第25話

 レオニードがヴィッテ城に移るのは年明けの婚約を待ってと聞いていたのだが、婚約者を見染めた王子が離れがたくなってしまったという理由で、秋頃にはなし崩し的に城に居ついたようだ。

 レオニード本人から届いた連絡によれば、婚約者云々は建前であり、ヴィッテ伯爵家に対するがあるため、その監視を兼ねて早めに城に入ったということだった。


 エリス自身は表舞台から身を引いた立ち位置であるものの、賢者との顔つなぎをしておきたい貴族や豪商から勝手に情報を差し入れられる。

 以前グラシムの教育に携わったアマリアの夫であるエバンズ伯爵もその1人で、忠臣の代表であるヴィッテ伯の離心疑惑に王宮が静かに揺れているという情報を寄こしてきており、これがレオニードの手紙の裏付けとなった。

 “黒の森”は政治的介入を許さない場所であるが、ヴィッテ領に属する土地であることも事実だ。

 難しい立場のヴィッテ伯のことと、そこに身を置くエリスのことを案じる一言が添えられてた。


 ただし、この騒動以前からも、宮廷にやや険悪な空気が漂っていたことをエリスは知っている。

 火種になっているのは、王位継承順第1位のアレクサンドル王子である。

 魔術の才能でいえば王族と呼ぶには物足りなく、貴族一般でいえば強いという程度だったとエリスは記憶していた。


 アレクサンドル王子は30歳をやや過ぎた年頃で、すでに王の補佐として執務に当たっている。

 やや怠惰なところがあるようで、その年齢で肥満をこじらせ、飲水病の気配もあるのだという。

 ついでに父譲りの艶福家で、抱えた妃と愛人は10人以上、子も20人を超す。

 もっとも、為政者として重要視されるべき政治的な手腕という点では大きな問題はなく、むしろ先代王を偲ばせる聡明さもみせていると聞く――など話2割で聞いておくのが正解だろうが。


 少し以前から宮廷ではそのアレクサンドル王子が次期王にふさわしいか否かで派閥ができていたようで、今回の騒動の発端――ヴィッテ伯はアレクサンドル王子から距離を置いた立場であることを表明したそうだ。

 曰く、「神々の代行者にふさわしいとは思えない」と、オブラートに包みながらも、わりと厳しい言葉ではっきりと。

 言葉だけを聞けば衷心からの諫言にしか思えないが、対立派閥に上げ足でもとられたのだろう。


 王位をめぐるかつての骨肉相食むお家騒動は、王家だけでなく貴族全体にも深い精神的傷跡を残している。

 王位継承順位をひっくり返すような発言は、たとえ名門貴族の当主であれご法度というわけだ。

 今更、古い時代のように魔術の『適性』だの魔力の多寡だので王位を決めるなどという、「じゃあ強い人間なら誰でも王様になれちゃうじゃん」という時代には、誰しも戻りたくないのだろう――ちなみにこの身も蓋もない感想は、歴史の授業を受けたグラシムのものである。

 時代が時代ならグラシムやエリスも十分に玉座を狙える立場にあるわけで、エリスはこの迂闊な息子の口をただちに塞がねばならなかった。


(しかし、ヴィッテ伯が造反ねぇ……)


 エリスは手紙を文箱に放り込みながら独り言ちる。

 窓から見える庭では、息子が上半身裸で木剣を振り回している。

 体術の訓練を継続しているおかげで傷だらけではあるが、ますます背が伸びてたくましくなったように見えた。

 冬を迎える前にまた服を仕立ててやらねばなるまい――いや、どうせ来年からレオニードに仕えるのだ。

 適当な頃合いでヴィッテの街に向かい、仕官に必要なものと一緒に揃えてやればよかろう。


(真実であれば、そんなところにラシーを送るわけにもいかんが、さて)


