第35話
記録上、ヴィッテ伯爵エリス・ペトレンには4人の子がいる――正確には、いた、というべきか。
長男は死産だったというが、娘2人と末っ子次男は無事に成長した。
次女は先日成人を迎え、様々な要因から危ぶまれていた婚約をなんとかそのまま結婚へとこぎつけることができた。
レオニード・カンチアネリはその日王籍を離れ、エフィム・ペトレンと養子縁組をし、レオニード・ペトレンと名を改めた。
エフィムは娘の結婚から間を置かず、娘婿に対して家督を譲る手続きを申請して受理された。
通常、王族が王籍を離れる際には、母親の生家の当主と養子縁組をする。
今回レオニードは特例的にそういった手続きを行わずに、直接ペトレン家に養子として入った。
王国は未だ動乱の最中にあり、金のかかる儀式や手続きを省略したほうが国のためだというエフィムの提言をそのまま受け入れた形となった。
もっともそれは建前で、実際のところ王子の母方は子爵家出身であり、子爵家と養子縁組をしたレオニードは、個人的に叙爵されない限り子爵家としての家格をもって伯爵家へ婿入りすることとなる。
それではいまいち婚家との釣り合いがとれぬという事情やら、様々な要因が絡み合って、そのようなこととなったわけだ。
ペトレン家に直接養子で入れば、婿入りの際の祝い金だけで事が済むし、式の費用もペトレン家持ちにできる――そう考えてしまうほどには、現在の王国は火の車であった。
理由はいくつかある。
最も大きなものは、“黒の森”の焼失に伴い、王国全土へ散らばった魔獣によるものだ。
魔獣は古い伝承に描かれたある意味でおとぎ話のような生き物であり、カンチアネリ王国建国からはほぼ観測されたことのない存在である。
人間ほどではないにしろ魔術を使うし、そもそも非常に凶暴で、人間に対する憎しみでも持っているのではないかというほど執拗に人間を襲う。
家畜を襲うこともあるが、食べることは稀で、襲った人間を食べて腹を満たしているという説もあるほどだ。
しかも普通の剣や槍では歯が立たず、攻撃魔術で屠るか、魔力をこめた武器でしか倒せず、そのようなものを持ちえない平民の被害は尋常ではなかった。
民は魔獣を恐れて今までのように仕事をすることができなくなり、結果、農作物の収穫は各地で激減した。
今は王が勅令を出して税の減免を行い、また各領主が災害時の備蓄を放出しているので、そこまでの混乱は起きてはいない。
だが、それもこれも一時しのぎでしかないことは誰だってわかっている。
さらに王国の混乱に拍車をかけたのは、王が倒れたことだ。
過去に例のない災害による心労か、もしくは年齢的な問題か、とにかく過労ゆえと思われていた王の容態はみるみるうちに悪化した。
特に病という病は見つからないのに、枕から頭をあげることもできなくなるまで、あっという間だった。
宮廷医師の手に負えない状態ならば、いつもなら“黒の森の賢者”に診てもらい、薬を処方してもらうのだが、あいにく先代の賢者は死に、当代の賢者は叡智を操るだけの実力を未だ持ちえない。
叡智というものは持っているだけでは役に立たず、目の前の複数の情報を分析し、己の内に問いかけ、適切な判断を下して適切な処置を行う。
結局のところ経験が物を言うというわけで、これが賢者の本質であり、賢人になりたてのレオニードにはまだ身についていないものだった。
薬の調合に関する知識はあっても、彼はまだなにをどうすればいいのかわからず、己の内に突然流し込まれた大量の知識を持て余しているのが実情だった。
病と闘うため体力をもたせる程度の薬であれば宮廷医師にでも作ることができるし、むしろレオニードよりもよほどしっかりした仕事ができる。
現状、王の代わりに第1王子のアレクサンドルが執務に当たっている。
もともと以前から王の補佐として執務に携わっていたため、病床の王の意向をくんだ政治を引き継ぐことはできていた。
だが、各地でささやかれている「アレクサンドル王子の資質問題」は未だ根深く、民からの支持はあまり得られていない。
この状況では、ほんの少しの失点が大きな反発をもたらすことは必至で、綱渡りのような治世を強いられているアレクサンドル王子が非常にいらついているのも、致し方ないことといえよう。
アレクサンドル王子をいらつかせている問題は他にもあり、臣下に下ったはずの弟の存在――というより、それを含めたヴィッテ領のことである。
この前代未聞の魔獣災害に対してヴィッテは、自領の民に施すだけでなく、他領にも救援物資を送るだけの余裕を見せた。
賢者として十分に働けないことへの贖罪に、領主としては王国に貢献したいという名目で。
もとが豊かな農地を抱える領であるとはいえ、先を見通せない情勢の中、それだけのものを簡単に放出することなど普通はできない。
