第22話
なんだかんだ心配していたグラシムとレオニードの仲であるが、レオニードはなんとか気持ちを立て直したらしい。
ヴィッテ城に滞在する間くらいは付き合えと、グラシムをそばに置いてあちらこちらに引っ張りまわしている姿を城中の人間が目撃することになる。
グラシムはもとより「レオ兄」と呼んで彼を慕っており、どうにもまだ他人の心の機微に疎いせいか、レオニードの内心で吹き荒れた嵐の気配には気づいた様子もなかった。
エリスはせめてもの罪滅ぼしにと、レオニードに魔術の訓練をつけてやることにする。
この王子は教えたことはきちんとできるのだが、自ら理論の深みにもぐりこもうという様子は、今のところ見えない。
軍人のような職業魔術師にありがちな、魔術を道具として扱う者の思考をしているうえ、単純な魔力量が多いのでだいたいのことは力業で解決してしまい、繊細さに欠ける。端的に、術が美しくない。
むしろ探究者としての傾向はグラシムのほうに現れたようで、レオニードの訓練を羨ましそうに見た日の夜には、エリスが滞在する客間にこっそりきて「あれはなんであんな『陣』なのか」と師を質問攻めにした。
きちんと『陣』について教えたことなどないというのに、エリスのそばでいつも見ていたせいだろうか、基本的な解釈から一歩進んだところまできているように思える。
恐ろしいほどに地頭がいい、と改めてエリスは慄然とする。
もっとも、考え方は合っているのだけれど、虫食いの知識ゆえの危うさがそこかしこに見えていた。
「いいかい、ラシー。あんた絶対、勝手に魔術を発現させようとするんじゃないよ」
エリスの思わぬ厳しい声音に、グラシムはいたずらが見つかった猫のような顔をした。
見た目は犬なのだが、どうにも表情は猫のような少年である。
「所詮は見聞きしただけの上っ面でしか『陣』を覚えていない。きちんと基礎から教えるまでは、絶対に使うな」
「はい」
「あとそろそろ髪を染めな。少し色が抜けてるよ」
毎日汗をかいて風呂に入っているせいか、髪と目の色が抜けるのがいつもより早い。
念のため魔術も重ねてやり、さっさと寝ろと部屋から追い出した。
「そういえば先生……」言いさして、グラシムは口ごもる。エリスが師弟関係を解消し、早々に親子としての関係を築こうと提案したためだ。レオニードの悋気が理由とは想像もしていないだろうが、息子と言われた以上、当然の提案のようにグラシムは受け取ったようだ。
「おか……エリス、ここもご飯の味薄いね。ダルクレーニほどじゃないけど」
「……そうかい?」
お母さんと呼ぶのはまだハードルが高いらしい。
そんなことよりも気になることを言い置いて姿を消した弟子に、エリスはベッドに腰かけたまま考え込む。
グラシムの味覚の基準が“森”のものものであること自体は、疑いようがない。
ただ、薄い、とは。
ヴィッテ伯の城で出る食べ物は、王都ほどではないにしろ、当然それなりのものだ。
特に今は王子と賢者がいるのだ。手を抜いたとは思えないし、現に、薄味を好むエリスの舌には少々味付けが重い。
脂も塩も砂糖も牛酪もこれでもかと使われていて、とても薄いとは言い難かった。
(……気は進まないが“樹”に聞いてみるか)
エリスの目を通してすべてを見ている“知恵の樹”も、グラシムの味覚のことは知っている。
エリスが聞いてこないので黙っているだけで、すでになんらかの答えにたどり着いている可能性もあった。
(こういうとき、賢者という肩書が空しく響くものだ)
布団に潜り込み、エリスは深く嘆息した。
すべての叡智をその身に受けた賢者、世界を見通す夜の眷属――などと大層な肩書を持ってはいるものの、その実、エリスはたびたび「ただの物知りおばあさん」だと自称しており、それは決して謙遜などではない。
たとえるならば、エリスは過去の人々から大量の本を受け継いだようなものだ。
