第17話

 ヴィッテ領はカンチアネリ王国全体で見れば、比較的穏やかな気候であるといっていい。

 しかし冬になれば多少雪が積もるし、半数以上の生き物たちも冬眠して“森”は静かになる。

 エリス曰く、結界を改良してやれば結界内に雪が積もることを避けることも可能だそうだが「魔力の無駄さね」という一言で実行はされていない。

 建物が崩れないよう、時折グラシムが屋根に上って雪を下ろし、結界の外に捨てに行く。

 魔術具である『札』を使わせてくれるので、そこまでの労力ではないし、体を動かさないとどうにも具合が悪いので、グラシムは毎日自宅周辺の雪かきをして、終わればスコップを使ってレオニードや騎士たちに教わった剣術の型を練習した。


 そうやっているうちに年が改まり、2人はまたひとつ歳を重ねる。


 冬は領地全体で人の動きが減るため、王都への手紙も出していない。

 レオニードは今頃、王都で新年の宴にでも参加しているのだろう、とグラシムは兄貴分を懐かしく思う。

 レオニードからは新年くらい一緒に過ごそうと毎年エリス宛に招待があり、秋頃に近くの村に届いた手紙には――さすがに“黒の森”に直接手紙を届ける勇気のある者はいない――グラシムの名もそこに載っていた。

 エリスは「おまえが行きたいなら行けばいい」というが、華やかな場の苦手なグラシムは断った。

 そうでなくとも、ここ最近の師が気になるのだから、留守番をさせるのはいやだった。

 雪が降り始めてから“知恵の樹”からの呼び出しはやや減ったように思うが、それでも、帰宅したエリスがいつも疲れ果てていることに変わりはない。


「昨日のおさらいをしようかね」


 昼食後、暖炉の前に敷いたカーペットの前に2人で腰を下ろし、エリスが本を開いて言う。

 師の蔵書はすっかり読みつくしていたのだが、勉強に使う本はグラシムが勝手に読まないよう、鍵のかかる地下室に保管されていることが最近わかった。

 道理で家探しをしても見つからないわけだ。

 地下室にグラシムは一度も入れてもらえたことがなく、きっと15歳までに魔術師の素質が認められなければ、入ることも見ることもないのだろうと察していた。


「魔術とは、神界におわす神々の力を『陣』によりこの世界に顕現させ、奇跡を起こすものである。そも、魔術の興りはイオチャーフ教の開祖である――……」


 時に少女のように甲高くなるエリスの声は、授業を行うときにはややかすれて低くなる。

 穏やかさのなかに厳しさを潜ませた声を独り占めできるこの時間が、グラシムは好きだった。


************


 ここのところ、弟子が過保護だ。

 エリスはしっかりブランケットで隠された自分の体を半目で見下ろす。

 辛うじてくるまれていない両手には、湯気の立つカップを持たされていた。

 暖炉の前に置かれたロッキングチェアで、厚手のブランケットをかけられている自分の姿は、どう考えても年寄りそのものだ。


(……あの子、なんか誤解しちゃいないかね)


 あの子ことグラシムは、授業を終えたエリスを丁重に年寄り扱いしたのち、夕食の準備をしに行った。

 規則正しい包丁の音がキッチンから聞こえてきており、そのうちいいにおいというにはやや滋養のありすぎるような香りが漂ってくるに違いない。

 彼に読むことを許した蔵書の中には、薬膳料理などに関するものも含まれており、最近のグラシムはその再現にはまっているらしい。

 エリスは魔術師であり、魔術師と薬学は密接に関わっているから、もちろん家の中には数多くの薬草がたんまりある。

 害の少ない草ならば好きにしていいと言ったせいで、近頃エリスは、味を犠牲にした代わりに栄養はあるのだな、と思えるようなものばかり食べさせられている。


 もちろん、グラシムがそんなことをしている理由はわかる。

 単純に、エリスを心配しているのだ。


 エリスが最近、というより少し前から疲れているのは事実だ。

 特に“知恵の樹”と会談したあとは、夜明けまで拘束され、起きたときにはすでに日が暮れていることもある。

 もっともそれは別にエリスが実年齢でいえばとうに老人であるからだとか、“樹”に何かされているからというわけではない。


 エリスは魔術師として日々思索と研究の日々を過ごしており――グラシムが来てからはそれもさぼりがちだが――、魔術の改良などについては、“知恵の樹”の意見がほしいときもある。

