第14話
王都滞在中、エリスは自分たちが食べる野菜類の畑や鶏の世話を魔術で管理していた。
薬草園はひととおり収穫を終えて土を休ませる期間にあてていたから、放置していても問題ない。
エリスが帰宅して一番に確認したのは自宅周りの結界だが、当然のようにほころびひとつなく、“森”の様子に異変もなく、あとは“知恵の樹”の機嫌が悪いことくらいしか気にすることはなかった。
ついでに言うと“森”に戻ってから、グラシムの味覚はけろりと治った。
食べ慣れないものでなにか体調をおかしくしたのだろうか、とエリスは首を傾げるも、それ以上は今後も気をつけて診ることにして、結論を先送りにした。
王都から戻ってきて数日後の夜、エリスはグラシムに決して家を出ないようにきつく言い渡すと、ふわりと夜空を飛んで“樹”のもとへと急いだ。
『あまりに長尻をしておるから、帰ってこないつもりなのかと案じておったわ』
いつもは数多くの生首が同時にしゃべって非常にうるさい“樹”だが、今日口を開いたのは年を経た男の首だけだった。
この男は“樹”に捧げられた贄たちのうち最も力を持っている存在であるようで、“樹”が明確にエリスへ伝えたいことがあるときなどには、彼が主導権をもって会話を進めることが多い。
“樹”にも、首たちが騒ぎすぎてろくに話ができないことへの自覚はあるのだと、この男が出てくるたびにエリスはいつも内心苦笑してしまう。
「まさか。誓約を忘れるわけがないだろう」
『であればよい』
男が鼻を鳴らす。
“樹”自らがエリスにつけた誓約という枷がある以上、エリスがどこかに出奔することは不可能であると知っているのだから、単に不満を漏らしてみただけというところなのだろう。
エリスがこれほどの期間“黒の森”を離れるのは久しぶりのことだ。
エリスの目を通して情報を得てすべてを把握している“樹”であっても、思うところは出てきていたに違いなかった。
“黒の森の賢者”は彼らにとって番人であり、守護者であり、管理人でもあるのだ。
「そうは言っても、あんたらにも久々の王都だ。色々と見られてよかっただろう?」
『冗談が下手になったな、エリス・ランドスピア』
“樹”の声の尖り方から、エリスはしばしの不在を責められているわけではないと悟る。
「本題に入ったらどうだい。あんたらと違って、私は寝なきゃいけないんだ。さっさと聞きたいことを聞いて解放しとくれ」
『……グラシム・アルスカヤは、どうだ』
「――どう、とは」
不愉快な感情を抑えられず、唇の端が自然と下がるのを覚えた。
『あれをおまえの後継者にするのだろう』
「さて? まだ何も決まっていない。15歳までは手元に置くことを約したが」
『素養を検査しなかったのは何故だ』
「どうにも嫌な予感がしてね……あんたらも知ってるだろう、私の勘は当たるんだ」
事実、エリスは持ち前の異様な勘の良さで、これまでにも危機を回避したことはあるし、“樹”もそれを承知している。
ただエリスは、今回の嫌な予感の対象は、まさに今自分が話している相手であったのではないかと気がついた。
――あの子を、こいつらに取られてたまるか。
そんな気持ちが自分の中にわき起こっていることを自覚しながら、エリスはおくびも出さない。
「ま、近いうちに道具を作って私が自分で検査するさ。あの子もそれを期待している」
『結果を秘匿するつもりではないだろうな?』
「あの子の『適性』をあんたらから隠すことはいくらでもできるだろうがね。結果がどうにせよ、私はあの子をその結果に従って育てなければならない。そこまであんたらの目から隠せるとは思っちゃいないさ」
エリスの視界は、すべて“樹”に共有されている――そういう決まりだからだ。
それを一時的に打ち切ることは可能だが、やったところで意味のないことくらい、エリスにもわかっている。
“樹”はエリスの言葉の内容というより、そこに含まれる真意を探るようにしばし沈黙した。
生首となった男に呼吸は必要なく――いっさいの呼吸器を持たないのだから当然だ――、しかし生前の癖なのだろう、わざとらしく深く息を吐きだしてみせた。
『己に残された時間がそう長いものではないと自覚すべきだ、エリス・ランドスピア』
「……理解してるさ」
************
(……どうもまいったね)
翌朝、いつものように夜明けすぎに起き出したエリスは、身体を魔術で清めて着替えたのち、あくびをしながら畑を見て回り、食べ頃を迎えた実や葉をつんで籠に放り込んでいく。
思考の中にいるのは、黒髪黒目の少年である。
