第15話

 しばしの王都逗留は、グラシムにとって明らかに好意的な変化をもたらした。

 強張った顔の筋肉がようやく緩んできたと言わんばかりに、日々表情が豊かになり、語彙もみるみるうちに増えていった。

 エリスに対しては親に対するものに似た感情を抱いているのか、庇護者として依存しているのかは不明だが、時折甘えるような言動を見せるようにまでなっている。


 そして、案外、努力家でもあったようだ。

 城で学んだことを忘れないようにと、エリスからもらった反故紙を使って字の練習をし、土産に持たせてもらったという本を熱心に読み返している。

 体を動かしたがるようになり、暇を見つければ運動をしたり剣の素振りをしたり、ときに親鳥を慕う雛よろしくエリスのあとを付きまとって、畑や薬草園の手入れもしたがるようになった。


 しばらくすると背も伸び始め、棒のようだった手足が年相応にすらりとし、肉がついて丸くなった頬も、あっという間に幼子の余韻を消し去って少年らしい線を描き始めた。

 成長に伴う痛みで眠れないという少年に毎晩薬を与えるたび、この子供は昨夜よりも大きくなっていないか、とエリスはいぶかしみ、身長を柱に刻んで確かめてみたら、植物のような勢いで伸びていることがわかった。

 道理で食料の減りが早いはずだ。隠れて食べなくてもいいから、と告げると、グラシムの目が泳いだ。


 どちらかといえば幼児が親のやることをなんでも真似したがるような印象ではあるものの、エリスとしては、断るほどのことでもないからと手伝わせることにした。

 おかげで、生活に必要な技術をグラシムに教える羽目になり、今まで魔術でやっていたあれこれをいちいち自らやることになってしまった。

 なんでもかんでもグラシムがやりたがるため、当然失敗も増え、手間も増えているのだが、エリスとしては不思議と不快ではない。


「子育てはしたことがないんだがね」

「賢者様にも知らないことがあるんだ。いい経験になるね」


 こんな生意気な返しをしてくるほど成長したのは、きっと喜ぶべきことなのだろう。

 野菜の育て方を教え、家事の仕方を教え、読み書きを教え、魔術の基礎となる経典の読み方と解釈を教え、薬草の育て方と見分け方、薬品の作り方を教え、蔵書の一部を読む許可を与え、近くの村に1人で買い出しに行かせるようになり――

 そうやって、時折王都からの依頼や“知恵の樹”に煩わされながら、2人きりの穏やかな生活を送るうちに、季節が巡って1年が過ぎた。


************


 13歳の年を半ばすぎたグラシムは、すでにエリスと目線が並ぶようになっていた。

 13歳になったばかりの頃、レオニードの招待で1か月ほど王都に滞在し、新人騎士たちと一緒に訓練を受けたためか、体つきだけでなく物腰まで大人びてきた。


「騎士に適性があるのかね、あんたは。ぜひ王国軍に欲しいとさ」

「魔術師になれる可能性もあるだろ。早く『適性』を調べろって書いてるはずだよ、それ」


 レオニードの手紙を読むエリスにむかって、唇を尖らせて反論してくる口調はまだまだ子供じみているものの、声変わり真っ最中のグラシムは、声がかすれて話しづらそうにしている。

 “黒の森”に現れたばかりの頃の寡黙で不気味な様子はすっかりなりを潜め、今ではごく普通の少年だ。

 むしろ快活で饒舌なほうかもしれない。

 知識の偏りが埋められたせいか、話していてうつろな印象を受けることもなくなった。

 髪と目の色さえなんとかすれば、どこにでもいる平民にしか見えないほどだ。


 レオニードとは王族と平民という身分の壁はあるものの、比較的よい関係を築いているらしく、頻繁に手紙のやりとりをしているし、驚くことに2人きりのときは「レオ兄」と呼んで慕っているようだ。

 王都滞在中に、一緒に城下町へお忍びで降りたという話を聞いたときには、さすがのエリスも開いた口が塞がらなかった。

 もしかしたらグラシムの存在は、あの頭の固い青年にもよい影響を与えたのかもしれなかった。


「先生、いつになったら俺の『適性』検査してくれるの」

「んー……いつにしようかねぇ」

「まだ嫌な予感してるの?」

「うん」


 この1年、エリスはグラシムの検査を先延ばしにし続けていた。

 いやな予感が消えないということもあるのだが――恐らく、グラシムには魔術の素養があることを確信してしまったからだ。それも、とびきりの才能を。

 もちろん検査をしなければ、魔力の量がどれくらいだとか、どの『要素』に『適性』があるかだとかはわからない。

 検査自体はそのうちしなければならないことには、変わりない。


(ああ、いやだねぇ……世の中に知りたくないことがあるとは思いもしなかったよ)


 エリスが魔術を使うとき、グラシムはいつもエリスの手元を凝視している。

 そのこと自体には、ずいぶん以前から気がついてはいた。

 ただそれはエリスの挙動に注意を惹かれているのだとばかり思っていた――いや、エリス自身がそう思いたかったのかもしれない。


 魔術師が魔術を使うには、まず『陣』と呼ばれるものを魔力を用いて宙に描く必要がある。

 そこに魔力――通常の魔術師であれば魔力をこめた声――をのせて『陣』を起動させるのだが、グラシムにはどうもそれが見えている節がある。

 考えあぐねたエリスがついに観念したのはほんの1月ほど前のことだ。

 少年の視線に気づいていないふりをしながら強力な魔術の『陣』を描いてみせたところ、グラシムは明らかに目を大きく見開いて、初めて見る『陣』を視線でなぞっていた。


 通常、自分よりも格上の魔術師の『陣』を見ることはできない。

 ここでいう格とは、魔術の『適性』の数であったり、魔力量であったりするのだが、それらがすべて上回らないと相手の『陣』の片鱗さえ見ることは適わない。

 王国随一を自称する魔術師であるエリスの『陣』が見えているということの意味。

 未だ明らかにならないグラシムの素性。

 そもそも、いかな才能があったとしても、『陣』を見るためには一定の教育を施す必要があり、その教育を行う必須条件となる識字能力を、昨年までのグラシムは身につけていなかった。

 それらもなしに『陣』が見えている理由など、正直、考えたくない。

 エリスは破天荒な性格をしていると言われるが、常識まで失ったわけではないのだ。


 本人がはっきりと言ってこないのでエリスもきちんと確かめていないだけで――何故『陣』について聞いてこないのだろう、と思うこともあるが、今はまだそこまで突っ込んだ話をする気にはなれなかった。

 強力な魔術師となれば国の中枢と関わらざるを得なくなるだろうし、レオニードと個人的に親しくしている以上、王家に取り込まれる可能性は高い。

 王家の庇護は、泰平の時代であれば有利に働くだろうからと、交流自体を止める気はなかった。

 しかし今の王国の情勢はかすかに不安定さをのぞかせており、万が一、動乱に愛弟子が巻き込まれたらと思うと落ち着かなかった。


 それに――――もし彼が優れた魔術師ならば。


 ――己に残された時間がそう長いものではないと自覚すべきだ


 幾度となく“樹”が繰り返す言葉を、エリスは苦い思いで思い出していた。

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