 エリスの知る当代のヴィッテ伯エフィム・ペトレンは、王家に対して篤い忠誠を誓っている――ようには見えない男である。

 ただ、王家に弓引く野心を持っているかと問われれば、その答えも否であろう。

 文武に秀でた領主で、その手腕は歴代領主のいずれをもしのぐ。

 そういう風評をさておいて、エフィム本人から受ける印象としては、どこか飄々として掴みどころがなく、カリスマ性があるというわけでもない中年男としか言いようがない。

 色に走るということもなく妻は例の愛人騒動を起こした女たった1人、子は3人――いや、夭折したという子を含めて4人か。

 自らに与えられた土地をいかに栄えさせるか以外には、ほとんど興味がなさそうに思える。

 神々の代行者と王のことを表現しているわりに、信仰心が篤いわけでもない。


 ただ、とエリスはつぶやく。

 ただ、魔術師としては自分に近しいものを持っているように感じたことがあった。


 今でこそ“森”で引きこもり生活をしているエリスであるが、2~30年ほど前に王都で宮廷魔術師や若い貴族の子弟に対する魔術の講師を引き受けていた時期があった。

 その際の生徒の1人にエフィムがいた。

 魔力や『適性』でいえば、前述のアレクサンドル王子を上回る青年で、そのうえ術の完成度が極めて高い。

 根は臆病で神経質であり、魔術に対する恐怖心がある――それが良い方向に作用し、他の術者よりも慎重に『陣』を描くことで、繊細で無駄のない魔術を発現できるのだ。

 見どころがあるから宮廷魔術師となって研究に励んでみては、と声をかけると、恐縮したように肩を小さくするような、そんな目立たぬ青年だったのだ。


 だが、そんな細かいところに目を留めるのは、あの頃から居間に至るまでエリスくらいのものだった。

 いつ頃からか王国の魔術師の中には、筋肉的思考というか、術の強さのみを求める風潮が蔓延していた。

 攻城兵器のひとつのように魔術を捉える風潮に嫌気がさし、エリスは講師を辞したのだっけ。

 他者に比べて魔術の発現に時間のかかるエフィムを評価する者はあまりおらず、本人も父親の跡を継ぐのだといって、王都で大臣を務める父の城代として領地を治めることを選んだ。


 それからはエリスがヴィッテの城下町に赴いた際などに、ごくまれに城に呼ばれるくらいの関係で、魔術を用いた産業についての意見を求められたことが幾度かあった。

 ヴィッテ領内に“黒の森”がある以上、やろうと思えば賢者を抱え込むことのできる立場であるのに、それをしない慎重さを、エリスは嫌いではない。

 隙あらば関係を持とうとする王都の貴族たちに比べ、あえて親しくなりすぎない程度の距離を置こうとする彼の態度は、為政者としてはともかく、魔術師としては正しい。

 “黒の森の賢者”はそこらへんにいる十把一絡げにできる魔術師とは見ている世界が違い、うっかり役に立つ道具のように賢者を扱えば、それこそ大怪我をしかねない。

 それならばまずは自分でできるところまでやってみて、どうしてもわからないところを賢者に頼る――それが本来あるべき為政者と賢者の関係である。

 エフィムにはそういう弁えたところがある。


 だからこそ、エフィムに二心ありと聞いても、首を傾げたくなるし、単に政争で下手を打っただけだろうと結論付けたくなる。


 それに、もし彼の疑惑にわずかでも真実味があれば、王はレオニードの婿入りを直ちに取りやめるだろう。

 当代の王はまずまずの名君であるが、いかんせん身内に対する情が濃すぎる。

 特に溺愛する末っ子を、いくら彼が優れた青年であるからといっても、監視名目などで敵地に送り込むことはあるまい。


 恐らく王は、監視という名目で最愛の息子を送り込むことで、ヴィッテ伯への信頼を示し、彼を守ろうとしたのだ――というのは少々考えすぎかもしれないだろうか。

 城に王最愛の王子がいれば、それだけで周辺領地は怯んでヴィッテ領にちょっかいをかけることができなくなる。

 もっとも、レオニードがいなくともヴィッテには“黒の森の賢者”がいる。

 賢者は政治的に中立の立場であることは周知のことだが、だからといって、わざわざ獅子のしっぽを踏もうとする愚か者はいない。

 レオニードは賢者の姪孫おいっこであり、両者が親密な関係を築いていることは、王都では有名な話だ。


(ま、なるようになるさね……)


 政争に放り込むにはまだまだ心身の育ち切らない息子が心配ではあるが、だからといってエリスにできることは限られている。

 死んでいなければどうにでもしてやれるのだから、とまずはグラシム自身に外の世界を経験させることを優先することに決めた。

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