第38話

 馬を駆けさせれば5日程度で拠点となるミルスロータ自治区へ到着できるはずだが、物資を積み込んだ馬車があるため、到着までは余裕を見て10日程度を予定している。

 行軍は空が夕焼けに染まる頃に停止し、当初の予定通り街道沿いの開けた土地に野営の準備を始めた。

 それぞれの従者が主のために天幕を張り、食事の用意を整えて、不寝番を周囲に立てていく。

 レオニードは自分のことくらいは自分で済ませるつもりだったのだが、仮にも元王子にそれはさせられないと――覚束ない手元を見かねたオデッサ公爵が、自らの天幕に招き入れてくれた。


「きみの従者はどうしたんだ」


 オデッサ公の不審げな顔に、レオニードは食事を摂りながら苦笑する。

 材料だけは持ち込んでいたものの、さすがに1人ではこのような温かい汁物も焼き直したパンも用意することは難しかったに違いない。

 本で読んだことがあったり“知恵の樹”から与えられた叡智があったりしても、実際に経験していなければ手足は思うように動かないのだ。

 まったく同じ理由で今は亡き伯母が息子に料理を担当させていたことなど、レオニードは知らない――“樹”もそこまで私的な記憶は蓄積しないのだから当然だ。


「私から離れたところで勝手に休むでしょう。彼は私の従者……というわけでもないのです。私が頼んでついてきてもらっているだけで、彼は本来義父の騎士ですから」

「エフィム殿か。しかし今の主はきみだろう?」

「彼は私に忠誠心を持っていません。ですが、戦場で刺されることもありません……多分」


 最後の一言は口の中に残した。

 グラシムは恐らくエフィムから、レオニードに手を出すなと命じられ、理由は不明ながらもそれに従っている様子がある。

 最初のうちは突き刺すような殺意を向けられてそのたびに鳥肌を立てていたものだが、グラシムが魔術師としてフォルマを賜ったのち、エフィムの勧めでミルスロータへ遊学し、戻ってきたときにはその剣呑な視線も影を潜めていた。

 ただ、人格が丸くなったということはなく、むしろ誰にも懐かない野良猫のような拒絶を隠そうともしなくなり、レオニード以外の人間からも腫れ物のような扱いをされている。

 エフィムの部下として用事を済ませるために城に滞在している最中さえ、自分の食事は自分で調達するほど、彼の人間不信は徹底していた。


「ふむ……では、少し話をしてみるか」

「叔父上、それはやめたほうがよろしいかと……」

「何を言っている。これから戦場で背中を預けあうのだ。多少人格を知っておきたい」


 それは正論だ。

 言葉を飲み込んだレオニードを置いて、オデッサ公爵が酒の瓶を片手に天幕を出ていく。

 彼の従者が2人、慌てたようにそのあとに続いた。

 レオニードは少し迷ったのち、自分も天幕を出た。

 すでに日が暮れて天幕の外は夜に包まれており、天幕の周りに立てられた松明の明かりがぽつぽつと周囲を照らしていた。


 グラシムは、案外近くにいたらしい――あるいは、そのように誰かに話しかけられるのを察して、いつものように先回りしていたのか。

 従者を少し離したところに配して、オデッサ公爵と2人きりで立ち話をしている。

 酒の瓶を押し付けられそうになったグラシムが丁寧に断っている様子が見えた。

 恐らく天幕に誘われているようだが、それも固辞したらしく、ややあって戻ってきたのはオデッサ公爵たちだけだった。


「見た目のわりに、気のいい若者じゃないか」


 オデッサ公爵の口から出た言葉に、レオニードは目を丸くした。

 5年前から今に至るまで、そんな言葉とは無縁の人間であるとヴィッテでは認識されているというのに。


「グラシムと何を話したのですか」

「なに、食事や寝床はあるのかとか、レオとは仲が悪いのかとか、そのような話を聞いただけだ」


 ずいぶんと思い切ったことを聞く。


「携帯食料を持っているし、天幕がなくとも眠れる気候だから気にするなと言われてしまったよ。レオとは子供の時分に大喧嘩をしてから険悪だと言うから、そのうち私が間に入るので2人でしっかり話をしたらどうかと勧めておいた」


