第16話

「よう、ラシー。賢者様の具合はどうだ」

「どうってことはないよ。ちょっと歳なだけさ」


 グラシムは荷車に腰を下ろし、村人に笑って答えた。

 そろそろ収穫の時期が近付いており、仕事を終えた農民たちが各々の家に戻りながら、グラシムに明るく声をかけては立ち去って行く。


 ここは“黒の森”から最も近くに位置する小さな村だ。

 立地的な理由から、この村はエリス以前の賢者たちとも交流を持ち続けており、賢者に対する畏怖や魔女への嫌悪を持たない、数少ない者たちである。

 エリスが日々の生活の中で必要とする物資などを求めるときや、逆に村民が医療や薬を欲するときなどには、外の者が驚くほど気軽に接触をしている間柄だ。

 賢者とて人間である以上、文明と完全に切り離されて生きていくことは難しい。

 もちろん魔術で油の精製や布を織ることは可能だけれど、エリスはそこまでまめな性格ではなく――むしろ、意外なことに細かい手仕事は苦手かもしれない――、金で買えるものがあるなら時間でもなんでも買えという、ある意味で王族らしい感覚を持っていた。


 今日もこうしてグラシムはエリスの代理として、何種類かの薬を村に持ち込み、代わりに油壺をいくつかと冬用の服を仕立てる布を仕入れた。

 ようやく変声期を抜けたグラシムだが、身体はまだまだ縦横に伸び続けており、去年エリスが仕立ててくれた服はすでに袖も通らない。

 もうすぐ14歳というとたいていの人間は驚く外見をしている自覚はある。

 

「ラシーや、これをあげようね」


 だいたいの物々交換を終えた頃、1人の老女が両手で抱えられる程度の素焼きの壺を手渡してきたのを、グラシムは愛想よく受け取った。

 蓋を開けると、少々癖のあるにおいが鼻をついた。


「豚の脂さ。知ってるだろう、軟膏の材料だよ。食べてもいいがね」

「もらっていいの? メイばあちゃんも使うだろ」


 この村はさほど豊かではなく、豚の脂は貴重な資源のはずだ。

 それをわざわざ無償で提供しようというこの老女は少々変わっていて、以前からグラシムのことをまるで孫のように思っている節があった。


「あたしらが要る分はもう分けてあるさ。冬支度前にまた豚を潰す予定もあるから、そこまで気を遣わんでもいい」


 エリスと一緒にいるとちょっとした傷でも魔術を癒してくれるため、グラシム自身は傷薬をほとんど使ったことはない――自分で作ったものの効果くらいは知っておきな、とエリスに指示されて、わざとつけた傷に塗ることがたまにあるくらいだ。

 ということは、この豚脂で軟膏を作っても、またいずれ村に持ってくる薬に変わるだけだろう。

 基本的にあっさりした味付けを好むエリスのため、料理に豚脂を使うこともなさそうだし。

 グラシムはそんな思考を悟らせぬよう「嬉しいよ」と笑って返した。


「じゃあメイばあちゃんにはお礼にこれやるよ」

「なんだい」

「オリフの実のオイル漬けだ。俺が作ったんだけど、味は悪くないと思う」

「気を遣わないでいいんだよ……売るつもりで持ってきてたんだろ?」

「そのつもりだったけど、今日欲しいものはだいたいそろったしさ。次に来る時までには、またたくさん作ってるだろうし」


 そうかい、と老女は皺だらけの頬にさらに皺を刻んで破顔した。

 この老女は酒の飲みすぎて内臓を悪くしており、エリスが薬を処方してやっている。

 それでも時折家族の目を盗んで酒を飲むらしいのだが、その際のつまみにぴったりだとでも考えたのだろう。


「オイル漬けがうまくても、飲みすぎには注意するんだよ」

「ああ、気をつけるよ……ところで、賢者様はどうなんだい」


 同じ質問を、今日だけで何度されたか。


「別に、どうってことはないよ。あの人ももういい歳だからさ。たまには休ませてやらなきゃってだけ」

「そうだろう、そうだろう。賢者様はあたしが子供の頃からもうあのお姿さ。美しいままで、羨ましいこったが……年はとるんだねぇ」


 老女と会話を終えたあと、村長にいくつかエリスからの連絡を伝え、向こうからの要望や近況を聞き取りしたのち、グラシムは『札』を張り付けた荷車を軽々と引いて道を駆け、“森”へ帰っていく。

