第18話
たとえば、だ。
あんたが単に師匠――というより、家族のように私のことを思ってくれてることには、とうに気づいてるさ。
もしも15歳になって、魔術師にならなくとも、私と今のような関係を築いていけるとなったら、あんたはどうする?
15歳になっても、その先も、飽きるまで一緒に暮らせばいい。
あんたはそれでも魔術師になりたいって言うのかい。
いいかい、あんたの思うほど魔術師ってのはいいもんじゃない。
確かに魔術の素養があれば、それが強ければ強いほど、いい仕事にもつけるし、金だって稼げる。
だけど、もしもあんたが私の弟子を名乗るくらいに強い魔術師になりたいっていうんであれば、話は別だ。
大いなる力には責任と義務が伴う……言ってる意味はわかるかい?
国に仕えろとか、誰かのために力を揮えって話じゃないからね。
私は大陸でも屈指の術者だと自認しているがね、そりゃうぬぼれってやつでもなんでも、ない。
自分の中にある力を客観的に自覚し、冷静に制御し、何が何でも支配しなければならないからだ。
自分の力量を見誤り、魔術を暴走させたら、周りの人間を傷つけることになる。
私はね、ラシー、この体に国を焼くほどの魔力がある。
多分――言うかどうかずっと悩んでいたんだが、言っちまうよ、あんたには、それを上回る魔力と素養がある。
多分、ね。
魔術師になるためには『適性』と魔力の量を調べ、それに応じて魔力を体外に出すための訓練が必要になる。
あんたは――あー……その訓練が、いらない、と思う。
ほら、あんたは『陣』がもう見えてるだろ。
嘘は言わなくていい、素直にいいな……やっぱりそうかい。
これはね、訓練を受けて初めて見えるようになるんだ。
あんたは、どういうわけだか、最初からそれができる。
つまりあとは私が『陣』の描き方を教えてやれば、それで魔術を発現させることができる。
もちろん発現させられたからといって、すぐに魔術師を名乗れるわけじゃない。
ほんの少しの生活魔術を使える連中とはわけが違う。
あんたがもしも魔術師になりたいのなら、大きすぎる力の制御を覚えなきゃだめだよ。
そしてね、ラシー。
私はあんたがその制御を覚えたとしても、決して幸せになれるとは思えない。
お得意の嫌な予感ってやつさ。
だから、師匠としてじゃない――家族として言わせてほしい。
魔術師になんか、ならないでおくれ。
賢者になんか憧れないでおくれ。
私みたいに、たくさんのものを失って、それでもなお知識を求めたいという人でなしにならないでおくれ。
あんたがもしも私に近づこうとして魔術師になりたいっていうんだったら、そりゃ約束だ、私はあんたをきちんと育てるよ。
だけど、だけどね、ラシー。
私はあんたに、ただ、幸せになってほしいんだ。
幸せに生きる、あんたの姿があれば、それが一番私も嬉しいんだ。
よく、考えておくれよ。
************
師の言葉を胸に、グラシムは真っ暗な部屋でベッドに体を横たえている。
12歳の半ばでエリスに引き取られて以降、嬉しいや楽しいといった感情以外をほとんど感じたことがない。
だから、今自分の中に渦巻いている激しい熱の名前がわからず、持て余すよりほかなかった。
自分には、魔術への憧れがある。
それは間違いない。
だがそれは魔術そのものへの憧れというよりも、指先ひとつで奇跡を起こすエリスの姿が美しいからだ。
自分もあのようになりたいと、憧れていた。
鏡に映る自分の姿は村や王都で見た誰とも違っていて、真っ黒で、汚い。
エリスやレオニードのような外見であれば、こんな胸がふさがるような気分にはならなかったかもしれない。
エリスの指先から描かれる『陣』は金色に光り輝いていて、神々しい。
王都にいるときに騎士たちが使っていた『陣』もそうだ。
まるで月を捕まえて砕いてまいているような、そんな静謐さがある。
あれが使えるならば、真っ黒で汚らしい自分も少しは綺麗になれるような気がした。
だから、魔術師になりたいと思った。
それに、魔術師になればエリスとずっと一緒にいられると思ったのだ。
エリスはその道を選ばなくとも一緒にいてくれると言ったが、しかし、最も近しいところで彼女の理解者となり、相談役でありたいとグラシムは無自覚に切望している。
与えられてばかりの自分が、彼女にとって支えとなりたい。
そのためには、まず彼女と同じところに立たねば、と思った。
――真っ黒で、なんて汚らしいのでしょう
――まるで“森”の魔物だ
時折グラシムの頭に響く声がある。
声は男であったり女であったり、若かったり歳を経ていたりする。
皆がグラシムを蔑み、拒んだ。
ただ1人――誰だっけ――グラシムの黒の価値を見出した人がいたような、いなかったような。
