第26話
雪がちらつき始めた頃、ヴィッテ伯に対する王都への召喚が行われた。
査問会というほど大げさなものではないが、ある程度形式ばった場で彼の立場を詳らかにしてからでないと彼を国政に戻せないという、いわば王の恩情であった。
形ばかりを気にする貴族たちのやり方は、エリスにしてみれば馬鹿馬鹿しい以外の何物にも感じられない。
なおエフィムはそこでも第1王子の資質について厳しく糾弾し、エバンス伯爵によれば、弁明の機会を与えたつもりの王は頭を抱えたのだという。
結果、ヴィッテ伯エフィム・ペトレンは自ら国務大臣の職を辞すことを申し出て、領地に戻って蟄居することとなった。
ただ、賢いやり方ではあった。
自分から進退を表明すれば、誰もそれ以上追及するできなくなる――いくら敵対派閥が彼を叩きたくとも、ヴィッテ伯は王と法への意見を述べて周囲の不興を買っただけで、罪を犯したわけではないのだから。
彼は息子が未成年であることを理由に、レオニード王子の婿入りまでは暫定的にヴィッテ領主を務め、その後は王子に家督を譲って引退することにまで言及したそうだ。
王子を実子が成人するまでの中継ぎにするつもりかとの批判に対しては、実の息子に跡をとらせる気はないと、はっきりと述べたのだという。
農業工業ともに豊かで、多くの魔術師を抱えるヴィッテ領は、ただでさえ他の領地から妬みを受けやすい。
ここぞとばかりに弱り目を叩かれる前に、王子というカードを前面に押し出して他の貴族を黙らせた手腕は、実に鮮やかであった――と、エバンス伯の手紙には苦笑気味に綴られていた。
実際、エフィムが首をかけて宮廷に投じた石の影響は、王とて決して無視できるものではなくなったという。
他の者たちから届く情報にも、それが表れていた。
第1王子の資質に対する疑惑は貴族だけでなく、平民にまで静かに不安を広げていった。
曰く、政治をしているのは結局陛下じゃないか――アレクサンドル王子殿下の失策がないのは当然だ、だって最終的に決裁なされる陛下が名君なのだから――親がダメ息子の尻をこっそり拭うのは当然だが、親が死んだらどうなるんだ?――アレクサンドル王子殿下ご自身が病では、治世が安定しないのでは――――
王都からやや離れたザービンゼルトという都市の商人は、王都だけでなくザービンゼルトにまでそのような噂が蔓延し始めており、その広がり方にはやや人為的なものを感じる、と手紙を書いて寄こした。
となると、アレクサンドル王子を引きずり下ろしたあと、誰が次の王になるのか、ということも同時に話題に上ってくる。
順当に行けば2番目の王子だろうが、3番目以下の王子の立場からすれば「長男相続が絶対でないのならば、それ以外の誰でもよいのではないか」と思ったとしてもおかしくはないし、王子たちの周囲の者とてそれは同様だ。
そこで、今まで末っ子王子として誰も注目していなかった青年の存在が、徐々に大きくなってくる――ザービンゼルトでも、レオニードの話題が徐々に人の口に上り始めたようだ。
名君として君臨する父王に最も似て聡明であり、先々代王と肩を並べるほどの魔術師の才能を持つと評判で、そうして王の子のうちで最も若く健康な青年。
世が世なら王になっていただろう逸材――
さっさとレオニードを臣籍降下させてしまえ、と王宮でアレクサンドル王子が怒り狂っているそうで、早めにレオニードがヴィッテに来たのは、結果的によかったのかもしれない。
あのまま王宮にいれば、否が応でも争いに巻き込まれてしまう。
それに、エリスはこれを最も危惧しているのだが――あの青年は無自覚に玉座を望んでいる。
本人は兄の治世を支えるのだと言っているけれど、もし目の前に王冠が転がってくれば、きっと迷うことなく手を伸ばすに違いない。
レオニードは確かに聡明で、幼くして教典をそらんじ、法を理解し、算術を得意とした。
その賢い頭で強引に押さえつけているだけで、腹の奥には、決して手を伸ばしてはならない果実への憧憬がある。