本に書かれた内容をすべてを読み、知識として確かに身の内に蓄えてはいても、断片的な知識と知識をつなげ合わせて形にするために必要なのは、あくまでエリス自身の能力なのである。
そのうえ叡智は必要なときに向こうからやってくるものではなく、エリス自らが能動的に自身の内面に向き合い、自らの欲する部分を探さねばならない。
まさに、生ける図書館――それが、賢者の実態なのだ。
エリスは周りに比べて多少頭が回り、関連のなさそうないくつかの情報を拾い集めて、その繋がる先を推測することができる。
過去に森に選ばれた賢者たちも同様で、エリスだけが特別有能だとか無能だとかはない。
ただあくまで、普通よりは多少できるだけで、その多少できるところを“知恵の樹”に認められただけだ。
医学の知識を教え込まれてもただちに外科手術ができないように、医師の繊細な技術と職業上の勘は、日々の研鑽の中で培われる。
グラシムの症状、医者であった者の知識、それがあってもエリスはどう結び付けてよいのかわからない。
長く生きてもこんなものだ、とエリスは無性に空しい気持ちに襲われた。
************
「魔術師には、体術が必要になる――一般論だがね。こんなふうに」
言いながら、エリスはこちらに飛び掛かってくるグラシムの体に軽く手を当てるようにして、その体を容赦なくひっくり返し、背中から地面に叩きつけた。
ヴィッテ城の敷地内にある訓練場である。
休日であるため、兵士の姿はない――と思って来てみたのだが、希代の魔術師が稽古をつけるとあって、少なからぬ野次馬が集まってきていた。
「レオはまだ実戦経験がないだろうが、理屈はわかるね?」
「『陣』を描き、詠唱を行うために、魔術の発現までにタイムラグが生じます。その隙をつかれた場合にも、即座に対応しなければなりません。また周囲の状況から精神を統一できず、『陣』を描くことができないことも戦場では往々にして発生するため、体術や剣術の習得を推奨されています」
「教本の朗読みたいな模範解答だ」
痛そうにしているグラシムの手を引いて強引に立ち上がらせ、打ち付けた背中をさすってやる。
魔術で癒せば早いのだが、グラシムは引き取ったばかりの頃をのぞき、肉体的な苦痛をあまり感じずに暮らしてきた。過去には虐待を受けていた痕跡があるものの、本人が覚えていないという以上、エリスとしてはいちから教えなければならなかった。
まずは他人に殴られたり蹴られたりするということがどういうものなのかをグラシム自ら知る必要がある。
というわけで、しばらく彼が痛みにうめくことは、エリスの中ではすでに決定していた。
「……エリスが強いとは思わなかった」
「強くはないさ。今あんたが痛いのは、思いっきり走ってきた勢いをそのまま返されたせいだよ。私なんて、見てのとおりのおばさんさね。純粋な力でいえばあんたにも負ける。だから、相手の力をそらして逃げることに特化したのさ」
エリスの『陣』を描く速度は人間離れしているうえ、普通の魔術師と異なり、術の発現に詠唱を必要としない。
だからこそ、たとえば戦闘中に至近距離からの攻撃で魔術を発現できず、逃げる必要が生じたとしても、ほんの数秒稼げればすぐにまた『陣』を描いて魔術で反撃することができる。
エリスの身体能力は平凡であったから、その数秒を稼ぐための技術を、彼女の師は重点的に教えこんでくれた。
「私みたいなのは、真正面から殴り合うなんて考えちゃいけない。自分に合った戦い方をすべきだ……そういうのはレオが得意だろう。教えてやっとくれ」
「多少骨が折れるかもしれませんよ」
「死んでなきゃなんとかするさ」
2人の会話を聞いていたグラシムの顔が引きつるのが見えた。
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