第31話
レオニードから「エリスが死んでしまったらどうする」と聞かれた。
人はいつか死ぬしエリスもきっと死んでしまうのだろうけれどまだそのことは考えたくない、と答えた。
レオニードから「エリスが死ぬのを防ぐことができたらどうする」と聞かれた。
できることがあるなら全部する、と答えた。
レオニードから「たとえば、おまえの命と引き換えにエリスを助けられたらどうする」と聞かれた。
命だってなんだってあげる、と答えた。
「――――ん」
目が覚めたとき、強い風の鳴る音が耳元でごうごうと響いていた。
グラシムはエリスに抱えられて空を飛んだことを思い出し、今もまたエリスと一緒にどこかに向かっているのだと、霞のかかった頭で思った。
目は開いているはずなのに何も見えない。目隠しでもされているらしい。
手も足も動かない――何かで拘束されているようだ。
それよりも、頭がひどく痛んだ。
右のこめかみあたりが特にずきずきと痛んで、意識がまた飛んでしまいそうだ。
実際、失神していたらしい。
乱暴な手つきで目隠しをむしられた勢いで目を開いたグラシムは、懐かしいにおいで自分が今“黒の森”に帰ってきたことを悟った。
「……“知恵の樹”はどこにある」
低い、恫喝を隠そうともしない凶暴な声。
めまいと痛みでふらふらする意識で、今自分を焼き殺しそうな目で見ている相手がレオニードであることを認識する。
何故、と考えるより先に頬を平手打ちされた。
「どこだ」
「知らない……でも、きっとわかるよ」
舌がうまく回らないままかろうじて答えると、レオニードは大きく息を吐いて、グラシムを荷物のように乱暴に持ち上げた。
「どちらだ」
右目が開かないので左目だけで周囲の景色を観察し、今自分たちがいるのが、“森”のちょうど東に位置する場所であることを確認する。
普通ならば印もなくわかるものでもないのだが、このときのグラシムにはわかった――それが何故なのか、理解するには血が足りない。そうだ、頭を殴られて血がたくさん出た。痛い。気持ちが悪い…………怖い。
「このまままっすぐ……多分、“森”の真ん中」
グラシムはこの2年半、エリスとともに“森”で薬草や果物を採ったり、獣を狩ったりして暮らしていた。
“知恵の樹”に会わせてもらったことはないけれど、さほど広い森ではない。
自分の頭の中に描いた地図の中で、中心に近いところだけが空白である――そこに“知恵の樹”があるのだろうと見当はつけていた。
ふわり、と体が持ち上がる。
レオニードがグラシムを抱えたまま、わずかに地面から体を浮かせて、滑るように進み始める。
ああ、エリスみたいな魔術を使うんだなこの人は、と再びぼんやりしてきた頭で思う。
すでに日は暮れ、“森”は夜の眷属のものとなった。
周囲には獣の気配があるが、不思議と何も襲ってはこない。
痛みとめまいにうめきながらしばらく運ばれて、不意に強烈な気配にレオニードが進みを止まる。
夜の闇が形をとったように、圧倒的ななにかがすぐそばにある。
「……そこにいるのが“知恵の樹”か!」
叫ぶレオニードの声も震えている。
グラシムは乱暴に地面に投げ落とされ、うつぶせになった背中を踏みつけられた。
ようやくそこで、自分が理不尽な暴力にさらされていることに意識が向いた。
何故、レオ兄が。俺を。
『……魔女ではない』『王子』『末の王子だ』
『それから息子』『何をしにきた』『魔女ではない』
闇の向こうから無数の男女の声が響いてきて、グラシムは踏みつけられたままの姿勢で必死に首を伸ばして正面を見る。
真っ黒な、そこにだけ墨を流したように真っ黒な霧。
冬にはとても似つかわしくない生温い風が吹いて、闇をほんの少し吹き飛ばした。
「――――………!」
レオニードが震え、足の力が少し弱まった。
だが、グラシムも動けなかった。
闇の向こうに屹立する巨大な“樹”。
その枝からは無数の縄のようなものが伸び、縄の先端には生首が吊り下げられていた。
しなびた生首の目はうつろに落ち窪み、穴だけが残された鼻と口から、笑い声に似た音がけたたましく響いた。
異様な臭気は、闇を溶かした霧のにおいだろうか。それとも。
『……レオニード・カンチアネリ。王の子』
低い声がすると同時に、生首たちの狂乱がぴたりと止まる。
いつの間にか“樹”の根元に1人の男が立っていた。
首には絞殺刑を受けた罪人のごとく“樹”の蔓が巻き付いているが、彼だけは生首ではない――顔は腐っているものの全身がある。
『私が“知恵の樹”である。用向きを伺おう、招かれざる客人よ』
「……エリス・ランドスピアの身について、交渉しにきた!」
レオニードが叫ぶ。まるで自分を鼓舞して震えをおさめようとするかのごとく。
『交渉、か。賢者でさえないおまえが、なにを言いにきたという』
「エリス・ランドスピアは、おまえたちに捧げられた贄であると知った! ゆえに、私は代わりの贄を用意した!」
レオニードが、ぐい、とグラシムの首を乱暴に鷲掴みにして“樹”に向かって差し出した。
