第8話

 エリス・ランドスピアは先代王からみて同母の妹であり、身内の誰をもしのぐ極めて優秀な魔術の才能を持っていた。

 兄妹仲は大変良かったといい、エリスが時の有力貴族のもとへ降嫁したあと、先代王は悲嘆に暮れ、彼女が夫と離縁するとなったときには積極的に手を貸したという。

 平民でも珍しいほどの親密さから、兄妹の仲を邪推する噂さえあったというが、とうのエリスは兄の制止を振り切って“黒の森の賢者”となってしまった。


 “黒の森”の詳細は国家機密に含まれているため、それらについて知っているのは、王、それから王の直轄組織である神学研究所の幹部、国教であるイオチャーフ教の教皇と枢機卿、“森”を領内に抱える当代のヴィッテ伯爵に限られる。

 レオニードは彼女と“知恵の樹”がどのような制約を結んでいるのか知る立場にはないのだが、ただ彼女が出奔して“黒の森”に入ったのち、王籍簿からエリスの名前が削除され、平民へ落とされたことだけは知っている。

 ゆえに、エリスがいくら母方のものとはいえ姓を名乗ることは、本来であれば許されることはないし、本人も最初は捨てたつもりであっただろう。

 だが前述のとおり先代王は妹を溺愛していたし、彼女が王籍を離れたあとも王族に準ずる高位貴族として遇するよう、勅令を出していた。

 レオニードの父王にとっても、一国の軍隊を相手にできるほどの強力な魔術師を味方につけておきたい思惑があり、先代王の令は今もなお有効である。

 兄の崩御ののちから、エリスがまるで貴族のように姓を名乗るようになったのは、そういった兄の気持ちを汲んだ結果だろう。


 さて、エリス・ランドスピアはそういう生まれの人物であり、本人が望めばいつでも社交界に姿を現すことが可能な立場である。

 しかし本人は、準王族として王室から支給される禄の受け取りを拒否し、医師や薬師のようなことを生業として生計を立てており、貴族として社交の場に姿を現すことはいっさいない。

 ただし貴族とまったく関係を持っていないわけではなく、宮廷や貴族たちから望まれれば、今日のように薬品や薬草を卸してくれることもあるし、宮廷魔術師たちから助言を求められれば、適切な指導を行ってくれる――もちろん、有料ではある。

 彼女にとっては市井の民も貴族も同じらしく、あの蓮っ葉な口調で、

「その日はどこそこの村の妊婦が子を産む予定のあたりだから、城には行けないよ」

 とあっさり王からの依頼を断ることだってあった。


 何故レオニードがそこまで詳しく“伯母上”のことを知っているのかといえば、それは身内への親しみや魔術師としての憧れといった感情というには、やや強い執着めいたものからであるのだが――

 それはともかく、滅多に誰も頼ることのない稀代の魔術師が、自分がまさにやっている文書管理に関する仕事のことで「頼みがある」と言ってくれたのは、彼にとっては顔が緩むほど嬉しいことであったのは間違いない。


「貴族名鑑でしたらすぐにお持ちしましょう……いえ、その前に伯母上、どのような情報をお知りになりたいのですか? もし役に立つものがあればその資料もお探しします」

「有難いがね、レオ。そんなことを外部の人間に軽々しく言うものではないよ。あんた、もし私が軍の演習記録を見せろと言ったら見せるのかい」

「お望みならば」


 その答えにエリスは苦笑しているが、レオニードは至極真面目である。

 この伯母に認められ頼られるのであれば、レオニードには王子の身分さえ捨てる覚悟がある。


「まあ、冗談はともかく、だ。私が知りたいのは最近死亡したり失踪したりした貴族がいないかどうかということでね」

「それでしたら、名鑑をご覧になるよりも、陛下へのご報告にあげている資料をご用意したほうがよろしいかもしれませんね……どのような理由でそれをお知りになりたいのか、聞いても?」

「ああそうだね、あんたになら話しても大丈夫かな。順番が前後してすまないが、実は貴族らしい男の死体を拾った」


 さらりととんでもないことを言う。


「貴族であればどこぞに報告しなければならんのだろうが、もし貴族でなければあんたらの迷惑になるだろうと思ってね。特に身元を示すようなものは見つからなかったから、ただの豪商の可能性もある。事前にわかればよいと思った程度のことさ」

