ぱん、と突然打ち鳴らされた手の音に驚く。

 オデッサ公爵はいつものように飄々とした笑顔を浮かべていた。


「少なくともあの子は賢い。感情に支配されて短慮を犯さないほどの精神力もある。つまり、交渉できる相手だ」

「……そ、そうでしょうか?」

「そうだとも。考えてみろ。力を持て余した愚か者であればレオはとうに殺されているだろう? 時機を待っているだけにしても5年というのはあまりに長い時間だ。話を聞く耳くらいは持っているだろう」


 オデッサ公の中ではそう決まっているらしい。

 彼は自分で出した結論に満足したか、機嫌よさげに酒の瓶を傾け、空になったグラスを手酌で満たした。


「人間は生きていかねばならん。物を食って出して日々を過ごすのだ。常に怨みの牙を研いでおけるほど、あの子は、ろうたけてはおらん。5年の間抑え込まれて不満もあるだろうが、それと同時に様々なものを見聞きして成長する中で、恨み以外の感情も持ったはずだ。おまえたち若者にとって5年は長い……――私が見る限り、あの子はまだ人間らしい心を持っていると思う」


 言って、オデッサ公が手を伸ばしてレオニードの肩を掴んだ。


「あの子を怨みにかたまった鬼にするかどうかはおまえ次第だ。あの子に対して申し訳ないと思うのならば、あの子が人間のままでいられるようにしてやるのが一番だ」

「……いつか私はあの子に殺されてやろうと思っていますよ。それが一番の贖罪では?」

「それほど人間というものはうまくできとらん、レオ。殺してすべてが終わるなら、戦なんぞこの世から消えておる!」


 堂々と言いきられると、そうなのかな、と思ってしまう――オデッサ公爵はまがりなりにも王族であり、自らの土地を持つ領主であり、人を導くだけの経験とカリスマ性を持っている。

 付け焼刃の叡智と他人の地盤を引き継いだだけのレオニードには、まだまだ足りないものだ。

 彼の演説を聞いた人々同様に、レオニードもまた彼の話に耳を傾けてしまう。


「あの子は今はまだ人間で、エリス・ランドスピアが彼の母親であろうとしたならば、彼女もまたきっとそれを望んでいる。そう思わんか? だからおまえは、あの子が道を踏み外さないように導いてやれ。もしもあの子に殺されることがあったとしても、おまえはあの子にそれを後悔させないだけの死に方をしろ。それが、多分おまえにとって最善の贖罪だ」


 最善の贖罪、とレオニードは小さくつぶやく。

 その声をかき消すように落雷の音が響き、グラシムは未だ帰ってこない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る