第42話

 子供の頃、冬になると暖かい暖炉のそばに兄たちや乳母と集まり、本を読み聞かせてもらったり、他愛ない話をしたりする時間を過ごすのが好きだった。

 薪のはぜる音をうつつに聞きながら、レオニードは幼い頃の幸せだった思い出にひたった。

 重たい瞼を押し開けると視界には――黒。

 

 体がうまく動かない。

 なんとか首を回してみると、すぐそばに焚火がある――先ほどの音はこれだったのかとレオニードは腑に落ちたあと、なぜ自分がこんな場所で寝かされているのか疑問に思う。

 記憶の混濁は一瞬で、すぐに全身を貫くような痛みに呻き、自分が仲間に裏切られて射られたことを思い出した。

 だが、そこまでだ。

 獣の口が大きく開いて自分を噛み殺そうとしたところまでは思い出せたものの、そこから先はまったくわからない。

 仲間は、魔獣は、グラシムは――


 そう考えたとき、夜闇の中にさらに黒い影が動いた。

 グラシムだ、と何故かすぐにわかった。

 レオニードが意識を取り戻したことに気づいたらしく、ちらり、と視線がこちらに向いた。


 なんとなく、彼の前でみっともない格好を晒したくなくて、レオニードは軋む体を強引に動かして起き上がろうとし、無様に転倒した。

 グラシムは真っ黒な目でそれを眺めており、手を差し出してくる様子もない。

 だが、感情のない薄い唇がわずかに開いた。


「意識があるなら傷を癒せ。それくらいの魔力は残ってるんだろ?」


 言われて初めて、自分が大怪我をした記憶がよみがえった。

 全身の骨が折れて、2か所射られたうちの1つは腹の奥にまで到達していたはずだ。

 無意識のうちに横腹を手でさすると、服の穴とその下の健全な皮膚が指先に触れた。


「……癒してくれたのか?」

「致命傷になりうるものだけ」


 簡潔な答えを聞きながら、魔力を全身に巡らせて自分の状態を確かめてみる。

 打撲はもちろん小さな骨折が複数個所あるが、確かに放置すれば命にかかわるような傷はない。

 レオニードは傷を意識しながら『陣』を描くも、痛みでうまく集中できない。

 描いたそばから『陣』が霧散するのを呆然と眺めていると、グラシムが呆れたように嘆息して、左腕をこちらに伸ばしてきた。

 ふわりと暖かな布団にくるまれたような感触が全身を包んだのち、あっという間にすべての傷が跡形もなく消え去る。


 レオニードは起き上がることも忘れ、その術の精度に愕然としながら自らの手を見た。

 細かいかすり傷まですべて癒されている。


 レオニードは、グラシムが1級魔術師であるという情報は知っていても、どれほどの力量なのかまでは知らなかった――まさか自分に彼の『陣』を本当に見ることができないとは。