「なるほど。伯母上、その死体が身に着けていたものなどはお持ちではありませんか?」

「もちろん持ってきてはいるが、あんたが調べてくれるのかい? 王子様にお願いすることじゃないと思うよ」

「そんな水臭いことをおっしゃらないでください。伯母上のお役に立てるならば、なんだってやりますよ」

「嬉しいことを言ってくれるが、まあ、確かにあんたなら信用できるだろうね」


 信用できると言われたレオニードが小躍りしたい気持ちを押し殺している前で、エリスが鞄の中からぱんぱんに膨れた巾着を取り出した。

 無造作に口を開いた中から、血にまみれて破れた服と、大量の宝石が音を立てて出てくる。


「この宝石を、服の内側の腹のあたりに隠してたんだ。死因は恐らく獣に襲われたのち、崖から落ちたこと……どっちが確実な死因かはわからんがね。ただ、その宝石が獣の爪を防いだこともあって、一撃では死ねなかったろうよ」

「…………拝見しますね」


 レオニードも狩りに行ったことはあるから、獣に襲われて人が死ぬ可能性くらいは想像できる。

 しかし、王族の行う狩りの最中に人が死んだことはなく、彼自身に従軍経験もなかったので、伯母の淡々とした言い方に少々ぞくりとさせられた。


 男の遺品だという服をまず手に取る。

 自分たちが着ているような上質の絹が使われているが、家門や地位を示す類の刺繍や文様はない。

 公務がない日の普段着か、もしくは身分を隠して忍び歩く際の服装か、金を持つ商人のものなのか、これだけでは確かに不明だ。

 靴やズボンも同様であり、身元どころか階級の特定にも至らない。

 次に、こちらも乾いた血が付いたままの宝石類を手に取ってみる。

 指輪や首飾りの台座から宝石のみ外して裸石にしたと推測できるものがほとんどだ。

 いくつか大きく傷がついているのは、獣の爪が当たった部分だろうか。

 ひとつだけ特徴的なカッティングを施された石だけが、指輪として仕立てられたままの状態で混じっていた。


「指輪に刻印は入っていませんが、これだけ立派なものですから、職人をあたれば何かしら情報が出てくるかもしれません。お預かりしてもよろしいでしょうか」

「もちろんさ。むしろ、これ全部渡すよ。私のものじゃない」

「ではお預かりします」


 従者を呼び、男の遺品を丁重に別室に運ぶよう命じる。

 彼はレオニードにとって腹心の部下であるから、特に命令せずとも、さっそく持ち主の身元特定に動き始めるだろう。


「ああ、待ちな。これを身に着けていたのは、40代くらいの男。身長はレオより頭半分ほど低くて、手にタコがあるが剣士のそれじゃない。多少筋肉質だが鍛えてるってほどでもない。髪は肩に届く程度で、色は赤みを帯びた茶よりの金。目は晴れた日の空の色だ。名は、グレゴリーというらしいが、偽名の可能性もあると思う。死体はもう“森”に埋めちまったから引き渡せないが、遺族が骨だけでもというならば、まあ努力はしてみよう」

「ありがとうございます」


 レオニードの言葉に合わせ、従者が丁寧に一礼して部屋を出ていく。


「青目に金寄りの赤茶ですか。貴族でも商人でもありそうな見た目ですね」


 見た目だけでなく、グレゴリーという名もまたありふれていた。


「そうなんだ。だから、困ってね」


 金髪と菫色の瞳が王家直系の者の特徴であるように、貴族にもまた身体的な特徴がある。

 たいていは色素の薄い髪色で、青か紫かそれに類する瞳を持つことが多い。

 魔術の素養は基本的に血で遺伝することから、王侯貴族の婚姻管理は徹底されており、ゆえに見た目の特徴が似通ってくるのは当たり前だ。

 ただ、長い王国の歴史の中で、王侯貴族とその他の血が混じったことは幾度もある。

 カンチアネリ王国は他民族を征服し、血統と文化を混ぜることで、異民族を支配下に置いてきたのだから。


「ああ、でも助かったよ、レオ。貴族名鑑なんて面倒くさいもの、自分で読まずに済んだのは有難い。どうやって当たろうかと思っていたからね」

「お役に立てたならば幸いです、伯母上」


 にこりと得意げに微笑んで見せたレオニードに、エリスもまたあの妖艶な笑みを返してくれた。

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