第7話

 カンチアネリ王国の当代王は18代目である。

 名は、ない。

 もちろん出生時にはきちんと名づけをされるし、王族らしくそれなりに立派な名前なのだが、即位するとともに「名無し」となり、死後におくりなを与えられるまではただ「陛下」とだけ呼ばれる。

 それは彼が王となる際、天に人間としての己を返上し、只人ただびとから神の代理人へと姿を変えることを意味するのだという。

 もっともそれは王権神授説に基づいて玉座を神聖化・正当化するための伝統であり、家族や親しい間柄の相手ならば、私的な場所では王のいみなを普通に口にしている。

 当然だ。王とて人の子であるのだから。


 さて、当代の王は賢王の呼び声高いだけでなく、優秀な魔術師であると同時に、艶福家としても知られており、妃が6人、息子が10人と娘が7人いる。

 妻として遇されない立場の愛人は両手に収まらず、その女性それぞれに王族と数えられない子が複数あるというのだから恐れ入る。


 カンチアネリ王国の皇位継承権は、男子を優先した生まれ順で決まる。

 女子に王位継承権は原則として与えられず、直系卑属に男子がいないときにのみ、次代へのつなぎとして王冠を預かることになる。


 レオニード・カンチアネリ第10王子は当代王にとって17番目の末っ子で、側室の中では最も身分の低い女の所生であって、ゆえに王位継承権は最も低い10番目である。

 ただし、魔術の素養でいえば最も父王に近く、かつて魔術の『適性』の多さで継承順位を決めていた時代ならば、間違いなく次の王と目された逸材であったし、文武の才にもその顔かたちにも際立つものがあった。


 だが、骨肉相食むお家騒動ののち、今のように法が変わってからは、誰もレオニードを次期王と見ることはなかった。

 ただ、優秀な魔術師である父に才能と顔が似ていることだけが、うっすらと本人の誇りであるだけの、そんな18歳の青年である。


 どれだけ優れた資質を持っていても、政治の世界で物をいうのは本人の生まれと後ろ盾である。

 父王が彼に自らの諱である「レオニード」を与えたのは、そんな末っ子を不憫に思ったからかもしれなかった。


 閑話休題。


「――そろそろ伯母上が到着なさる頃だと思うのだが、まだ報せは来ていないか?」


 その日、執務室でふと時計を見たレオニードは、思ったよりも時間の進みが早いことに驚きながら、部下に来客者のことを訊ねた。

 どうも仕事に集中しすぎていたようだ。


「はい。まだ王城にはいらっしゃっていないようです」

「外門を通過したのは昼前だったろう?」


 レオニードの菫色の瞳が曇る。

 あの“伯母上”は少々浮世離れしたところがあり、城下でトラブルを起こしていなければいいが、と思わず口にしそうになる。

 伯母のことを心配しているわけではない。

 彼女に振り回される周囲の市民のことが気がかりなのである。


「殿下、よろしければ調べてまいります」

「いや……特に何も報せが届いていないのならばよい。伯母上は自由な人だから、騒ぎになっていなければ、そのうちふらりといらっしゃるだろう」


 手を振って部下に仕事に戻るよう伝え、自身も手元の書類に視線を落とす。

 レオニードが今在籍しているのは、第一省と呼ばれる省庁の中の文書管理に関わる課室である。

 魔術の素養の高さだけでなく、優れた身体能力からも第二省――軍部への配属を望む声も大きかったが、下手に野心を持っていると勘繰られても面倒だと父王に訴え、文官としての道を進むことになった。

 まだ成人して3年であり、将来を決めるのは早いという父王の勧めに従って、当分は1年ごとに様々な部署を渡り歩くことになっている。

 そのせいか、どこでも一時滞在のお客様のように扱われているのがやや不満ではあるものの、将来には必要な下積みであると思って、それなりに真面目に取り組んでいるわけだ。

 それに、他の王子たちも家臣として父と長男を支えるため、何かしらの形で働いている中で、輿入れを待つ姉姫たちのようにただ王宮の奥深くでぬくぬくと過ごすわけにはいかなかった。

