第32話
エリスの視界はすべて“知恵の樹”に共有されている。
だが、そのときばかりは“知恵の樹”が意識のほとんどをグラシムに向けていたことが幸いした。
エリスは真っ暗な森の中、確かにグラシムの姿を認め――“樹”が何をしているのかを当然に悟り、グラシムを傷つけないぎりぎりのところまで出力を上げた熱光線を解き放った。
目標に着弾した瞬間、爆発するおまけつきの、エリスのとっておきの魔術である。
グラシムの首に巻き付いていた蔓は爆発に巻き込まれてちぎれたようで、少年の体が吹き飛ばされる。
エリスは飛行の術を制御し、すでに自分と変わらない身長のグラシムの体を受け止めることに成功した。
見れば、細い蔓が執念深く彼の左目に刺さったまま蠢いている。
「うちの子に何してくれてんだい!」
怒鳴りつける勢いのまま、しかし指先は慎重に蔓をつかみ、目の中からずるりと引き抜く。
自分もかつて誓約を結んだときに経験しているからわかる。眼球は傷ついてはいないはずだ。
『なに、とは?』
男が――“知恵の樹”が冷ややかに笑いながら立ち上がった。
エリスの熱光線を受けた腹は真っ黒に炭化しているものの、軽く手で払うとぱらぱらと焦げたところが地面に落ち、攻撃を受ける前と同じ見た目に戻る。
『その子供が自ら望んだのだ、賢者の地位を継ぐと』
「まさかもう耄碌したってんじゃないだろうね。賢者が生きているうちは、己の後継者は賢者自身が選ぶんだ。あんたが選べるのは、私が後継者を見つける前に死んだときだけさ――それが、誓約だろう!」
『それは間違いないのだが、そこの王の子がな、おまえがグラシムを捧げないというのだ』
突然名指しされたレオニードが、視界の端でびくりと体を跳ねさせるのが見えた。
先ほどの爆発に巻き込まれて足をくじいたのか、立てないでいる。
「レオ! あんたに対するお説教は後回しだ。さっさとその足を治しちまいな!」
目線を“樹”に向けたまま怒鳴りつけると、レオニードはあたふたと自ら魔術を発現させて治療を開始する。
「まったく、“知恵の樹”ともあろう者が、こんな子供たちの言うことを真に受けるとはね」
『そうかな? 案外、ありうべき話だと思ったぞ』
“樹”は面白がっている――そうだ、もともと性格の悪いやつだ。
どちらに転んでも自分に損がないことをわかったうえで、エリスたちが右往左往するのを楽しんでいる。
『では問うが、エリス・ランドスピアよ。何故その子供にランドスピアと名乗らせる?』
「息子が親と同じ家名を名乗って何が悪いんだい」
『悪いに決まっている! 魔術師が真名を損なえば、どうなるか!』
(……気づいていたか。ま、そりゃそうだろうさ)
「それでも影響ないほどに強力な子だよ、この子は。むしろ多少抑えてやった方がいい」
『それが、賢者の判断か』
「そうだ」
『ふむ――では、おまえはグラシム・ランドスピアと名乗らせるその子供を我々に捧げる気はあるのか?』
「それは、これから本人が決めることだ。この子が私の跡を継ぎたいと言えば、そうするし、言わなきゃ他を当たるさ」
『話にならんな。そう思うだろう、レオニード・カンチアネリ』
ようやく立ち上がったところでまたしても突然話を振られ、レオニードが顔色を変えた。
だが、彼は今度は黙らず、必死に口を動かして言葉を吐き出した。
「私が、後を継ぐ」
「レオ?」
「黙っててくれ、伯母上! 私が、あなたの跡を継ぐ! “知恵の樹”よ、私は伯母上には到底及ばないが、王国では屈指の魔術師だ。不足あるまい」
『はは、そうか――エリス・ランドスピア、おまえの周りにいる若者たちはなんとも献身的だな。魔女の魅力にたぶらかされたとみえる』
「レオ、何考えてんだい!」
「――うるさい!」
レオニードが絶叫した。
まるで子供が癇癪を爆発させるように、感情をむき出しにしてエリスを睨みつける。
