第34話
まるで手負いの野良猫のようだ、とエフィムは思う。
少年はそれを抱きかかえたまま意識を失い、引き剥がそうとしても決して腕の力を緩めなかったため、そのまま牢に放り込んでいたのだが、意識を取り戻してもそのままの状態だったようだ。
大事そうにそれを抱きしめた格好で、壁に背中を張り付けるようにしてじっと座っている。
森の中で倒れているところを発見してから3日後――意識のない彼がどのような反応を返すかわからず洗浄ひとつできなかったおかげで、全身に乾いた血がこびりついたまま、吐き気を催すほどひどいにおいを放っている。
においのもとは血だけではない。
彼が抱きかかえているモノが、冬とはいえ、怪我人を寝かせておくに充分なだけ暖められた部屋の中で、さっそく腐敗を始めているためだ。
「やあ、体調はどうだい」
努めて明るい声で話しかけるも、少年は何の反応も寄こさない。
極端に瞬きの少ない真っ黒な目は何も写しておらず、感情がごっそり抜け落ちたように表情一つ動かさなかった。
護衛の騎士に動かぬよう手ぶりで伝えたのち、エフィムはゆっくりと――傷ついた野良猫を驚かさぬよう、彼の視界になるべく入るような位置取りを心掛けつつ、少しずつ近づいて行った。
「……ラシー……いや、グラシム・アルスカヤ。私の声が聞こえるかね?」
エフィムの問いかけに、いやになるほどゆっくりと、緩慢な動きで少年――グラシム・アルスカヤが黒い瞳だけを動かしてこちらを見た。
エフィムは辛抱強く彼と視線を合わせたまま、敵意のないことを示すために、そっと彼の前に膝をついた。
そのまま沈黙が続いて――乾いてひび割れた唇がかすかに動いてかすれた声を発する。
「……ランドスピア。グラシム、ランドスピア」
ようやく反応が返ってきたことに、エフィムは内心ほっとする。
心は死にかけていても、頭までは壊れていなかったか。
「残念ながら、きみが成人を迎える前にエリス・ランドスピアは死亡してしまった。だからきみはランドスピア姓を名乗ることはできないんだよ」
エリスがエフィムに依頼していた養子縁組の件は、グラシムが成人を迎える新年の初めの日に受理される予定だった。
だが日付が変わる前に彼女が死んでしまった――とエフィムが推測してそう結論付けた――ため、エリスの願いは水に流れてしまったのである。
グラシムはそれを聞いても顔色を変えることなく、「そう」とだけ呟いて、また自分の内側にこもるように、胸に抱いたそれに顔をうずめた。
何故、エフィムがアルスカヤという家名を知っているのかなど、今の彼にはどうでもいい話なのだろう。
「なあ、グラシム。彼女をそろそろ葬ってやらないか。このままでは可哀想だ」
エフィムは吐き気を堪えながら、グラシムの腕の中で腐りかけている首なしの死体を指した。
女性にしては長身な部類で常に堂々としている印象のあったエリスだったが、こうやって見るとその死体はひどく小さく、そして哀れに見えた。
「……首を取られたままじゃ、神様のところへ還れない」
対話をする気は失っていないようだ。
グラシムの低い声に、エフィムは「そうだな」とゆっくり頷く。
「彼女の首は、今どこにあるのだろう」
「“樹”が持っていった」
ぶわっと――唐突にグラシムの体から黒い霧が吹きだした。
とっさに主を守ろうと駆け寄ってきた騎士を、エフィムは逆に突き飛ばすように牢から押し出して、扉を内側から閉めた。
“黒の森”を染めていた黒い霧はエフィムに対して害を及ぼすことなく、あっという間に虚空へ霧散して消えていった。
思考を奪うようなめまいに必死に抵抗しながら、エフィムは歯を食いしばって問う。
「……グラシム、きみが憎いのは誰だ?」
「“樹”。それからレオニード・カンチアネリ」
「なるほど」
記憶も、ちゃんと残っているらしい。
安心した。これならばまだ使える。
「……グラシム、賢者殿は……エリス殿は、確かに“知恵の樹”が捕まえてしまったのだと、私もそう思うよ」
「…………」
「ならば、取り返すことを考えないか。彼女の、首を」
グラシムの顔がわずかに上を向き、感情のない漆黒の目がエフィムを真正面から見据えた。
まるで闇がそこに渦を巻いているような底知れぬ目をしていた。
だが、ふとエフィムは気づいてしまう。
左目の色がおかしい――黒の瞳孔を囲むように菫が散っている。
