第11話
レオニードと会食をした次の日、朝食を終えた2人のもとへ、本当に彼自身がやってきた。
どうやら本気で自らグラシムの面倒見るつもりらしい。
「ひとまず今日は午前中に基礎文字や神学、午後はマナーと運動をすることにしましょう。講師を呼んでいます」
「おや、まるで貴族の子供みたいな教育をするもんだね? ずいぶん手厚いもんだ」
「平民の教育方法は存じませんので」
それもそうか、とエリスは納得し、2人の後に続いて同じ離宮内に誂えられた部屋へ移る。
「伯母上、彼女はアマリア。エバンズ伯爵夫人です」
「初めまして、“黒の森の賢者”殿。わたくしはアマリア・ボードンと申します。よしなに」
淑女のお手本のような礼に対し、エリスは鷹揚に頭を下げるのみで応じる。
準王族の身分を与えてくれた兄と“甥っ子”の顔を立てたわけである。
「エバンズ伯爵夫人、エリス・ランドスピアだ。こんな無茶に応じてくれたことに感謝する。これはラシーといって、私の弟子として手元に置いている子供だ。平民ゆえ無礼を働くこともあろうが、寛大な目で見てもらえると有難い」
「もちろんですわ、賢者殿。それにわたくし、孤児院の運営もしておりまして、わたくし自身が平民の子供たちの世話をすることもありますの。ご安心くださいませ」
なるほど、とエリスはレオニードの人選を理解する。
もちろん彼女自身が汚れた孤児たちの体を洗う類の作業に手を出しているわけではないだろうが、教育を施されていない子供を目にした経験があるならば、敬語一つ使えないグラシムの粗野な物腰にも驚きはすまい。
「ありがとう。とても心強い言葉だ」
彼女が引き受けたのは王子からの依頼だからという理由だけではあるまい。
“黒の森の賢者”と顔つなぎができるとあらば、彼女の夫の伯爵だって諸手を挙げて賛成するだろう。
王妹であり賢者の肩書きを持つ自分の影響力については、エリスだって理解していた。
「では、ラシー、初めまして。わたくしのことは、アマリア先生と呼びなさいね」
アマリアの優し気な声音に、しかしグラシムは困ったようにアリスを見上げた。
「どうした、ラシー。ご挨拶をしなさい。教えただろう」
「でも……」
「あら、ラシーは怖がりなのかしら」
「そうじゃなくて」
いきなりアマリアの目を見て答えるあたり、確かにラシーが人見知りをしたわけではないようだ。
「僕の先生は、エリスだから。先生って呼べない」
「あらあら」
実際、言葉だけでなくアマリアは子供慣れしているようだ。
グラシムの前でしゃがみ、目線を合わせると、穏やかな笑みで彼の顔を覗き込んだ。
「いいこと、ラシー。人は人となるために、たくさんのことを学ばなければなりません。でも、すべてができる人は、たとえ身分が高くともそう多くないのよ」
「……エリス先生は、なんでもできるよ」
「それは彼女が賢者で、特別だから」
「特別……?」
「そう。でも、わたくしもあなたも、きっと普通の人ね。普通の人はたくさんのことができるわけじゃない。だから、お互いに色んなことを教えたり教えてもらったりするの。たくさんの先生を持つのは、普通の人にとって、普通のことなのよ」
アマリアの言葉を、グラシムは小さな頭でなんとかかみ砕こうとしているようだ。
「……アマリアにも、たくさんの先生がいる?」
「もちろん。わたくしにも歴史の先生、マナーの先生、言語の先生、刺繍の先生……とても多くの先生がいたの。たくさんの人を、先生と呼んだわ」
「………………わかった、と思う」
かすかに頷いて、グラシムは膝を床につけて頭を下げた。
「“黒の森の賢者”エリス・ランドスピアが弟子、ラシーと申します。アマリア先生、よろしくお導きください」
**********
初日はそれぞれの担当講師と顔合わせをし、基礎的な学力などを確認することを繰り返して終わった。
読み書きはまったくできず、体力もほとんどない。
食事と茶の所作だけはまだ見られるものだが、周囲はそれをエリスが教えたものと勘違いし、エリスもまたそれを否定しなかった。