「私は子供の頃から伯母上の弟子にしていただきたいと、あれほど切望していたのだ! 私は王になれぬ! ラシーがいる限り、王国一の魔術師にもなれぬ! そうであれば、伯母上と同じ高みに至るには、賢者の後継者となるよりほかはないではないか!」
「レオ、この馬鹿たれが……!」
レオニードはそれ以上エリスと問答する気はないようだった。
「聞け、“知恵の樹”よ! 私が次の賢者となる!」
『承った』
簡潔な一言。
“樹”から素早く伸びた枝が、レオニードの両目を襲う。
エリスは先ほどと同様に『陣』を描き、魔術で“知恵の樹”を襲――おうとして、とっさに腰に下げた剣を抜き、いつの間にか足元に忍び寄って、グラシムの足首に巻き付こうとしていた蔓を切り払った。
“知恵の樹”が本気でグラシムを狙ったのか、それとも先ほどの熱光線を再び味わうのはいやだったからなのか、それはわからない。
だが、その一瞬の逡巡が致命的な隙となった。
「――――――――――っ!!!」
レオニードの悲鳴が響き渡る。
エリスが意識を切り替えて『陣』を描こうとするたび、何本もの蔓が邪魔をした。
「くっ……」
腕の中にはようやく意識を取り戻しかけたグラシムがいる。
とにかく今は、この子を、この場から離さねば。
「つらいだろうけど、少し動くよ、ラシー」
「エリス……来てくれたんだ」
傷だらけの顔で笑うグラシムが、ひどく幼く痛々しかった。
「当たり前さね。どこで迷子になっても、必ず迎えにくると約束したろ」
「……うん」
「さ、掴まれるなら捕まってな。行くよ――――」
グラシムの体を抱き寄せ、少しずつ“知恵の樹”から距離をとる。
“樹”はエリスたちよりもまずレオニードを優先しているのか、蔓が威嚇するように揺れても積極的に攻撃をしようとはしない。
そっと飛行の魔術を発現させたとき、レオニードがこちらを振り返っているのが見えた。
両目には未だ蔓が刺さっていて、まともに視力などあるわけもない。
だが、はっきりとこちらを見て、まるで泣いているような声で、
「伯母上」
そう言った。
ほんの一瞬、それに気を取られただけだったのだ。
蔓がかつてない速度で地面から跳ね上がり、エリスの首を切り飛ばした。
「あ」
小さな頭が闇の中、金の糸を流すように髪を散らして宙を舞う。
時間が止まったように、グラシムには思われた。
「ああ」
菫色の目を限界まで開いて驚いたような顔をしたままのエリスの首を、地面に落ちる寸前で蔓が巻き取る。
蔓はするすると大樹のもとへ戻り、まるで戦利品のように空高く掲げてみせた。
夥しい生首たちが並ぶ中、真っ白で艶やかな肌と髪の美貌の頭が、夜の闇にひどく浮いて見えた。
「ああああああ」
一拍遅れて、残された体から大量の血が噴き出した。
エリスの体温をそのまま残す真っ赤な血液は、グラシムの頭を、顔を、胸を、手足を容赦なく濡らしていく。
しっかりと自分を捕まえていたはずの腕から力が抜けて、後ろ向きに地面に倒れこんだ。
「ああああああああああああ!!」
叫んでいるのが自分であることに、グラシムはとうとう気づかなかった。
背中が割れ、体の中から真っ黒な何かが這い出して来る。
目から、口から、耳から、真っ黒な何かが漏れ出していく。
真っ黒な――そう、夜の“森”の闇のような、何かが。
『しまっ――』
少年の体から吐き出されていく真っ黒な何かは、地面を汚し、空気を濁し、“黒の森”全体へ広がっていく。
獣たちが狂気に陥り、猛々しく吠え狂う声が響き渡る。
「許さないゆるさないユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイ」
変声期を終えたばかりの少年のそれとは似ても似つかぬ声が喉から迸る。
「我ラガ怨ミヲソノ身ニ受ケルガヨイ、簒奪者ヨ!」
“知恵の樹が”絶叫した。
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