「……彼女の体は、私が責任をもって弔おう。そうして首を取り返すことができた暁には、首もともに葬ってあげよう。それが、きみの望みではないのかな?」
「……俺は、エリスに生き返ってほしい」
ぎゅっとエリスの死体を抱く手に力がこもるのがわかった。
「そうだね……私も、それができればどんなによいかと思うよ。だけど、人がどんなに魔術を……神々の奇跡を操ったところで、人は人であることからは逃れられない。死んだ者を生き返らせることはできないんだ」
グラシムが再び顔を伏せてしまう。
恐らくこの少年にもそんなことはとうにわかっているのだ――受け入れたくないだけで。
「もしきみがそうしたいのならば、私はきみの力になろう。ただし、いくつか条件がある」
「別に力なんていらない」
「そうかな。今はそうかもしれない……だけど、きっとそのうちそうも言っていられなくなる。なんせ新しい賢者殿は、第10王子殿下なのだから」
ぎりっ……とグラシムが自らの左腕を掴んだ右手に力がこもり、爪が皮膚を破って血がにじんだ。
悲しみよりも怒りのほうがまだ動けるだろう――エフィムはそっとグラシムの指に触れてやる。
人間のそれとは思えぬほど冷たく、もしかしたらこの少年もすでに人ならざる者になってしまったのかもしれない、と妄想をしたくなるほどだ。
「……俺は何をすればいい」
「いい子だ、グラシム。まずは、王子殿下に手を出さないでくれ――ああ、ずっとというわけじゃない。物事には機というものがある。憎しみを捨ててほしいと言っているわけではないんだ」
一瞬噴き出した黒い霧に動揺しながら、エフィムはなんとか平常通りの声を出すことに成功した。
グラシムにエフィムを積極的に害するつもりがないうちは無害だが、そうでなければこんな至近距離で黒い霧を浴びてしまえば、正気を失っていてもおかしくない。
「その代わりきみには我らペトレン家が守ってきた“黒の森”と“知恵の樹”についての記録を公開する。我々が持っているすべてをきみに与え、きみが活動する際には、きみの後見人となろう。そしてきみがエリス殿の首を取り返したならば、王子殿下をきみに捧げよう――」
エフィムのささやきに、グラシムは身動ぎひとつしなかった。
失敗したとは思わない。
グラシムの目には先ほどまでと違い、明確に意思が浮かんで見えた。
「もしきみが承諾してくれるなら、最初にきみの左目を取らせてくれないか」
「……目?」
「ああ、もしかして“知恵の樹”になにかされたんじゃないかな。色が変わってる――きみは知っていたかな? 賢者殿の目は“知恵の樹”との誓約により、その視界をすべて共有される。確信は持てないけれど、きみの左目は恐らく“知恵の樹”とつながりかけているのだと思う。これからきみがすることを考えれば、その目はリスクにしかならない」
「……間違いなく左目だな?」
「ああ」
答えた次の瞬間、エフィムは思わず身を強張らせた。
グラシムが何のためらいもなく左の眼窩に手を突っ込み、眼球を抉りだして、エフィムの足元に無造作に投げつけたのだ。
「それで、俺はなにをすればいい?」
顔の半分を血に染めて、グラシムの顔に初めて表情が戻る。
獰猛な、獣じみた笑顔だった。
「……やらねばならないことはたくさんある。でもまずは、ここを出て、風呂に入ろう。そうして、エリス殿を葬るんだ」
「わかった。だが、エリスは渡さない。俺が葬る」
ほんの少し前まで頑なに動こうとしなかったグラシムが、エリスの体を横抱きにしたまま立ち上がった。
エフィムも慌てて立とうとし、いつの間にか足が痺れて転倒しそうになりながらも、なんとかこらえて牢の扉に手をかけた。
顔からぽたぽたと血を滴らせながらエフィムのあとをついてきたグラシムが、ふと、牢の天井を見上げた。
「ここは俺の育ったところに似てる」
「……覚えているのか?」
「グレゴリーという男がいた……あんたも来たことがあるな、そういえば」
再び急激に温度を失うグラシムの声に、エフィムはどっと脂汗が噴き出すのを感じながら、恐る恐る少年を振り返る。
だが予想に反して、グラシムの顔にはなんの感情も浮かんではいなかった。
「――きみは、私の息子なんだよと言ったらどうする、グラシム」
「…………俺の親は、エリスだけだ」
小さく応えた少年の内心を、エフィムには推し量ることもできなかった。
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