息が詰まってむせるグラシムを、“樹”が冷ややかな目で見下ろす。
どこか金属的な、硬質な紫の目が闇の中で一瞬光って見えた。
『それが、贄、というのか』
「そうだ! エリス・ランドスピアをもしのぐ魔術師の才能がある! この者をおまえたちに捧げる代わりに、彼女を解放しろ! 彼女を失うわけにはいかないのだ!」
男が――夥しい数の生首たちが一斉に哄笑する。
まるでおぞましい虫の羽音のようなそれに、レオニードのみならずグラシムも全身を強張らせた。
『愚かな! 新たなる贄を捧げるのは、当代の賢者のみ。おまえは“樹”と賢者の誓約を知らぬ』
「そうだ、私は誓約を知らない」
圧倒されまいと、レオニードが歯ぎしりをした音が聞こえた。
「だが、“知恵の樹”よ! そなたらが自らの手足となって叡智を探求する贄を必要としていることは知っている。そして、その贄がいずれ死ぬことも! この贄は……ラシーは、そなたらが求めるものではないのか! エリス・ランドスピアをしのぐ魔術師がそなたらのものになることを望まないのか!」
『無論、それは我らの望みだ』
「ならば、交渉に応じろ! エリス・ランドスピアは決してこの子供をおまえたちに渡さないと考えているぞ」
ぴくり、と男の腐った頬が動いた。
『何故そう言える』
「母親だからだ――彼女が、そうあろうとしているからだ」
その一言に――“樹”は思案を始めたようだった。
ここぞとばかりにレオニードは言葉をつなげる。
「このままエリス・ランドスピアに任せていれば、この逸材はいずれおまえたちの手の届かないところに行ってしまう。だから、私が連れてきたのだ。この者を次の贄に……賢者にしろ! そうして、エリス・ランドスピアを生かしてくれ!」
『……叡智の代償は、命だ』
男が低くうなった。
『我らは賢者を欲する。賢者は我らの叡智を欲する。叡智を授ける代わりに、死後、その魂は我らのものとなる。それが、誓約だ』
「……ならば、エリス・ランドスピアの誓約を破棄せよ。破棄せぬと言うならば、私はラシーを連れてこの“森”を去り、エリス・ランドスピアをもこの“森”に帰すことはない!」
『おまえにそれができるのか? エリス・ランドスピアは必ずこの“森”に戻ってくる。そうとも、彼女は弁えているのだからな』
「そうだろうか? 母親とは愚かなものだ。私がこの子供の生殺与奪を握っている限り、彼女は私の言いなりになるとは考えないのか?」
男は――“知恵の樹”は再び思案し始めたようだ。
グラシムは激しい頭痛とめまい、さらに吐き気に意識を失いそうになりながら、彼らの会話の意味するところを必死に理解しようとする。
だが、考えようとするたび思考は糸の束のようにばらばらになり、指から零れていく。
手足の先からどんどん体温が流れ落ちていって、このまま眠れば死んでしまうのかもしれない、と頭のどこかが悲鳴を上げた。
だが、それでもエリスの生死に関することを話し合っているのだということは、それだけは理解できた。
「……“知恵の樹”の人、エリスを殺さないで」
か細い声に驚いたのは“知恵の樹”だけでなく、レオニードも同様だったようだ。
背中を踏みしめたままの足から動揺が伝わってくる。
「俺をあげるから……俺でよかったら、なんでもあげるから……だから、お願い、エリスを……死なせないで……」
『おまえが、新たな知識の担い手となるというのか?』
「なんにだって……なるよ……でも、エリスはだめ…………」
『ふむ――ならば、よかろう。おまえは、逃がすにはあまりに惜しい』
夜の霧を何かが切り裂き、レオニードが弾かれたように後方に跳んだ。
グラシムは自分の首に何かが巻き付いたのを感じた――“樹”の、蔓だ。
『おまえの名を捧げよ』
「グラシム……グラシム・ランドスピア」
『グラシム・ランドスピア、我々はそなたを新たな賢者として迎え入れよう――』
首に巻き付いた蔓の先端が、ゆっくりと両目に触れた。
右目は殴られたせいか腫れて開かず、蔓が困ったように瞼の隙間を突いている。
無防備な左目から侵入に成功した蔓は、眼球を舐めるように動き、眼窩の中を暴れ回った。
「ああああああああああああああ!!!!!」
蔓の先端から、形のないなにかがグラシムの中に忍び込もうとしていた。
だが、それがなんなのか考えることはできない。
痛い。
頭の中を引っ掻き回されて、もうなにがなんだかわからない。
自分が、消えてしまう。
エリスを忘れてしまう。
それだけは、いやだ。
「エリス――――――――!」
そのとき、鋭い光が視界を焼いた。
尋常ではない熱量が男に、“知恵の樹”に叩きこまれ、爆風でグラシムは後方に吹き飛ばされる。
グラシムは地面に叩きつけられることを予感し、ぎゅっと目をつぶるが、代わりに背中を捕まえたのは華奢な女の腕だった。
「うちの子に何してくれてんだい――!」
猛烈な炎を体現したような叫び声。
怒り狂ったエリス・ランドスピアその人だった。
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