第33話

「これはまた手ひどいものだ」


 エフィム・ペトレンは、文字通りを眺めて薄く笑った。

 周囲には木々の燃えたにおいが充満し、燃え残った樹々や地面からは未だに煙が立ち上っている。

 夜明け頃に彼らが森に到着したとき、森は激しく炎上しており、突然降り始めた大雨がなければ、一歩も立ち入ることはできなかっただろう。


「――閣下、発見しました」

「どちらだ」

「殿下です」


 探索に出していた部下が引きずってきた黒焦げの人間を、エフィムは無表情に見下ろす。

 さすがはだけあって、の吹き荒れる中、防御しきったようだ。

 真っ黒に焦げているのは衣服で、その下もそれなりに火傷を負ってはいるものの、これくらいであれば命に別状もないだろう。

 多少跡は残るかもしれないが、ヴィッテの抱える治療師でも治してやれる程度だ。


「馬車へ運べ。治療師は1名だけつけて、残りの治療師は全員待機。死なない程度に命をつなぎながら城に到着できればいい」

「かしこまりました」


 本命はではないのだが。

 エフィムは周囲を見回しながら馬を進め、突然飛び掛かってきたに迷うことなく攻撃魔術を叩きこむ。


「森にはあとどれほどが残っていると思われる?」

「はは、検討もつきませぬな。だが、大半は森から逃げ出したと思ってよいでしょう――獣の死体が、あまりに少ない」


 そばで軽口を叩く腹心に笑みを返す程度の余裕はある。

 しかし馬の方はそうではなかったようで、ただでさえ火災後の煙で機嫌を悪くしていたところに、未知の獣に襲われたとあっては、それ以上進まなくなってしまった。


「やむを得ん。馬が落ち着くまで我らはここで待機する。動けるものは馬を置き、付近の捜索に当たれ」

「はっ」


 数名の部下が徒歩で焼け残った森の中に散っていく。


「閣下は、あれが生きていると思われますかな?」

「無論だ。私の血が入っているのだぞ」

「まったく、理屈はわからぬが説得力はございますな」


 朗報はさほど時間を置かずにもたらされた。


「意識はあるのか?」

「いえ、ただ目立った傷はなく、呼吸もしかと」

「よかろう。では馬車へ移して、城へ急ぎ戻るぞ」


 馬をなんとか宥めながら森を抜ける。

 途中の街で馬を替え、急ぎ城に戻ったときにはもう夜半だった。


「とんでもない年越しでございましたな」

「まったくだ――私は仮眠をとるが、あれの意識が戻り次第、叩き起こしてくれて構わない」

「閣下、まずは風呂に入ってくださるよう。私も閣下もひどく焦げくさくなっております――と、侍女が笑っております」

「……なるほど、鼻が馬鹿になっておるわ」


 侍女に風呂を用意させ、何度も髪と体を洗わさせて、ようやく煙のにおいが落ちた。

 さすがに一昼夜ほとんど寝ずに行動したため、長椅子に体を横たえたとたん、疲労と睡魔が一気にやってくる。

 深く眠りすぎないように気をつけていたはずだが、気がついたときにはすっかり日が昇っていた。

 侍女を呼び身支度を整え、部下に状況を聞く。


「殿下の方は、治療途中です。命に別状はございませんので、多少時間をかけてでも体に負担のないよう治療を継続すると治療師が申しております。王都への報告は、ひとまず殿下が森林火災に巻き込まれて負傷し、御命に別状はないとだけ」

「それでよい。詳細はまだ伏せておけ」

「はっ」

「それで、はどうだ?」

「まだ眠り続けております。目立った外傷はないのですが、魔力がほぼ尽きた状態のようです。回復薬を飲ませておきました」

「わかった。動きがあれば報せるように」


 朝食というには遅く、昼食というにはやや早い食事を摂る。

 どうにも疲労が抜けないことを自覚し、自分ももう若くはないのだと思う。

 本来であれば、いかに領主とはいえ新年は休暇期間である。

 だがなんとなく落ち着かず、執務室に向かう。

 窓から見下ろした街は新年らしく浮かれ、多くの人々が通りにあふれていた。


「閣下――後発隊が、これを」


 執務室に顔を出した部下が、森で燃え残ったものを発見したと報告してきた。

 これは役に立つと内心喜びながら受け取り、部下をねぎらい、自分も椅子に腰を下ろして目を閉じた。


 うつらうつらしているうちに侍女が執務室の扉を叩き、何か口に入れたほうがよいと軽食を運び込んできた。

 朝食を残したことを気にかけてくれていたのだろう。

 侍女という肩書ではあるものの、実際は妻のような立場の女である。

 正妻の従妹にあたる女で、正妻に遠慮して表立って寵愛されることを望まなかったため、彼女とエフィムの関係を知っているのは、ごく一部の人間に限られる。

 苛烈な性格の正妻と違い、穏やかで細かい配慮をしてくれる彼女のことを、エフィムは大切に思っている。

 皿を置いて部屋を出ようとする侍女の腰を、エフィムは優しく抱えて離さない。

 仕方のない人と言いたげなため息とともに、細い腕がエフィムの頭を抱き寄せた。


「……閣下、どうぞご自愛くださいませね」

「きみがいてくれるならずっと健やかでいられる気がする。今夜は、寝室に来てくれるね?」

「もう…………」


 苦笑いしながらも、彼女が決して自分を拒まないことをエフィムは知っていた。

 正妻と妻子は同じ城内にいるものの、執務室のある本館へ足を踏み入れることはない。

 エフィムは有能な領主としてそれなりに日々を忙しく過ごしており、本館で寝泊まりすることも多い。

 夕食くらいは顔を出さねば怪しまれるだろうが、それが済み次第、本館に戻ろうと柔らかい女の腰を撫でながらエフィムは決意する。


 そうやって強いていつも通りの生活を送らねば、自分がどうかなってしまいそうだった。

 いくつもの不測の事態が起こり、挙句賢者の手にあれが渡ったときにはもうすべて終わったと思っていたのに、最終的にはもとの軌道に戻ってくるなど、誰が予想しただろうか。


 彼の希望は未だ冷たい石の牢で眠りにつき、朗報がもたらされるのはもう少し後のことになる。




 この年の初めに、王国を震撼させる出来事がいくつも起こった。

 “黒の森”の焼失。

 レオニード・カンチアネリ第10王子の賢者継承。

 そして間を置かず、“黒の森”から大量に生じた異形の獣――魔獣が大陸中に広がり、次々とその数を増やし、甚大な被害をもたらすようになった。


 国を揺るがす騒動の中、エリス・ランドスピアの死はあまりに小さくて、その息子であるグラシムのことなど彼女の死以上に誰の口にも上らず、あっという間に忘れられた。

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