 大喧嘩という一言で済ませられるような出来事ではなかったのだが。


「それは……ありがとうございます。グラシムは、なんと?」

「公爵のお手を煩わせるようなことではありません、とえらく恐縮した様子だったな。彼は北方民族の見た目をしているが、ミルスロータの元王族かなにかなのか?」

「いえ……ヴィッテの平民です。アルスカヤの姓は、騎士位を義父が授けた際に与えたものと聞いています」

「そうか。ならばよほど努力をしたのだろうなぁ。貴族の子弟と言われても納得する物腰だった。平民から1級魔術師が出るとは思えんから、どこかの御仁の落とし胤かとも疑ったのだが」


 グラシムの年齢を考えれば当代の王の子供だと思った、と叔父がにおわせるのをレオニードは黙って聞いている。

 確かに父は好色であるけれど、その可能性はない――と思う。恐らく。


「エリス・ランドスピアの隠し子という可能性は?」

「ございません」


 父のことは若干疑ってしまうけれど、エリスのこととなると話は別だ。

 即答するレオニードを見て、今度はオデッサ公爵が苦笑した。


「まあ、彼の出自はよい。レオ、これは私の勘だが、あれは得難い人材だ。なんとか懐に入れてみなさい」

「……努力は、します」


 ちらりとかつての弟分の姿を探す。

 真っ黒な青年は明かりを嫌ったか、すでに夜の闇に溶け込んでどこにも見つからなかった。


**********


 天候にも恵まれ、討伐軍がミルスロータ自治区に到着したのは、王都を出発して8日目のことだった。

 それまでの道中、オデッサ公爵は隙あらばグラシムに話しかけていた。どうも彼はグラシムを気に入ったたようだ。

 時折グラシムから「このおっさんをなんとかしろ」と言いたげな視線が自分に向くことに気づいてはいたが、レオニードはあえて黙殺した。

 オデッサ公爵を止めることでグラシムが多少なりとも恩義を感じてくれるのならば行動してもよいのだが、彼の抱える怨みはこの程度では薄まりもすまい。


 自治区の行政の中心地であるタルファス市は北方山脈の麓に位置する。 

 市の背後にそびえたつ雪を頂く雄大な山脈に、レオニードのみならず多くの者が目を奪われていた。


「これは見事ですね、叔父上」

「ああ、まるで神々の作りたもうた自然の守りのようだろう? 私も初めて来たときには感動したものだ」


 タルファス市は壁で囲われているわけではないが、市の周囲に柵を張り巡らせ、数か所の検問所を設けている。

 検問所で身分証明書の提示をして通行料を払い、証明書の発行を受けることで、市内で買い物をしたり宿を利用したりする際の料金の割引を受けることができる。

 正確にいえば、証明書を持っていない身元不明の滞在者は、何をしようにもたいそう法外な値段を吹っ掛けられることになるのだ。

 検問所で払う金額自体はたいしたものでなく、たいていの者が正規のルートで街に入るため、タルファスの治安はそれなりに維持されていると聞く。


 平民兵100名は検問所の外で野営の準備を始め、魔術師たちだけが市庁舎で市長と面会することとなった。


「グラシム、どこに行くんだ。従軍中に勝手は許されないよ」


 市に入ったとたんどこかに消えようとしたグラシムに、レオニードが声をかける。

 グラシムはぎゅっと薄い唇を閉じ、答えを拒絶したまま少し視線を伏せたが、やがて大人しく列に戻ってきた。

 馬上から素朴なレンガ造りの街並みを眺めていたレオニードは、ふと、こちらを見物する野次馬たちの視線の多くがグラシムに向けられていることに気づく。

 手を振っている者さえいて、グラシムもまた見たこともないような穏やかな顔で彼らに手を振り返していた。


 もしかしたら先ほどグラシムは、面倒な市長との面会を放棄し、顔馴染みのもとへでも行こうとしていたのかもしれない。

 彼はこの街に遊学に来ていたことがあるのだ。

 見知った顔も多いここは、彼にとって数少ない気の休まる場所かもしれなかった。

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