第13話
エリスとしては翌日にも王都を発ちたかったのだが、意外な伏兵がいた――当代の王、つまり本来の意味での甥っ子である。
何故まったく顔を見せてくれないのだと、執務の合間に抜け出してきた様子で、客間まできたのだから驚かされた。
「伯母上はいつもそうだ。私よりもレオのほうばかり可愛がる」
50歳をとうにすぎた男が不貞腐れる様子を見るのは、エリスとしても勘弁願いたい。
そういえばこちらの甥っ子も、王座に就く前はレオニード同様、弟子にしてくれとまとわりついてきたことがあったのだった。
強力な魔術者はたいてい独特な感性を持ち、個性的だ――取り繕った言い方をしなければ、アクが強い。
王になってからすっかり落ち着いたと思っていたのに、根は「レオニード」と個人名で呼ばれていた頃から変わっていないと見える。
王のおねだりを断ることもできず、そこから3日間、毎晩のように晩餐に呼ばれ、就寝まで酒と昔話に付き合わされる羽目になった。
もちろんグラシムも酒の席を除いて同席させられ、可哀想な少年は、習いたてのマナーをほとんど発揮できず、ほんの少し食べ物をつまむ以外にはほぼ動けずにいた。文字通り味も何もわからなかっただろう。
最終日にはグラシムに王都を見せてやろうと予定していたことも、王やレオニードがついてきかねない勢いだったので、エリスは「今度2人きりで落ち着いて都を回ろう」とグラシムに謝罪して観光を断念した。
王都を発つ当日を除き、これまで通りにグラシムに対する教育は行われた。
なるべく自分がいないほうがいいだろうと、それまで席を外してレオニードから話を聞くに留めていたエリスは、最後の2日間だけ授業の様子を見に行った。
まず、初日はほとんど読み書きのできない状態だったグラシムが、この2週間ほどで基本文字をすべて覚え、拙いながらもいくつかの単語や自分の名前を書くことができるようになっていた。
この国の字は表音文字であるから、書いてある文章を読むだけならば、書き取りよりも問題なく行えている。
もっとも知っている単語が少なすぎて、イントネーションがおかしいし、読み上げている本人がまず意味を理解していない。
エバンズ伯爵夫人であるアマリアが分厚い辞書を片手にひとつずつ意味をかみ砕いて教えてやっている。
「乾いた地面に水を落としているようですわ」
文字と算術の授業を担当したアマリアが、感心を通り越して呆れたような声でエリスへ言う。
算術では簡単な足し算引き算を教えたそうだが、すでにある程度桁を大きくしても暗算してしまうらしい。
「恐ろしいのは、記憶力です」
アマリアは、神学の授業にも補佐としてついてくれていた。
グラシムが知らない言葉を教えるためである。
「あの子、教典の最初のほうを数回読んだだけで諳んじてしまいましたのよ。教えた単語の意味は一度で覚えてしまいますし。さすがに解釈までは難しいようで、神々への信仰心も芽生えていないようですけれど」
とんでもないな、とエリスはひとりごちた。
自分も神童として幼い頃から名を馳せていたが、グラシムほどではなかったはずだ。
「エバンズ伯爵夫人は本当によくしてくださったようだ。ありがとう……私にできることであれば礼をさせてくれないか」
「ありがとうございます、賢者殿。王子殿下のお召しでしたのでお気になさらず……と申したいところですけれど、賢者殿のお言葉の魅力には抗えませんわ。もしなにかわたくしどもの手に負えないことがありましたら、その際は助言を賜ることは可能でしょうか」
「もちろんだ。いつでも呼んでほしい」
ごく限られた人間にのみ知らせている連絡手段を伝えると、そこまでしてもらえるとは思っていなかったのだろう、アマリアの目が驚きに丸く見開かれ、それから嬉しそうに細められた。
だが、エリスを驚かせたのはそれだけで終わらなかった。
「……まさかレオは今までも相手をしていたのか?」
「…………ええ」
従者の苦り切った顔つきを見れば、嘘をついていないことがわかる。
なんとレオニードは初日の体力測定以降、毎日のように訓練場に足を運び、自らグラシムの相手をしていたのだという。
最初のうちは一緒に訓練場を走り、体操をさせ、木剣の握り方を教え、といった具合だったのが、今レオニードはエリスの目の前でグラシムに型稽古をつけてやっている。
「……なんだか楽しそうだな?」
「…………ええ」
平民と馴れ合うなんて、と言いたげな返事である。
従者の気持ちはわからなくもない。
エリスだって、2人がこんなに楽しそうにしているとは思わなかったのだ。
レオニードの目はいつになくまっすぐで熱心に指導しているように見えるし、グラシムは相変わらず表情に乏しいが、城につれてこられた当初の心細さが消え、レオニードの言葉を必死に聞いて体を動かしているようだ。
「なんだか兄弟のようだな」
「……弟君が欲しいと、以前おっしゃっておいででした」
平民と兄弟などと不敬だと従者に言われると思ったのに、返ってきたのはそのような言葉だった。
レオニードは17人兄弟の末っ子で、権力闘争から最も遠いせいだろう、母の違う兄姉たちからも可愛がられて育ったそうだ。
誰かから可愛がられることに慣れてはいても、自分が誰かを可愛がる経験はあまりなかったのかもしれない。
「――エリス先生!」
訓練を終えたグラシムがこちらに向かって駆け寄ってくる。
拾ったばかりの頃の空っぽの顔ではなく、年相応の体温を感じさせる目つきで、未だ痩せた頬を林檎のように上気させていた。
古い記憶を思い出してしまい、エリスは一瞬、身体を強張らせる。
「お疲れさん、ラシー。レオニード、まさかあんたが相手してたとは知らなかったよ」
「私が面倒を見ると言ったでしょう、伯母上」
毎日のように夕食をともにし、グラシムのことも話していたのだから、そう言ってくれたらよかったのに。
「感謝するよ。どうだい、この子は」
「体力があまりにありませんが、間違いなく筋はいい。この短期間で型稽古までいくとは私も思ってはいませんでした。もう少し育てば軍に取り立てたい」
王族からの言葉としては最大級の賛辞にグラシムは無言だったが、ほんの少しだけ得意げに口元を緩めたのがエリスにはわかった。
「あのね、エリス先生。今日はレオ殿下の部屋でご飯食べて寝ていいって」
グラシムがフォルマの袖をくいくいと引きながら、わずかに声を弾ませて言う。
愛称まで許しているとは思わず、エリスはさすがにレオニードの顔を見た。
照れているのかやや仏頂面ではあるが、拒絶をしないということはそういうことだ。
「最後の夜ですから、話をしたいと思っただけです。夕食の席には、もちろん伯母上もお越しください」
「……そうかい」
ほんの2週間ほどのうちにここまで打ち解けるとは。
グラシムの身元についてはなんともすっきりしない結果に終わったが、いずれにせよ王都に連れてきてよかった、とエリスは微笑んだ。
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