第6話

 深夜の脱走劇ののち、2人の間に漂う気まずさがようやく薄れてきた頃、グラシムはやっと結論を出したようだった。


「15歳まではエリスのところにいたい」

「15歳まで?」


 朝食をとっていたエリスは、右の眉だけを器用に跳ねさせて、目の前で顔を固くする少年を見る。

 あの夜以来、グラシムの表情筋は少しずつ仕事をすることを覚えたらしく、今も内心の緊張をわずかに頬のあたりに滲ませていた。


「魔術師だってわかればそれより先も、弟子として育ててほしい。一人前になるまで」

「ふん、じゃあ魔術師でなければ?」

「15歳で出ていく。どこかで働く」

「なんで15歳なんだい」

「グレゴリーが、15歳になれば大人だって言ってたから」


 なるほど、とエリスは関心を覆い隠した顔でパンにジャムを塗った。

 珍しく魔術を使わずに作った柑橘のジャムは、少々甘みが強すぎたか。


 グラシムは他人との交流を制限された環境で育ち、きちんと教育を受けた形跡もなく、情緒や思考の発達が12歳という年齢よりも幼い印象がある。

 そのわりにはよく考えたほうだろう。


「わかった。じゃあ15歳まではうちにいていい。魔術師の素質がなかったなら、まあそのときに考えればいいさ」


 答えると、グラシムの目がわかりやすく明るくなった。

 その素直さが子供らしくて好ましいと思う一方、かつて死なせた子供のことを思い出してしまい、エリスは複雑な思いでパンの残りを口に押し込んだ。


「体の調子はどうだい」

「もう平気」

「そうかい。じゃあ明日にでも王都に行こうか」

「どうして?」

「色々と用事があるのさ。あんたの『適性』も調べなきゃならないし」


 エリスはサラダを頬張りながら考える。

 宮廷から受注していた薬品類はすべてそろったし、余計な火の粉をかぶる前にグレゴリーの件も報告しておかねばならない。

 ついでにグラシムの教育に使えそうな本を見繕おう。

 そういえばこの子は、読み書きくらいはできるのだろうか。


「『適性』を調べるって?」

「魔術を使えるか、使えるならどんな魔術に『適性』があるのかを確かめるのさ。その道具があるのは大きな都市の教会でね、王都に行くついでに中央教会の道具を貸してもらう」


 『適性』検査に使う道具は、エリスにとって別に大したものではない。

 一般市民には貴重な魔術具であっても、賢者たるエリスにはこの場で作れる程度のものだが、せっかくの機会だ、グラシムに色々な刺激を与えてやろう。

 この年頃にしては異様にまっさらな子供である。王都に行って騎士を見たとたん、やっぱり騎士になりたいと言い出すことも充分にありえた。

 少なくとも今の彼には選択肢があることを、エリスは教えてやりたかったのだ。


「食べ終わったら、さっそく弟子らしく働いてもらおうかね。荷物をまとめるのを手伝いな」

「うん」

「うんじゃない、はい、だ」

「はい」

「よろしい。それから私のことは先生と呼ぶように」

「エリス先生」


 言って、グラシムはふと首を傾げた。


「僕に魔術師の素質がなかったら、弟子じゃなくない?」

「いいんだよ。そのときはまた別に、あんたに教えることがあるんだから、どっちにしても先生だ」

「はい、エリス先生」


 わずかにはにかんだような表情を浮かべたグラシムの額を、エリスは「出来のいい弟子だね」と微笑んで撫でてやった。


************


 グラシムに手伝わせて大量の薬品と薬草を箱に詰め、翌朝、日除けの布をかけて荷車に詰め込む。

 幸い、天気は悪くない。


「ああ、忘れてた。さっそく教えることがある。これが『魔術具』だ」


 ぺらりと手のひらサイズの羊皮紙を懐から取り出してグラシムに差し出してやる。

 陽を受けてきらりと輝くインクで文様の描きこまれた羊皮紙は、一見してただの飾りにしか見えない。

 グラシムの指導に使えるだろうと、昨夜のうちにいくつか作っておいたうちのひとつだ。


「魔術ってのは、魔力で『陣』を描き、さらに魔力を乗せて『陣』を起動させ、発現させる。この魔術具ってのは、魔力を持たない平民や、自分が持たない『適性』の魔術を発現させる際に使う、まあ、ちょっと便利な道具さ」

「……これがあれば僕にも魔術が使えるってこと?」


 初めて聞く言葉ばかりだろうに、思ったよりも理解が早い。

 もちろん全体は理解しておらず、要点だけを抜き出したのだろうが。

 エリスは弟子の言葉に小さな頷きを返した。


「いつもは私が自分で魔術を使うんだがね、せっかくだから使ってみるといい。これを荷車のどこでもいい、貼り付けて、左下にある宝石を潰すくらいの気持ちで強く押すんだ」

「はい」


 グラシムが言われたとおりに魔術具を起動させるのを確認し、エリスはどすんと荷物のわきに腰を下ろした。


「じゃあ、荷車を引いてみな」


 ガラス瓶やらが詰まった木箱が10以上、そこに大人1人が載っているのだから、普通に考えれば動くわけもない。

 だがグラシムは師に言われるがまま、素直に荷車に手をかけてぐっと力をこめ、すぐに目を丸くしてエリスを振り返った。


「エリス先生、すごく軽い」

「これが魔術具――このタイプは普通『お札』なんて呼ばれてるがね。便利だろう? ただ、これで王都まで歩いていくとなると、さすがにあんたの体力がもたない。一応、“森”を抜けた先で馬を手配しているがね……それでも大した距離だ。さて、どうする?」


 グラシムの細い目が期待で精一杯大きく開かれている。

 思わず、可愛いじゃないか、とエリスは笑いたくなってしまった。


「そこで、これだ。使い方は同じ。貼り付けるのは、あんたの体」


 差し出された札をグラシムがいそいそと受け取り、自分の腰に貼り付けて起動させた。

 ふわり、とグラシムの足が浮かび、「わあ!」と叫ぶ声が響いた。


「くくく、落ち着きな。さっきのも今のも、風の魔術の応用だ。風の『適性』を持つ魔術師は、魔力次第で空を飛べる……それを魔術具にしたんだが、それは飛べるほどの物じゃない。せいぜい、重さを感じない程度にしてくれるだけさ。あんたも飛べるわけじゃないよ。転ばないようにスキップでもしてみな。バランスに気をつけて、さ、出発だ」


 恐る恐る、しかし好奇心に負けてグラシムが軽く跳ねると、ぐんと荷車と一緒に体が前に前にと滑るように進んでいく。

 最初のうちはわあわあ悲鳴が上がっていたが、それがはしゃぐような歓声に変わるのに時間はかからなかった。


(……12歳にしちゃずいぶん幼いと思ったが、もしかしたら、あの子も育て方によっちゃこんな感じだったのかもねえ)


 荷車の後ろで風を感じながら、エリスは髪を押さえてわずかな感傷に胸を痛めた。


「……そうだ、グラシム。適当な場所で声をかけるから荷車を止めとくれ。あんたの見た目を変えるのをすっかり忘れてたよ」

「見た目?」

「そう。あんたの髪と目は目立つんだ。なに、大したことはしないから。さ、早く進みな」


 グラシムは少し不思議そうな顔をしたものの、すぐにまた風を切って進むことに夢中になったようだった。

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