 エリスがいうには、“森”には凶暴な獣が多く、エリスとて油断すれば襲われる可能性がある。

 だが、グラシムは今までに一度もそのような危険な目に遭ったことはなく、たまに結界の外でちかちか光る虫のような何かに囁かれるほかは、平和な場所だとさえ思っていた。


「ただいまー」


 声をかけながら家に入るが、家の中は静まり返り、もうまもなく日が陰ってこようという時間なのに、灯りひとつついていなかった。

 荷物を下ろす前に、そっとエリスの寝室の扉を押し開けて様子をうかがう。

 寝相の悪い彼の師は、今日もおかしな体勢でベッドの上に寝転んでおり、腹に引っかかった布団が規則正しく上下していた。


(まだ起きてないのか)


 グラシムはなるべく音をたてぬよう、村で仕入れてきたものを納戸に運び入れる。

 ついでに夕食の下ごしらえでもするかとキッチンに立つと、師が起きたときに食べられるようにと今朝作っておいたスープの入った壺が、手つかずで置いたままであることに気づく。

 簡単に夕食の下ごしらえを済ませたグラシムは、少し考えて、手付かずのスープを温めて、おやつ代わりにとパンと一緒に食べてしまう。

 まだまだ成長期なので、これでも物足りないくらいだ。


 やっぱり夕食には肉を使おうと思い立ち、食糧庫から塩漬けの肉を出してきて塩抜きをしておく。

 最近はすっかりグラシムが料理係になっていて、食料の管理も任されるようになった。

 エリス曰く、魔術で手順を再現した料理と、グラシムが自ら作った料理とでは、圧倒的に後者に軍配が上がるらしく、なるべく作ってほしいようだ。

 エリスの知識には料理のレシピも大量にあり、作ったこともないのに何故そんなに詳しく知っているのか不思議ではあるものの、指示に従って作っているうちにグラシムの料理技術はどんどん向上した。

 レシピを書き留めた紙束もずいぶんと厚みを増してきた。


(……そんなことを教えてほしいわけじゃないんだけどな)


 ぼんやり考え事をしているうちに、日が陰ってきて部屋が暗くなってきた。

 エリスがグラシムにも使えるようにと作ってくれた灯りをつけて周り、夕食の調理に取り掛かる。

 エリスが調合に使う薬草の中から香辛料としても使えるものを抜き取り、肉と野菜を煮込んだ鍋に調味料とともに放り込む。

 本当はもっとがっつりしたものを食べたいところだが、丸1日眠っている師が起き抜けに食べられるとは思えないので、朝と似たようなスープにした。

 丁寧にあくをとったあとは具材に火が入るまで放置して、食べる直前に味を調えればいい。


 薪のはぜる音が、静かな部屋に響いた。

 グラシムはソファに体を預けると、エリスから借りている本を開く。

 魔術の基礎的な知識が記された本である。

 これまでは魔術に関する知識には指も触れさせてくれなかった師が、最近になって閲覧を許可してくれた。

 いよいよ『適性』を調べる気になってくれたのか、それとも――


 グラシムはちらりとエリスの眠る寝室の扉へ目を向けた。

 ここ数か月、彼女が“知恵の樹”に呼び出される頻度が増えているように、グラシムには感じられていた。

 エリス曰く、“樹”に対して近況の報告をしたり単なる愚痴聞きをしたりという軽い用事のようだが、以前は夜更けと呼べるくらいの時間には帰ってきていた彼女が、ここのところ夜明け前まで帰ってこないということが多くなった。

 そうして、今日のように夜まで起きてこない。


 周囲がいうには、エリスはグラシムの母親に見えるくらいの年齢的外見をしているのだという。

 だが、実年齢はかけ離れていて、レオニードの祖父にあたる男の妹である。

 本人に聞いたことはないが、歴史書にあった先代王の年齢から考えると、70か80か――村の老女が子供の頃から成人の見た目をしていたということは、もっと上かもしれない。

 若く見えるのは賢者にのみ許された“禁呪”を使っているからだそうで、しかしその実、老いはゆっくりと確実に彼女の命を削っている。


 グラシムには、ここに引き取られた当時とそれ以前の記憶はない。

 初めて会った頃のエリスには多少話したらしいのだが、もうすでにそのことさえグラシムの記憶からは抜け落ちていて、エリスに改めて聞かれても何も思い出せなくなっていた。

 自分の人生は、王都に行く少し前頃、夜の“森”でになっていたときにエリスが迎えに来てくれたあのときから始まっている。そう、思っている。

 だから、グラシムにとってはエリスがただ一人の家族で、彼女がいなくなってしまったらということは、まだ考えたくなかった。

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