第36話

 ヴィッテ城の執務室で、レオニードは王の使者と対面していた。

 王の命令を携えているのだからこちらに対してよい感情を持っていないものと持っていたが、使者はむしろ王の被害妄想に付き合わされるレオニードを案じるような態度であった。

 使者を饗応して丁重に王都へ送り返したのち、さっそくレオニードは重臣たちと対応を練る。

 とはいっても、すでに王都の中枢にいる複数の情報提供者から今回の件について事前に知らされていたから、その情報とのすり合わせだ。

 第1王子からすでに人心は離れており、頼まなくとも情報が集まってくる――媚び諂う彼らの真意など、レオニードはなるべく考えないようにしていた。


「3か月後の王都出兵に合流すること、伴えるのは――おや、ずいぶんと減りましたね。たったの10人だそうですよ」

「伯爵の従者が10人だと? 当初は50人程度の兵を連れて行っても構わぬという話ではなかったか?」

「オーレン大臣がそのように働きかけてくださるとはおっしゃっていましたが、かえって陛下の勘気を被ったのかもしれませんな」

「となると、人選をもう少し考えませんと」

「――――人選については私に任せてくれないか」


 年配者の声が飛び交う中、若々しい声が割り込んだ――レオニードの穏やかな表情に、重臣たちは静かな目線で応じる。

 その目に浮かぶ信頼に、レオニードは笑みを浮かべた。


 前ヴィッテ伯であるエフィムに心酔する家臣の多い中、レオニードはこの地に来て以降、なんとか5年かけて彼らに己を認めさせてきた。

 平民などと思わなくもなかったが、エフィムがそうしていたからという理由で、しばしば城下町に降りて民と直接交流を持ってきた。

 エリスの言っていた貧民の現状を目の当たりにし、彼らを救済することで治安の維持や職の斡旋に努めてきた。

 軍の訓練や魔獣討伐には自ら参加し、長幼の序を乱さず、民だけでなく古くからの家臣からの信頼を勝ち得てきた。

 やけに気の強い姑とも粘り強く対話を繰り返し、とりあえずは穏やかな関係を築けているように思う――妻との関係は、あまりよくないのだけれど、それはともかく。


 時折、実兄であるアレクサンドル王子の嫌がらせがあったのも、ある意味でよい結果をもたらした。

 レオニードの力量を見極めようとする家臣たちの目を感じながら兄をなだめ、やりすごし、そして家臣たちもヴィッテ領を守るために一致団結して、王の悪意へともに立ち向かってくれた。

 外敵に狙われる状況が、かえって内側の結束を強くしたというのは、何とも皮肉な話だ。

 

 この会議室にいるのは、今はレオニード自身に対してもそれなりに忠誠を誓ってくれていると信じられる者達である。


「私が不在の間、城代は義父殿にお願いするつもりだ。それでうまく回るだろう? 御隠居様を引きずり出すのは申し訳ないがね」

「エフィム様は従軍したいとおっしゃっていましたぞ。元騎士の血が騒ぐとか」

「ヴィッテの守りを薄くしたくはない。万が一のことを想定したい……」


 レオニードの言う「万が一」が、王子が軍をヴィッテに差し向けることを意味していることに気づき、家臣たちの表情がやや曇る。

 王都からの情報は、複数のルートからヴィッテにもたらされている。

 年々狂気じみてくる第1王子の様子を考えれば、弟憎しでヴィッテに矛先が向いてもおかしくはない――そう思えるほどだ。


「では、閣下の御供はいかがいたしましょう?」

「基本的に、戦力となる者はここに残していく。私は自分の身くらい自分で守れるからね。身の回りの世話をさせるなんてだけの理由で侍女を連れていくのもなしだ。戦場に戦闘能力のない婦女を伴うなど、論外だろ?」

