第10話

 結局その日は裏路地の店をいくつか回っただけで時間切れとなり、エリスたちは城に戻ることになった。

 昼前に王都に到着したのち、城に行くまで適当に市場をふらついたあの時間を、他のことに使えばよかったとエリスは少しだけ苦笑する。

 初めて見るものに内心の興奮を隠しきれないグラシムが、妙に可愛くて、彼の視線の向く店をそのたびにのぞいていたらそうなってしまったのだ。


 裏路地の店々で薬作りに必要な材料と道具を少々購入し、侍女や掃除をする下働きたちに見つからないよう、それらに目くらましの魔術をかけて荷物の隙間に隠す。

 レオニードから食事の誘いがあったのを、平民の弟子――グラシムのことである――を理由にいったんは断り、執拗な“おねだり”に屈して、グラシムには部屋で食事をとるように言いつけ、自分はレオニードと会食した。

 例の男の身元はさすがに未だわかっていないようだが、指輪の細工の特徴からいくつかあたりはつけたらしく、特定までさほど時間はかからないだろうとのことだ。


「しかし、身元がわかれば伯母上がまた“森”に帰ってしまわれると思うと、うっかり情報を伝え漏らしてしまうかもしれません」

「困った子だね。そうなれば勝手に帰るだけさ」


 眼前でいたずらっ子のような笑みを浮かべる“甥っ子”は魔術師として稀有な才能を持つだけでなく、優れた知性をも持つ青年であるが、少々視野が狭く、そこが叔祖母としては可愛くはあるものの、同時に心配の種でもあった。

 現に、初対面のグラシムに強烈な嫉妬の視線を向けていたほどだ。


「レオニード、頼み事ばかりで悪いんだが、もうひとつ頼まれちゃくれないか」

「なんでしょう、伯母上。なんなりとお申し付けください」


 食後の茶を口にしながらエリスが言えば、レオニードは例の危うげな笑みでそう答えた。


「ラシーのことなんだがね」

「ああ、あの子供……」


 とたんに不機嫌を隠そうともしない目になった。

 いや、一応取り繕ってはいるのだ、これでも。

 単に歳を重ねた賢者の目からは逃れられないというだけで、眉目秀麗な彼が物憂げな顔をしていれば、他者は彼を勝手に「平民の子供のことを気に掛ける慈悲深い王族」とでも勘違いするのだろう。


「あの子は、親のいない孤児でね、15歳まではうちで面倒を見ようと思ってるんだが、魔術師としての才能がなかったり、平凡だったりすれば、そこからは自活させる予定だ」

「……それがよろしいと思います。少なくとも、弟子として育てられるだけの才能を持つことはありえないでしょうから」


 かつてこの“甥っ子”は、自分を弟子にしてくれと“森”の入口まで押しかけてきたことがある。

 エリスは彼の才能では自分の弟子にはできないと追い返したのだが、恐らくそれを根に持っているのだ。

 王都には優れた魔術師がそれなりの数存在しており、レオニードはその中でもトップレベルである。

 そのレオニードをも才能不足と断じたならば、平民の子供にそれをしのぐ才能があるわけがないと判断するのも道理だろう。


「だろう? あんたでさえ、無理だったんだ。だからあの子には、『適性』があればそれに応じた仕事でも世話してやろうと思っているし、ないならないで、何かしら考えなきゃいけなくてね」


 ちょっとおだてただけでレオニードの顔色がよくなる。

 長男として生まれていれば未来の名君たりえただろうといわれる青年でも、根は単純なのだ。


「では、どこかよい親代でも探しましょうか」

「そうだね、でもそれはまだ3年は先の話だ、その時に頼むよ。今お願いしたいのはそうじゃなくて、少し騎士の訓練でも見せてやったり、図書館に入れて勉強させてやったりしてほしいということさ」

「はあ」

「あの子は、あまりちゃんと教育を受けたことはないようなんだが、地頭は悪くない。もしかしたら学問に興味が出るかもしれないし、今は病み上がりで貧弱だが体を動かすのが楽しいと思うかもしれない。そういった可能性を、せっかく王都にいるんだ、今のうちから考えさせてやりたいと思ってね」