さすがに第10王子と賢者がついていた効果は絶大で、グラシムを平民の子供と侮る者は誰一人いなかったのは幸いだ。
そんなエリスは、その夜も泣き出しそうな少年を部屋に残してレオニードと会食である。
話題は自然、今日のことに偏る。
「平民の子供とは、皆ああいうものなのでしょうか?」
レオニードの問いの意味を理解したエリスは苦笑する。
「レオは平民とほとんど接したことがないだろうから驚いただろうね。あれは年齢にしてはわりと物知らずなほうだと思っていいが、ただし、貧民街の者なんかはああいうもんだよ。あれが特別ってわけでもない」
実際のところ、幽閉されていたがゆえのちぐはぐさがあり、単なる教育不足な平民と同じに語ることはできないのだが、あえてここで説明する必要もあるまい。
「同じ平民であっても暮らし向きで差が大きいということですね」
「当然だ。わかりやすくいえば、男爵家の出身者とあんたでは、受けられる教育の質も量も違うだろう?」
「男爵家などと同じにしてもらっては困ります」
レオニードは比較的柔軟な性格ではあるものの、まがりなりにも王の直系卑属である。
王族の矜持といえば聞こえはいいものの、この会話においてのみは頭が固いと言わざるをない。
「あんたは知る由もないだろうが、王侯貴族というくくりでは平民から見ればあんたらは同じように見えるんだ。あんたが平民などすべて同じと思っているのと同じようにね」
「……それは平民たちがあまりに物を知らないのではありませんか?」
「仕方ないだろう。生きていくうえで必要になる知識じゃないんだ。そういうのが必要になるのは、平民の中でも金を持っていたり、貴族や王族と関わりのあるような者たちだけだ。ごく普通の平民にとっては、買い物でちょろまかされない程度に数を数えられたらいいとか、書いてあるものをなんとなく読むほうが必要なことなのさ。それでも難しい表現はわからないから、おふれが出たときにはそれを読む仕事だってあるくらいだ」
なるほど、とレオニードが酒の入ったグラスを見つめながらつぶやく。
「特に平民の中でも貧民は悲惨だ。まともに食べられないから体も弱いし、まともに文字も数字も読めないから搾取される一方。生きるために悪事に手を染めるのはまだマシなほうで、たいていはろくに長生きもできずに死んじまう。生き残ったところでまっとうな生き方なんざ、望むべくもない」
「伯母上は、貧民たちの生活もご存じなのですか」
「ああ、村や街に薬を卸しに行くときなんかにね、必要があれば裏路地をのぞく程度さ。冬には路上で死んでる孤児を弔ってやることもある」
「何故孤児がそんなところで死ぬのです? 孤児院だって各街に設置しているのに」
「そりゃああんた、孤児院にだって定員はあるし、たくさんの孤児を詰め込めるわけでもない。運営には金も手もかかるんだし、孤児を育てたところで大した見返りもない。それに、孤児院に閉じ込められるよりも外での生活を選ぶ子供だっている」
レオニードの目が理解できないとばかりに曇った。
「どうしてです? 少なくとも衣食住の保証があるほうがよいでしょうに」
「……あんたは、自由の価値ってものをまだ知らないからわからないんだよ。安全な鳥籠を選ぶか、外敵に襲われてでも自由に羽ばたける大空がいいのか。それはその子にしかわからないことで、あんたの価値観を押し付けることじゃあない」
城を飛び出した経歴を持つエリスは、まだ若い“甥っ子”の顔を微笑みながら眺めた。
多くの人にかしずかれ、着替えどころか用足しさえ人の手を借りて暮らしているときは、それを不自由だとも幸運だとも感じなかった。
“森”で暮らし始めてから1年ほどは自らの手で生活することに必死で、ろくに賢者らしいこともできなかったほどだけれど、数十年を経た今になって振り返れば、身分という制約に縛られていた頃に戻りたいとは到底思わない。
腑に落ちないという様子のレオニードとそれからしばらく談笑して、ようやくその日は終わった。
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