「まあ、奥方様もいい顔はしますまいな」


 苦笑いでそれに応じる。

 妻となった女性は母親の血を継いだようで、悋気がひどい。

 将が戦場に女を伴う理由などたいてい下世話な目的であり、レオニードにその気はなくとも、きっとひどく怒るに違いなかった。

 結婚してから数年が経っても子に恵まれないことも、若い妻をますます気難しくしている原因の一つである。


「というわけで、従軍するのは私ともう1人だけだ」

「たったお2人、ですか」

「ああ――私と彼なら、十分だろう」

「……ですが、それはあまりにも……危険では」


 家臣の目に心配そうな色が宿るのを見て、レオニードは彼らの心を掴んでいることに満足した。


「確かに私と彼はよい関係とはいえないね。でも、大丈夫だよ……まだ、彼は大丈夫だ」


************


「貴き神の御業により、我が声よ疾く疾くゆけ――」


 宙に描いた『陣』に呪文を乗せて魔術を発現させる。

 虚空から現れた白い鳩は大きく空に羽ばたいたのち、そのままくるりと体を反転させて真っ逆さまに落ちていった。


「……そこにいたのか。てっきり街に降りているのかと思ったよ」


 鳩の落ちた先にいた青年に声をかけると、相手は足元で痙攣している鳩を指を軽く振るだけで霧散させた。


「グラシム、3か月後に出兵だ。私と、きみの2人で」

「…………」


 青年は無言でレオニードに右目を向けると、いいとも悪いとも言わずに踵を返した。

 彼は彼でどういう情報網を持っているのか、レオニードが言おうとすることをたいてい先回りして知っている。

 今回も詳細を聞くまでもなく、先ほど終わったばかりの会議の内容さえすでに知っていて、レオニードから呼び出しがあるのを察してそこにいたに違いなかった。


 真っ黒な青年だった。

 目も髪もかつて失われた“黒の森”の闇のような漆黒をして、真っ黒なフォルマがそれに輪をかけている。

 1級魔術師――グラシム・アルスカヤ。

 5年前の線の細さは今もまだ残っているものの、長身のレオニードよりもさらに背が高くなった。

 無駄を徹底的にそぎ落とした筋肉をまとったその姿は、まるでカミソリのような鋭さを感じさせる。

 幼い頃はくるくるよく動いた細い目は、今や氷のように冷たく、感情のひとつも読ませようとしない――左目が失われ、そのせいか常にしかめ面をしているように見える。

 普段からあまりたくさん食べないようで、若さに似つかわしくないこけた頬と尖った鼻梁は、薄く血色のない唇と相まって、陰気でさえあった。


 かつてレオニードは彼の母代わりで師であった女性を死なせる原因を作った。

 身寄りを失ったグラシムを憐れんだエフィムが彼の後見人となり、教育を施し、3年前正式にヴィッテ領の魔術師として登録した。

 魔力も『適性』も1級にふさわしい――いや、それ以上かもしれない。


 通常、自分の『適性』のない魔術は扱いづらい。

 等級が高い魔術師が『適性』のない魔術を発現できるのは、豊富な魔力に物を言わせて強引に発現させているからだ。

 2級以下の魔術師であれば、そもそも発現できないことさえある。

 しかしグラシムの場合、レオニードよりも『適性』に偏りがあるにもかかわらず、どの魔術をも難なく発現させる――のだという。レオニードは直接、彼が魔術を使っている場面を見たことはないので、書類上の登録情報を見ただけだが。

 話を聞いているともしかしたらすべての『適性』を持つのではないかと疑うほどだが、『全適性』などそれこそ神話の時代にさかのぼらねばならぬほど稀な存在である。


 先代の賢者であるエリス・ランドスピアは、『陣』の起動に呪文を必要としなかった。

 レオニードは“知恵の樹”の叡智を受け継いだものの、未だにエリスと同じように魔術を発現させることができない。

 にもかかわらずグラシムにはそれができている。

 それが魔力の量に由来するのか、それとも別の要因があるのか、当代の賢者としては確かめるべきだと誰かが頭の中でささやくのだが、動乱の時代に領主として土地を治めるレオニードには、思索にふける暇も研究に没頭する余裕もなかった。


 だが、若い頃のように胸を焦がすほどの嫉妬に悩まされることはなかった。

 グラシムに対して抱いているのは、ひたすらに罪悪感、それから諦めの混じった恐怖だった。

 いつか彼は自分を殺すのだろう――それだけのことを、自分はしてしまったのだから。


 あの日から、レオニードはグラシムの声を聞いたことがない。

 レオ兄と呼びながら自分のあとを子犬のように付きまとっていた少年の面影は、もうどこにも残っていなかった。

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