いやだ。
グラシムはぎゅっと強く目を閉じる。
グラシムの人生は、エリスと出会った時から始まったのだ。
それより前には何の価値もないし、あってはならない。
自分の血肉はすべてエリスが与えてくれたもので、他は何もない。
エリスはグラシムの髪や目のことを一言も口にしたことがない。
それは彼女にとって無価値であるからなのか、嫌悪しているがゆえなのか、わからない。
だっていつもエリスは優しいから、グラシムが傷つくようなことを言うわけがない。
本心がどうであっても。
それは理解しているのだが、しかし見えない本心を知りたいと思ってしまう。
本当はあなたも汚いと思っているのではないか、と。
どうしたって、自分が自分を汚いと思ってしまうのだから。
グラシムは、親や家族というものを覚えていない。
木の股から生まれたのではないだろうとは思うものの、ここまで自分と似た人間を見ないのであれば、もしかして“黒の森”の闇が渦を巻いて形をとったのではないかなどと、妄想じみたことさえ思ってしまう。
だから、エリスが家族と言ってくれたときは嬉しかった。
村々をまわる中で見かけたあの温かな人たちが羨ましかったから、自分にもそういう人がいるとわかって、とても嬉しかった。
失いたくない、と思ってしまった。
――コンコン。
控えめなノックにグラシムは飛び上がり、ドアに向けて声をかけるとエリスが何とも言えない顔をして入室してきた。
ベッドの端に腰を下ろし、師は複雑な色を浮かべた目でグラシムを見た。
「あー……すまん。謝りたくて、だな」
「……なにが?」
「私は、ラシー自身に道を選んでほしいと思っていたし、今もそれは変わらない。それなのにさっきは、自分の希望だけを押しつけてしまったなと反省していたところだ」
「反省なんて……」
師のらしくない言葉にグラシムは思わず微笑む。
常に泰然自若として堂々と振舞っている彼女には、似合わない気がした。
「あのな、ラシー。私には昔……ずーっと昔、結婚をしていたことがある」
エリスが過去を口にするのは滅多にないことだと、グラシムは思わず姿勢を正した。
「子供も生まれたんだ。女の子でね、いつも私にくっついてくる子だった」
エリスの言葉は続く。明かりをつけない部屋で窓から差し込む月明かりに照らされたその美貌には、濃い後悔があった。
「私は魔術師だった。それもとびきりの。世が世なら王になりうる才能に溺れ、知識を求めてこの“黒の森”にきて“知恵の樹”に教えを請うた。“知恵の樹”は私を選び、賢者として彼らの持つ知識をすべて与えてくれた……その代償として、私はすべてを捨て去らねばならなかったのさ」
エリスの知識は、“知恵の樹”からもたらされているのか、とグラシムは初めて知った。
「娘は、王……兄の下で育てられていた。兄が養女にしてくれてね、王女としての身分を保証してくれていたんだ。だが、それがよくなかったんだろう。あの子は賢すぎてね……8歳にして周りを動かす権力を自覚し、護衛騎士を引き連れてこっそり“森”にきてしまった。私に、会うために」
あとはもう、言わなくてもわかる。
娘は“黒の森”で騎士とともに彷徨い、獣の餌になったのだ。
「私は」
かすかに震えるエリスの背中に、グラシムは手を当てた。
「いいよ」と強く言い捨て、抱き寄せる。
初めて自ら抱えた師の体は細く、老いではなく、単純に脆弱だった。
力をこめればこの体は容易に傷つくだろう――そう思わせる女がそこにいた。
「……この“森”は不吉なんだ。私はもうとうに頭の芯まで闇に食われてしまって、娘が死んだというのに魔術師として生きることを選び、そのことをこれっぽっちも後悔しちゃいない」
エリスははっきり言い切ると、グラシムを押しのけるように体を離して顔を上げた。
ああ、確かにこの女は狂っているのかもしれない――菫色の目に浮かんでいるのは、それでもなお命を削ってでも知識を探求する者のそれだった。
「私は、ラシー。あんたを失いたくない。娘のようにむごたらしく死なせたくない。それ以上に、私のように狂ってほしくない。だから魔術師にはならないでと言ったし、それは私のまごうことなき本心さ。だけどね」
だけど、とエリスは繰り返した。
「それでも魔術の深淵をのぞきたいのであれば、歓迎しよう。新たな知識の担い手よ。魔術師の本質とは探究者であり、求道者だ――」
一方的に言い捨てて、エリスはさっさと部屋から出て行ってしまう。
ドアが閉まる寸前に小さく「おやすみ」とだけ聞こえて、あとはまったくの静寂が部屋に満ちた。
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