第12話

「なんとも間抜けな話でしたよ、伯母上」


 そう言ってレオニードがエリスの滞在する客間へやってきたのは、王城滞在を始めて10日ほどたった頃の昼過ぎだった。

 エリスと似た菫色の瞳を曇らせ、部屋から人払いをしたのち、応接の机に王国地図を広げる。

 今の時代にもなお地図は重要な機密書類であり、そんなものを部外者の前に晒すとは、と軽く非難を込めて“甥っ子”を睨むものの、彼に頓着した様子はまったくない。


 カンチアネリ王国の国土は、横長に広がる大陸のほとんどを占める広大なものである。

 北部から西部へ続く長大な山脈が自然の壁となって外敵を阻み、北部から東――南東にかけては海に接している。

 山脈の向こうと、大陸の南部――全体から見ればあわせて2割程度の面積のみが、未だ王国に属さない国々であるが、それらもほとんどが王国への服従を誓っている。

 60年ほど前まではそれら諸外国との小競り合いが絶えなかったものの、3代前の王――エリスたちの父王が幾度かの遠征を行い、完全に征服することは叶わなかったが、いくつかの条約を結ぶことで大陸に平和をもたらした。


 さて、王都ダルクレーニは、広い国土のほぼ中心に位置する。

 そこから北西へ馬車で2日ほど進んだ場所に“黒の森”はあった。

 “森”の面積自体は王都4つ分程度で、自然の森林としてはたいして広いわけでもないが、“森”の周辺は集落も畑さえもない見通しの良い低木の草原で、その中にぽつんと飛び地のように異様な存在感をもって“森”は存在していた。


 レオニードの長い指が、“森”を含む範囲をぐるりとなぞった。

 その線の内側はヴィッテ領と呼ばれる領地である。

 西端に“黒の森”というを抱えているものの、領内を流れる大河の影響から豊かに作物の実る土地だ。

 かつては王家の直轄領地であったが、南部遠征の功労者である初代ヴィッテ伯への褒賞として与えられ、以来、歴代の有能な領主により運営されている。


「例のグレゴリーは、どうもヴィッテの民のようです」

「ふむ?」

「あの男は貴族ではなく、ヴィッテ伯爵夫人の愛人でした」


 どういうルートでもたらされた情報であるのか不明だが、レオニードが言うには、グレゴリーという男は現ヴィッテ伯の馬丁であったが、声の美しさを買われて伯爵夫人に寵愛されているうちに従者となり、深い関係になったのだという。

 その男がひと月ほど前から姿を消したということで、伯爵夫人が人目をはばからず取り乱しているそうだ。


「城から夫人の宝石をあらかた持ち出して逃げたということで、伯爵が警察局にも盗難届を出していますが、まあ、醜聞ではありますからね。そこまで大っぴらには捜査もさせていないらしい」

「だろうね。で、あの指輪は夫人のものだったというわけか」


 呆れたようなエリスの声に、レオニードは肩をすくめて応じた。


「そういうわけです。2年ほど前、夫人が王都の職人に依頼して作らせていたものだということがわかり、そこからヴィッテ伯に話を聞いて、ようやく口を開いてくれたのですよ」

「そうかい……グレゴリーは1人で逃げたのか? まさか他の女との駆け落ちじゃないだろうね」


 エリスは下世話な話題と見せかけて探りを入れてみる。

 だが、レオニードはあっさり首を振って見せた。


「そこまでは。城から消えたのは彼1人だけだったようです。周辺に女でも隠していたのかもしれませんが」

「持ち去られたのは宝石だけかい? 馬やその他のものは」

「馬丁ですから馬を盗もうと思えばできたでしょうに、徒歩で逃げたようです」


 エリスは目の前に広げられた地図を自分もなぞってみる。

 ヴィッテ伯の城がある街から“黒の森”までは、王都と反対方向に馬で走れば半日もかからず到達できる。

 しかし領主の所有する馬は、平民の持つそれとは違い、大変見目麗しく体格も大きく目立ってしまう。

 グレゴリーが追われる身ならば、子供をつれて歩いたとは考えづらいから、目立つ馬や徒歩ではなく、馬車でも使ったのだろう。

 城から領地の各地へ伸びる街道には乗合馬車も通っており、それを途中で降りて歩いているうちに誤って“森”に迷い込んだ?