 1級とひとくちに言っても、分類的に「2級より上」という大雑把なものであり、同じ1級であってもピンキリだということも有り得るだろう。

 たとえばエリス・ランドスピアは文句なしのピンであり、同じ1級のレオニードよりも当然格上である。


 そして驚くべきはグラシムの魔術の練度だ。

 魔力があり、適性に問題がなければ、誰だって『陣』の描き方と呪文を知ればただちに魔術を発現させることができる。

 もっとも理屈としてはそうだというだけで、実際に『陣』を練ったり呪文に魔力をのせて『陣』を起動させるためには、それだけでは足りない。

 どのような魔術を発現させるのか隅々まで意識したうえで、複雑な『陣』を間違いなく描き、過不足なく魔力を行きわたらせることを求められる。

 そうでなければ、魔術が発現したとしても十分な効果を得ることはかなわない。

 なにか1つでも欠ければ、とたんにバランスを崩して不発に終わることもある。

 先ほどのレオニードがいい例だ。


 ゆえに、慣れない魔術師は『陣』を描くにも時間がかかるし、慣れたところで多少は時間を要する。

 戦場で魔術師が魔術を使えない兵士と隊を組むのも、これが大きな理由である――言い方は悪いが捨て身の囮を使わないと、多くの魔術師たちは戦場で本領を発揮できないのだ。


 それをグラシムは、吐いたため息が消え去るよりも早く一連の工程を行い、見事な魔術を発現させた。

 どれほど訓練すればそこまでの域に達するのか、レオニードには想像もつかなかった。


「……ありがとう」


 今度こそ深く嘆息してレオニードは起き上がる。

 ひどく寝込んだ後のような倦怠感はあるものの、持参した薬を飲めば朝までにはある程度回復していることだろう。

 無意識に水を探したレオニードは、自分の手の届くところに革袋が置かれているのを見つける。


「それは水かな。もらってもいいか」

「好きにしろ」


 携帯用のカップをこちらに放って寄こして、グラシムはこれ以上は世話を焼かんと言わんばかりにこちらに背を向け、鞄を枕にして寝転がってしまう。

 これまでのような完全な拒絶ではなく、不愛想ながらも十分すぎるほど人間らしいコミュニケーションが成立している。

 今頃になってレオニードはそのことに妙な感動を覚えながら、懐にしまっていた薬を口に放り込み、革袋から注いだ水を飲んだ。

 ついでに携帯食料を取り出し、水気のないそれをちびちびとかじってみる。

 思った以上に消耗しているようで、あっという間に完食してしまい、もう1つ食べるか悩んで我慢することに決めた。

 薬とわずかな食料は懐に忍ばせていたものの、それ以外の荷物はすべて失ってしまった。

 剣もどこかに落としたのか手元に武器となるものがなにもないことが急に心細く思えてくる。


 そうしながら周囲を見回すと、そこはどうやら洞窟だった。

 意識を取り戻してすぐに夜空だと思ったのは真っ黒な岩壁で、グラシムはレオニードを洞窟の入口から少し入ったところに寝かせ、自分は洞窟の外を守るように焚火を起こして地べたに寝ている。

 レオニードの体の下には自らのマントが敷かれており、靴まで脱がせてあった。

 グラシムがそこまで手厚く看護してくれたことの意外さに、放っておけばそのまま死んだだろうに何故と不思議に思う。


 本人に聞くべきなのだろうが、とうの青年はすでに眠ってしまったのか微動だにしない。

 その姿を見ると、彼はこういうところで休むことに慣れているように思える。

 もちろん深くは眠っていないのだろう、寝息どころか呼吸音さえ焚火のはぜる音にかき消されてしまって聞こえない。


 あの日から彼がどのような日々を過ごしてきたのか、無性に聞きたかった。


**********


 寝ずの番をする気でいたのだが、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

 目が覚めたときグラシムは小鍋で水を沸騰させ、冷ましながら革袋へ入れているところだった。

 彼ならば魔術で水を呼ぶこともできるのに、わざわざ煮沸させているということは、近くに水場があったのだろうか。

 魔術で生み出した水は清廉すぎて、弱っている人体にはときに負担になることもある――恐らくレオニードの体調を慮っての行動だと思うと、昨夜以上の感動が胸を熱くした。

 まるで許されているような錯覚を覚え、レオニードは慌ててそれを否定する。

 それだけは、ありえないことだ。


「川でもあったのか?」

「……すぐそこだ」


 顎をしゃくられたほうに進むと清らかな小川がある。

 顔を洗うとようやく気分がすっきりした。

 体も洗いたかったが、それはさすがに自重する。


 洞窟へ戻るとグラシムはおらず、置いていかれたのだろうかと衝撃を受けているところに、上空から真っ黒な青年が降りてきた。

 手元には機密情報であるところの地図があり、どうやら浮遊の魔術で空から現在位置の確認をしていたようだ。


「その地図はどこから持ち出したんだい」

「市長」

「……あとで返しておきなさい」

「もらった」


 まさかと思うと同時に、グラシムがミルスロータ遊学中に市長と面識を得ていたのかも、と考え直した。

 5年前、あんなことが起こる前のグラシムは人懐っこく、すぐに相手から可愛がられるようなところがあった。

 見た目もミルスロータの古い民のようだし、市長が彼を気に入っていてもおかしくはないだろう。


「それならいいんだ」


 グラシムはレオニードに返事を寄こさず、さっさと森の中へと歩を進めてしまう。

 木の根に足を取られるレオニードに対して、今日の彼はペースを落とすことがない。

 いつの間にか大きく育った背中が、全力で「関わるな」と拒絶しているように見える。

 だが、先ほどの水の件といい、今もなお会話が成立していることといい、状況がレオニードを勇気づけた。

 

「どこに向かっているんだ?」


 話しかけると、グラシムは案の定鬱陶しそうな顔をして、それでも口を開いてくれた。


「オデッサ公爵の隊と合流する。まだ信用ができる」

「確かに……彼ならば大丈夫だが」


 この討伐自体がレオニードの暗殺を目的としたものだということを、オデッサ公爵は薄々勘づいていた――野営の最中に親しくしていたから、その際に忠告でもされていたに違いない。

 だが、グラシムがオデッサ公爵を信用している理由はわからない。


 無言で進んでいくのも気づまりで、レオニードは何かないかと話題を探した。


「タルファスの市長とは親しいのか? 地図なんかもらえるとは――」

「……ヴィッテ伯」


 努めて明るい声を出そうとしたレオニードを一瞬で黙らせる、低く迫力のある声だった。


「あんたはそんなこと気にしている場合か?」

「う……」

「あんたがどんな処置をするかなんざどうでもいいが、ミルスロータへ害の及ばないように気をつけろ」


 さもなくば、とは言われなかったけれど、レオニートはその意図をきちんと汲み取った。

 元王族で現領主への暗殺未遂という一大事で、かつ裏で糸を引く相手はティオディス王子とアレクサンドル王子である。

 下手な手を打てば、現地の責任者としてタルファス市長の首が物理的に飛びかねない。


「肝に銘じるよ」


 その言葉に、グラシムはそれ以降何も答えなかった。

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