ここしばらくしっかり栄養を与えられていた少年の体はようやく成長期に入ったようで、この年頃の子供特有の眠気のため、起こしに行かないと起きないことが多くなっている。
王都の城でも侍女に起こされていたようだ。
今もまだ布団の中で夢を見ていることだろう。
(グラシムは、あの子じゃない。それは当然のことだ)
決して長いとはいえない期間世話をしているだけなのに、かつて自分が失った少女と彼をかぶらせてしまっている。
エリスは嫌々ながら認めざるをえなかったし、その感傷が自分の頭を鈍らせていることも承知していた。
あの少女とグラシムは、見た目にもその内面にも、まったく似ているところがない。
もしもあの子が生きていてグラシムと会っていたら、水と油のように反発しあって決して相容れない仲になったであろうと想像できるほどだ。
ただ、似たような年齢に見える子供という共通点だけが、エリスの執着を生んでいる。
あの夜の“森”で、グラシムが死ぬかもしれないと恐怖で心臓が凍りそうになったことを思い出す。
拾ったばかりの見ず知らずの子供に対して抱く感情とは、とてもいえなかった。
よくないことだ。本当に、よくない。
エリスはグラシムのことを考えなければならない。
考えたうえで、適切に対処しなければならない。
グラシムはこの国でも滅多に見ない外見をしていて、素性が知れず、成育歴は不審でここに来た経緯も不明で、そのうえ夜の“森”を彷徨い歩いたのに獣に襲われることもなく生還した。
貴族の館かそれに類する場所で匿われるように育てられ、しかし貴種であるにしては粗略に扱われていて、そうでないにしては手をかけられている。
ろくに読み書きもできないのに食事のマナーはある程度身についており、かすかな訛りには宮廷言葉に似たものがある。
存在そのものが歪で、普通ではない。
教えられた知識に偏りがあるのは、彼の育った環境に原因があるのだろう、とエリスは柑橘類の実をいくつかもぎながら考える。
途中までは貴族らしく育てようとしたが、それをやめた? もしくは育て方が定まらなかった? なぜ? どこかの段階で石牢から出す予定や可能性があったのではないだろうか。たとえば――グラシムは貴族の子息で、その存在が明らかになればお家騒動になるとすればどうだ。魔術が発展したカンチアネリでも乳児の生存率は高いとはいえない。万が一、正当な跡取りやそれに近い子供が死んだとき、予備として活用する予定があったとすれば? 正妻の手前、表立って認知し育てることが難しかったとすれば? 異民族の血が濃く出たグラシムの外見から母親の身分が高くないことは明らかで、他に血統の良い子がいるならば、グラシムを子供として遇するのは難しいだろう。父親が異民族という可能性もあるが、どちらにせよ、貴族らしい外見でないというだけで、社交の場では奇異の目で見られる。黒髪黒目を実子として人前に出したくないと考える貴族がいたとしても――不愉快ではあるが、おかしくはない。いざというときのために育てるだけ育てておき、不要になれば処分するつもりだったということもありうるだろう。一般的に貴族の子弟が本格的に勉学を始めるのは、貴族として認められる7歳頃からである。12歳のグラシムが読み書きひとつできないというのはやや不自然だが、彼自身の進退が不明であり、ややこしい家庭環境であったとすれば、まあ、可能性はなくもない。
ふと――思考が唐突に停止した。
“黒の森”の闇が渦を巻いて姿を取ったような、と最初に彼を見て思った感想が甦る。
“黒の森”は今でこそ不気味で危険な場所としてその脅威ばかりを知られているが、歴史を紐解けば、もともとは古き神の住まうところとして畏怖の対象であった。
初代王に仕えた英雄が古き神々を斃し、その身を“知恵の樹”に変じて王国の守護者として大地に根を下ろした、と伝承にいう。
(もしも、グレゴリーが古い信仰を伝える一族と関わりがあるのだとすれば)
グラシムという古い神に由来する名前。
北方の民の色を濃く表す外見――北方の民はかつて、カンチアネリが興る以前の支配者で、古き神々の正当なる血を継ぐ存在であると彼らは主張している。
古き神々が住んでいたとされる“森”。
神々の死体から生じた恨みは黒く染まり、今もなお“森”に満ちている。
突然現れた黒い少年。
(……馬鹿馬鹿しい)
エリスは己の妄想に呆れ、籠を抱え直すとさっさと家へ戻った。
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