 姉のうち1人は先進的な考えの持ち主で、女だてらに地方領主を務めており、密かにレオニードの憧れであるのだが、それはともかく――


「ああ、到着なさったようですね」


 部下の声に顔を上げ、頷いてみせる。


「お迎えを。応接にご案内してくれ」

「かしこまりました」


 王国随一、いや、世界屈指の魔術師である伯母のように暮らすことも、彼にとってはまた強い憧れであった。


************


「伯母上、ご無沙汰しておりました。ご健勝のようでなにより」


 応接室に案内されてやってきたのは、魔術師の象徴である黒いフォルマをまとった年齢不詳の美女である。

 王家の象徴たる波打つ金髪は、当代王やレオニードに比べややくすんでいるものの、辺境の森で暮らしているとは思えないほど光沢のあるプラチナブロンドであり、菫色の瞳にはこぼれんばかりの知性が輝いている。


「レオ、久しぶりだね。あんたも元気そうで」


 伯母上――エリス・ランドスピアは旅の疲れも見せない顔で妖艶に微笑んで見せた。

 伯母という呼び名は自分よりも上の世代の女性に対する敬称のようなものであり、実際のところ彼女は父王の姉ではない。

 先代王である祖父の妹にあたるため叔祖母と呼ぶのが正しいのだが、どう多く見積もっても40歳に届くかどうかの見た目の女性に対して、叔祖母と呼びかけるのは抵抗があった。


「いつもありがとうございます。さっそくお届けいただいたものを拝見しましたが、前回以上の品質の良さに皆が驚いていましたよ」

「おや、あんたも見たのかい」

「ええ、薬に興味がありましたので少しだけ検品を。おかげでお待たせしてしまったのではないかと」

「いや、気にするほどじゃない。こっちも思ったより遅くなっちまって悪かったね」


 元は王女であるはずなのだが、王籍を離れてからの生活が長いせいか、どうも彼女の口ぶりは蓮っ葉でさえある。

 しかし温室育ちのレオニードには、それさえも魅力的に映る。

 レオニードにとって最も憧れる魔術師は父王であるのだが、僅差でその次に来るのが、ほとんど伝説同然のエリス・ランドスピアであった。


「……ところで、そちらは?」


 いつもは一人で大量の箱を馬車に乗せてふらりとやってくるエリスが、珍しく一人ではなかった。

 彼女がくつろぐソファの後ろに影のように控えているのは、まだあどけない顔をしたやせっぽっちの子供である。

 やや尖った鷲鼻の、細い目をした物静かな子供で、身長や肩の細さからすると従者というにもまだ幼い気ように見える。

 茶色の髪に同色の瞳ということは、平民階級だろう。


「ああ、紹介するのを忘れていたよ。これはラシー。私の新しい弟子さ……ラシー、教えてやったようにご挨拶しな」


 ラシーと呼ばれた少年は、ぎこちない仕草で膝をついて礼をした。


「レオニード・カンチアネリ王子殿下にご挨拶申し上げます。“黒の森の賢者”の弟子、ラシーと申します」


 そこで、続く言葉を忘れてしまったのか、少々固まってから救いを求めるようにエリスの方をちらりと見上げる。

 エリスが「躾が行き届いてなくてすまないね、許してやっておくれ」と苦笑交じりに言い、レオニードも思わず微笑ましい気持ちになって頷いた。


「安心しな、ラシー。レオは王族の中でもとびきりいい子なんだ。あんたの不調法くらい大目に見てくれるさ……ねえ?」

「もちろんです、伯母上。ラシーといったか、そんなに小さな体でよくできたものだ。お菓子でも食べるかい?」

「ありがとう、レオ。じゃあ、どこか別の部屋にこの子を連れて行ってくれるかい? 王子様の前じゃ、クッキーだって喉を通るまいよ」


 エリスの言葉の意味を察したレオニードは、控えていた従者に告げてラシーを別室に連れて行かせる。

 彼本人は平民の子供でも、賢者であるエリスが弟子と称したのだから、無礼な扱いはできない。

 ラシーはほんの少しすがるような心細さをにじませた視線をエリスに向けたあと、大人しく扉の向こうに姿を消した。


「……驚きました。まさか、伯母上が弟子を取るなんて。それほど才能があるのですか」


 才能とはもちろん言うまでもなく、魔術師としての、という意味だ。

 ――私だって、連れて行ってもらえなかったのに。

 じり、と胸の奥が焦げ付くような感覚に、レオニードは我知らず唇の端を下げた。


「拾ったんだ。まだ魔術師になれるかどうかもわからないんだが、せっかくの機会だから王都観光でもさせてやろうと思って、まあそれで今日は遅くなっちまったんだがね……それはさておき、レオ、頼みがある。最新の貴族名鑑を見せちゃくれないか?」


 テーブルに置いた茶菓子に遠慮なく手を伸ばし、エリスがさらりと本題に触れた。

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