 “知恵の樹”の贄となった首たちの中には当然魔術師も複数いて、それぞれに傾聴に値する意見をくれるのだ。

 そうなると、エリスも向こうも魔術の探究者である。

 夜明けまで時間を忘れて議論を戦わせてみたり、エリスが描いた『陣』を見て皆であーだこーだと改良を行ったりする。


 “樹”は残忍で無慈悲な性根をしているから、エリスだって彼らによい印象はないのだが、魔術分野の研究に関していえば、彼らほど優秀で頼りがいのある相談相手はいない。

 おかげで家に帰る頃には、頭の中が充実感を伴った熱でいっぱいになり、倒れこむように寝てしまうのだ。

 それは“樹”も同じようで、エリスとの討論がある程度の区切りを迎えたあとは、しばらく呼び出しがない。

 お互いに好きなことに熱中して体力を使い果たしている、ともいう。

 その観点からいえば、エリスも“知恵の樹”もただの研究バカなのだ。


 グラシムにそれを説明していないのは、下手に魔術への興味を刺激したくないという気持ちがゆえであり、ついでにいえば“知恵の樹”にグラシムが取り込まれないようにするためだ。

 “知恵の樹”は老獪で、それ自体は魔術など使えないくせに、まるで精神魔術のように人を容易に洗脳しうる。

 経験の乏しい若い者であれば、あっという間に篭絡されてしまうだろう。


 いずれグラシムを“樹”に会わせねばと思ってはいるものの、エリス個人としてはその日をできるかぎり先延ばしにしたい。

 “樹”はグラシムを次の賢者と期待している様子があり――不思議なことに“樹”もエリスを快く思っていないくせに、エリスの弟子ならば優秀だろうと疑いもなく信じている節がある――、つまりグラシムが“樹”のお眼鏡にかなったときには、あの子供がこの“森”の贄とされてしまう。

 それはすなわち、エリスが死ぬ日であることを意味する。


(……私はいいんだ、私は)


 充分すぎるほど生きたという自覚はある。

 穏やかに生きているように見えて、実は苛烈な人生を送る中で、死の恐怖などとうに克服した。

 それに賢者として選ばれるため“知恵の樹”と誓約を結んだのは、まぎれもなく自らの意思だ。

 そのとき、自分の身がどうなるかも承知したし、死んだ後にどうなるかも


 だが、グラシムはそうではない。

 あの子は自分の意志でここに来たのかどうかも不明だ。

 自分の道は自分で選ばせてやりたい。


 事実、グラシムは優秀だろう――エリスは、キッチンで小首をかしげる少年の後ろ姿を見遣る。

 一度教えたことは決して忘れず、面白がって詰め込んだエリスのせいもあって、すでに14歳の少年としては充分すぎるほどの教養を蓄えている。

 もう少し鍛えてやれば、王都の官吏試験を受けても合格するだろうと思えるほどだ。


「……頃合いかねぇ」


 エリスが独り言ちると、グラシムが振り返った。

 最近は村に買い出しに行かせることもないので、ここのところはずっと黒髪黒目のままである。

 闇を押し固めたような印象はもうどこかへ消え去ってしまって、星の瞬く美しい夜空のようにどこか繊細さをにじませた黒を持つ少年へと、いつの間にか育っていた――エリスはそのことにようやく気づいて、無意識のうちに息を飲む。


「なに? お腹空いたの?」

「そうかもしれないよ、ラシー」


 彼を愛称で呼ぶことにすっかり慣れている自分にも気づいて、エリスは苦笑した。

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