(いや――)


 エリスは自らの考えを打ち消す。

 ヴィッテ城から“森”までしばらく農作地が続き、そこから先は放牧地が広がり、“森”に近づくにつれて人の営みの気配は薄れていく。

 隣接する領地につながる太い街道は“黒の森”を恐れるように大きく迂回しており、周辺は見通しの良い草原が広がるのみだ。

 迷い込むようなことがあるとは、考えづらかった。


(となると、意図して“森”に入り込んだことになる)


 何故、とエリスは思う。


 “黒の森”に人は踏み入ってはならないことになっている。

 しかし結界に守られたエリスの自宅周辺を除き、“森”そのものには入ろうと思えば誰にだって入ることができる。

 単に、面積からは考えられないほどに危険が大きく、特に凶暴な獣たちから身を守ることが不可能であるためだ。

 そのうえ、訓練された騎士であっても“森”に入ればあっという間に方向感覚を失い、慣れぬ者は“森”の放つ異様な気配に精神を狂わされてしまう。

 今までエリスが拾った死体は、城から追跡されている最中の犯罪者のような、捕まったら確実に殺されてしまうようななりふり構わぬ者たちか、そうでなければ飢えで明日をも知れぬ人々が食べ物を求めて入り込んできたくらいだ。


「――――伯母上?」


 レオニードの声に、エリスは思考を中断して視線を上げた。


「どうしてグレゴリーは“森”に入り込んだのだと思う?」

「それは、ヴィッテ伯に追われていたからでしょう? ヴィッテ伯にとっては家の醜聞です。捕まれば真っ当な取り調べなど受けられるはずもなく、その場で殺されてもおかしくはない」


 確かに、と頷いて応えた。

 先ほど考えていたうちの「なりふり構わぬ者」であるとすれば、一応の筋は通る。


 カンチアネリ王国の貞操観念、特に貴族階級におけるそれは、そこまで厳しくはない。

 もっともそれは男性に限った話で、女性はある程度の潔癖を求められる。

 伯爵夫人の愛人騒動など、周囲の者達の間では公然の秘密ではあっても、進んでおおっぴらにはしたくない話題であろう。

 レオニード曰く、ヴィッテ伯爵夫人はすでに子供を産める年齢を過ぎてはいるため、多少の火遊びをしたところで相続争いにつながる子を産む可能性はなく、夫であるヴィッテ伯はむしろ激しい気性の妻をなだめてくれる愛人の存在には寛容であったという。

 むしろ夫人の機嫌を取るための贈り物を買う金を、伯爵自身がグレゴリーに与えていたというのだから失笑ものだ。

 だがそれも、表立った問題になるとなれば、話は別だ。

 窃盗という火種を投げ込んだ平民の馬丁ならば、捕らえたその場で首をはねて、醜聞ごと闇へ葬ることも十分にありえた。


(……では、グラシムは? 万が一の保険であった?)


 グラシムという子供が、もしヴィッテ伯爵家にとって意味のある存在であれば。

 ヴィッテ伯爵家はたどれば王家に連なる血筋であるだけに強力な魔術師で、仮に、遠くを走って逃げる平民を見つければその周辺の地面ごとえぐることだってできる。

 グレゴリーが自らの命を奪う存在として恐れていたのが、領兵の剣ではなく、ヴィッテ伯の魔術であったとすれば。


(そばにグラシムを置いておけば、魔術攻撃を受けないと考えた……?)


 エリスは目を閉じ、あらゆる可能性を思い浮かべる。

 だがそれはいずれも益体のない推測に過ぎなかった。


「……まあ、そういうことならそろそろ“森”に帰るとするよ」

「もう、ですか?」

「畑をほったらかしてる。この時期は放っておくと後の手入れが大変だ」


 エリスはレオニードの不満げな視線からあえて顔をそむけて、言った。

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