カンチアネリ王国ではもともと、最も優れた魔術師が神の代理人として王冠を戴いており、そうでなくなったのは、長い歴史の中で見ればつい最近のことだ。
つまるところ、レオニードは父王からそっくり受け継いだ王の器の証明として、王冠を欲しているのだ。
その欲求をいくら理性で抑え込んでいたとしても、彼の精神性には致命的に脆いところがあることをエリスは知っている。
グラシムに対して嫉妬を爆発させたように、何かのはずみで玉座への渇望を明らかにしてしまうかもしれない。
それがいけないことだ、とは一概には言えない。
魔術師が世の理を求めて深淵をのぞき込むように、また王の才を継ぐ子が王の座を目指すことは当然なのだ。
為政者には100年の泰平を得るために、犠牲の大小を天秤にかけて判断せねばならないときがあるというけれど、その選択がよかったのかどうかを判断するのは100年後の子供たちだ。
玉座をめぐる争いを兄の血をもっておさめることが吉と出るかもしれないし、大陸を大きな混乱に陥れて100年の争いを残すかもしれない。
もしかしたら賢者ならばその結果を見ることができるかもしれないけれど、今のエリスにそれを見通す力はない。
何が良いのかなど、今の時点では誰にもわからないのだ。
「――エリス、準備できたよ」
物思いにふけっていたエリスの顔を、グラシムがひょいと覗き込む。
未だに彼はエリスのことを母とは呼ばなかった。
あと少しというところまではきているのだが、恥じらいが先に出るのだ――思春期だなぁとエリスはおかしく思う。
「ああ、じゃあ行こうかね」
エリスは上着を羽織ると、雪のちらつく空を睨んでから結界を出た。
************
“黒の森”から最も近い村までは、グラシムを背負って飛行の魔術を使って向かう。
目立つことこの上ないが、街道を避けて移動すればほとんど人目に触れることもなく、無事に村に到着できた。
「賢者様、ラシー、間に合ってよかった」
グラシムよりやや年かさの娘が、村の入り口で2人を待っていた。
彼女に案内されて村の半ばにある小さな家を訪れる。
雪のせいか、村も家の中も、しんと静まり返っていた。
家の中には暖炉の薪が燃えるにおいと、病人特有の饐えたにおいが混じっていた。
エリスはグラシムを伴い、家族に見守られながらベッドに横たわる老女の下へ近づく。
「メイ、聞こえるかい」
そっと声をかけると、老女がかすかに瞼を震わせ、濁った眼を2人に向けた。
「……賢……者様…………ああ、ラシーも来てくれたのか。寒かったろうに……」
「メイばあちゃん……」
グラシムがベッドのわきに膝をつき、老女の手をそっと握る。
「メイばあちゃんこのあいだまた豚の脂くれただろ、あれで軟膏を作ったんだ。今度のは、香草を使ったからいいにおいなんだ。手に塗ってもいい?」
「ああ……」
返事かため息かわからない音を吐き、老女が目をつぶる。
グラシムはポケットから取り出した小盒から軟膏を指ですくい、枯れ枝のようになった老女の手に優しく塗りこんでいく。
まるで自分の体温を必死に送り込もうとする手つきに、エリスはそっと視線をそらした。
そばにいる家族たちはすでに凪いだ目をして、少年と老女のやりとりを黙って見守ってくれていた。
「ほら、いいにおいだろ」
「…………ああ、ありがとうよ」
それが最後の言葉になった。
ややあって、老女は顎を震わせ、大きく開いた口から「ふーーー」と深く息を吐いて、肺の空気をすっかり出し尽くしたのち、息を吸うことは二度となかった。
エリスが手を伸ばし、老女の瞼を閉じて、口元を汚す唾液もぬぐってやる。
「……長いことお疲れさん、メイ。貴き神々があんたの行く手をあまねく照らし、その手を取り、迷うことなく導いてくださるよう」
祈りの言葉をきっかけに漏れ始めたすすり泣きの中には、グラシムのそれも混じっていた。
そういえばこの子供は、初めて人の死にはっきりと触れたのだ、とエリスは今さらながら思った。
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