民の間でヴィッテ伯レオニード・ペトレンの徳政を讃える声が日増しに高くなり、それに反比例するように王家への信頼が揺らいでいく。
――王家は愚かだ。あれほどの器を持った方を臣下に落とすとは。
――ヴィッテ伯を見たか。まるで王者のような風格であったぞ。
――城から一歩も出ず、平民など虫けらのようにしか思わん陛下よりも、汚泥に膝をついてでも我々に手を差し伸べてくださるあの方こそが、王にふさわしいのではないか。
そんな風評が王国中を巡り、宮廷をも静かに侵食していく。
アレクサンドル王子が宮廷を掌握することもできず、貴族たちが静かに分断を強くし、しかし王は病床から起き上がることもままならない。
王国軍だけでなく各地の領主が奮闘した甲斐あり、大陸中の魔獣被害は少しずつ落ち着いてはきていたものの、未だに平和とは言い難く、王国の弱り目を狙い続ける南部と北部の諸外国との関係も悪化したまま、そうして王国が“黒の森”を失った日から5年が過ぎた。
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王家が長子相続となったのは、さほど古い歴史ではない。
魔術立国であるカンチアネリの長は強大な魔術師であるべきだという考えは民の中にも根強く残っており、青き血の正統性を魔術の素養に求める貴族の考え方など言うまでもあるまい。
平民と貴族の違いは、魔術の素養の有無と強さにあり、ゆえに強い魔術師のほうが尊いという思想は、貴賤を問わず心のどこかに残っているものなのだ。
「レオニード・ペトレンを捕縛せよ!」
いらついたアレクサンドル王子の怒声が執務室に響く。
実弟をわざわざ婿入りの家名入りで呼ぶことは常のことで、周囲の者たちは王子の癇癪に「またか」とうんざりした顔を押し隠して主をなだめた。
うまくいかないことがあると、この王子は優秀な実弟に嫉妬を爆発させる。
この5年のうちに、ますます名声を高めたレオニードは、王子にとってはまごうことなき目の上の瘤であった。
「陛下、どのような罪で捕縛するとおっしゃるのです」
王子の教育係としてついていた第一省大臣が苦言を呈する。
アレクサンドル王子から人心は離れ、今はもう彼くらいしか王子へ諫言する者はいなくなっていた。
大臣はそのことに危機感を覚えてはいるものの、正直なところ王子を持て余してもいた――これが即位すればますます増長するであろう、とも。
今はまだ病床の王が重大な問題に関しては最終的に判断を下すため、致命的な失策には至っていない。
だが王の余命は恐らくあとわずかで、そのあとを考えると、大臣でなくとも頭が痛い。
「どのような罪でもいい! おまえたちが考えるのだ!」
「ヴィッテ伯の善政は広く知れ渡っております。王家への反感を買うことになりますぞ」
「いつもいつもおまえはそれしか言えんのか! それがなんだというのだ!」
インク壺が宙を飛び、大臣の顔に危うくぶつかりかける。
不運な従者が彼の後ろでインクを頭から浴びて悲鳴を上げた。
「あの愚弟を放置すれば、正当なる玉座を簒奪しかねないのだぞ! この5年でどれだけあれが力をつけたのか、おまえたちにはわからんのか!」
まるで駄々をこねる子供のようだ。
若い頃はこうではなかった。
人格的にやや欠点はあっても、それがかえって人間らしくて親しみやすいと周囲は思っていた。
潔癖なレオニードよりもよほど心のある政治を為してくれると期待していたのだ。
それなのに――優秀な弟の存在はあっても、父のあとを継ぐのは自分であると慢心したせいだろうか、いつしか彼の体は醜く肥え太り、人柄もどんどん頑なになってしまったように思う。
主の機嫌を損ねてでも諫言し、止めるべきであったと悔やんでももう遅い。
「……ああ、そうだ。レオニード・ペトレンの忠誠を試す方法があったな」
ふと、低い声で笑うように言った主に、大臣は目を瞬かせる。
「なにをお命じになられるのです?」
「あれは魔術師としての才があるとうぬぼれておる。北方山脈への国軍派遣に際して、あやつに従軍を命じる」
「……陛下、彼は賢者です」
「“黒の森”はとうになく、“知恵の樹”も行方知れずだというではないか。あれがヴィッテから離れられない理由はないのだ。そうだろう?」
王はにんまり笑うと、大臣へと威圧的に言い放った。
「ヴィッテ伯爵レオニード・ペトレンへの勅命を発せよ。3か月後の出兵に従軍するように、と。領軍を率いてくることは許さぬ。レオニード・ペトレン本人と、その従者のみを連れてくるように――断れば、王家への叛意ありと見なす、とな」
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