 言うと、レオニードは少し考えるようなそぶりをみせた。

 嫉妬の対象になるグラシムをエリスから引き離すことにつなげられるのであれば、彼にとってはよいことなのだろう。


「かしこまりました、伯母上。では城に滞在中は、私が面倒を見ましょう」

「レオが、かい?」

「はい。伯母上があの子供のことを目をかけていることは、今のお話からよくわかりました。他の者に任せますと、平民だからと軽んじられることもありますから、私自らが庇護すれば、多少はマシかと」

「そりゃ……ありがたいが……あんたもそこまでは暇じゃないんだろう?」

「今の仕事なんて、どこも腰掛けのようなものです。お気になさらず」


 エリスには彼の言わんとすることがわかる。

 母の身分や本人の王位継承順位が限りなく低くとも、現王と同じ諱を与えられた末っ子王子だ。

 ひときわ王に可愛がられていることには周りも気づいているだろうし、そんな王子を相手にまともに書類仕事を命じられる上長がいるとも思えない。


 エリスは少し思案してから、「じゃあ頼むよ」と結局彼の提案を飲むことにした。

 彼は優秀な青年だから、たとえその動機がエリスからグラシムを引き離すためであっても、グラシムの持つ何らかの才能を見出してくれる可能性も十分に考えられた。


**********


 翌日は城下の教会に赴いてグラシムの『適性』を調べる予定だったのだが、夕餉を終えたエリスは突然顔色を変えてそれを取り消した。


「嫌な予感がしたんだよ。とびきりの、ね。さっきからどうにも落ち着かない。あんたが魔術師になれるかどうかは、この嫌な感じがなくなるまでわからないままにしておこう。なに、それまでに覚えなけりゃならんことが山ほどある。気にする暇もないさね」


 唐突にそんなことを告げられたグラシムはさすがに面食らった顔になったものの、反論もせず、素直に頷いてみせた。

 エリス自身、何故そう感じたのかはわからないが、とにかくこの少年の魔術の素養がわからないほうが都合がよい気がしたのだ。こういう直感には逆らわないように今まで生きていた。急ぎではないのだから構わないだろう。

 侍女を通してレオニードにもその旨を伝え、魔術に関係のない基本的な教養を教えてもらえるように頼んでおく。


「夕食はどうだったね?」

「同じ。味が薄かった」

「そうかい……残さずに食べたかい?」

「残した。ものすごく多いんだ」


 味覚障害の改善にはレバーやナッツ、乳製品といったものがよかったはずだ。

 明日から食事にそういったものを入れて量も少々調整してくれと、エリスは侍女に頼み、風呂に入ってベッドにもぐりこむ。

 同じ離宮とはいえ当然男女の隔てはあり、エリスとグラシムは別の部屋で休むことになっていた。

 普段から個室で寝ているグラシムだが、食事の時間に一人にされたせいか、それともエリスではなく侍女や騎士が部屋の中や外をうろついている環境であるせいか、自分の部屋に行くように告げると、心細さをにじませた目をした。

 他人に風呂の世話をされるのが初めてだった少年は、まるで人間不信をこじらせた猫のような態度であったと、エリスは先ほど苦笑気味の侍女から聞いたばかりだ。


 こういうとき、エリスは古い記憶に爪を立てられたような気持ちになる。

 今すぐ捨てていきたいのに、それもできない。

 拾うのではなかった、見捨てておけばよかった、と思うのはこういうときだ。

 グレゴリーとかいう男と一緒に野垂れ死んでくれていたら、自分はきっとこんな気持ちになることもなく、嬉々として彼の死体を切り刻んでいただろうに。

 内蔵や筋肉に毒をためこんでいない子供の死体は、大人のそれよりも良質な材料になり得る。


「12歳にもなれば普通は親と別々に寝るものだし、平民ならもう立派な労働力だ。今のうちに慣れておきなさい」

「……はい。先生、おやすみなさい」


 少しずつ人らしい言葉を使い始めた彼の背中を見送ることもなく、エリスは枕に顔を押し付けた。

 自己嫌悪で潰されそうだった。

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