第5話

(あのガキ……!)


 エリスは魔術で生みだした光を自分の周囲にいくつも浮かべ、昼のような明るさの中、夜の“森”を駆けている。

 その足は地面からほんの少し浮いており、木の根や石につまずくことなく、どんどん先へ進んでいく。

 ほんの小さな息遣いが耳に届いた気がして、エリスは反射的にそちらに視線をやる。

 光に照らし出された茂みの後ろにいたのは大型の猿で、エリスに向かって獰猛に牙を剥いている。


「相手をしてる暇はないんだよ!」


 手を乱暴に振ると、圧倒的な風が指先から生じて猿を打ち倒した。

 それを見ていたのだろうか、自分を取り巻くいくつかの獣の気配が小さくなっていき、エリスは舌打ちをする。

 あの子供のもとへ獣が殺到するくらいならば、自分のところに集まってくれたほうがまだよいものを。


 エリスが“黒の森”に選ばれてからもうどれだけの月日が経ったか。

 “樹”との誓約により、エリスは“森”に害されることはない。

 だが、それは“森”に棲む動物には関係のないことで、たとえ賢者であれ獣の餌食にはなりうる。

 エリスは自分を完璧だとは思っていないから、自宅の周りには結界をしっかり張っていたし、“樹”からの呼び出しでもない限り、不用意に夜の“森”へ立ち入らないようにしていた。


 それなのに、あのグラシムはたった一人、この真っ暗な“森”に入ってしまったのだ。


 結界に何かが触れるのを感じ、家を飛び出すまで2分とかかっていないはずだ。

 それなのにあの小さな体はもう影も形もなく、闇に溶けてしまっている。


『あっちだよ』『違うよ、こっちこっち』

『家に戻ったよ』『木の上だよ』


 エリスの周りに、ふわふわと小さな光の粒子が集まり、くすくすと笑い声を立てる。

 “黒の森”だけに限って現れるものではなく、不意に現れて人間を惑わせる類の存在で、その正体は未だエリスも“樹”も知らない。

 このタイミングでそれが出てきたということは、ある程度の推測はできるのだけど、今考えることではない。


『残念』『残念だ』『あの子は、もう死んじゃった』


「うるさい!」


 エリスが声に魔力を乗せて怒鳴りつけると、光の粒子は甲高い悲鳴を上げて散り散りになって虚空に消えた。

 それを最後まで見届けることなく、エリスは目を閉じ、“森”に漂う気配を必死に読み取ろうとする。

 “森”は決して友好的でなく、むしろ足を引っ張ることを好む厄介な共存者である。

 誓約がなければ今すぐ彼女をいたぶって殺したいのが本音だということを、エリスはよく知っている。

 今だってエリスが困っている様子に“森”が喜んでいるに違いなく、獣たちが落ち着かなくなっているのもそのせいだ。

 獣たちの雑多な気配を意識から切り離し、木々のざわめきを遠くに追いやり、残ったところから少年のかすかな気配をたどり――


「グラシム!」


 大樹の根元にうずくまっているグラシムの姿を捉え、エリスは思わず叫んだ。

 魔術を霧散させて地面に足をつけ、突然戻ってきた重力に転びそうになりながら駆け寄り、呆然とこちらを見つめている少年の体を強引に抱きすくめる。

 血のにおい――慌てて少年を自分から引き離して確認すると、至るところ傷だらけだが、一見したところ大きな傷はない。


「馬鹿! 何を考えてんだい!」


 全身が震えだしそうな安堵の次にやってきた身を焦がしかねない怒りに任せ、エリスは少年の肩を掴んで怒鳴りつけた。

 賢者の智恵も理性もどこかに吹き飛んでしまっていた。


「だって……」


 初めて見るほど感情豊かに揺れる目をしたグラシムの声は、痛々しくかすれていた。


「エリスは、僕がそばにいないほうがいい。そんな顔してたもの」


 絶句した。

 声の代わりに涙があふれてきて、エリスは「うう~……」と子供のように泣き始め、そんな自分にグラシムと一緒になって驚き、しかし涙を止めることができない。


「……子供は……嫌いだ……」

「……エリス」


 おずおずと骨ばった手が伸びてきて、エリスの後ろ頭を恐る恐る撫でている。


「ごめんなさい、エリス。もうしないから」

「…………嫌なことを……思い出させるんじゃないよ!」


 八つ当たり気味に叫んで、エリスは今度こそわんわん泣きわめきながら、意味がわからないという顔をしているグラシムの頭を抱きしめて離さなかった。


************


 グラシムのほんの短時間の家出は、その後の2人にとって決して悪いことばかりではなかった、と後になってエリスは思った。

 あの出来事をきっかけに、エリスは古い傷が癒えていないことを自覚したし、グラシムもエリスに遠慮しつつ甘えることを覚えたに違いない。


「……昔、目の前で子供が死んだ。その子供を忘れられない。私が、殺したんだ」


 その夜、自宅に連れ帰ったグラシムの傷を癒してやりながら、ぽつりとエリスはこぼした。

 あの話をするつもりはまったくなかったのに、気づけば言葉が口から漏れていた。

 今夜はどうにも自分らしくないなとエリスは頭を振り、いや、“森”に来る前はこんなものだったかと苦笑する。

 もしかしたら感情表現に乏しいグラシム以上に、自分は自分の心を抑制していたのかもしれなかった。


 グラシムは大人しく治療されながら、黙ってエリスの告解を聞いていた。


「あんたと同じ年頃だったよ。可愛い子だった」


 くすんだ金の髪と菫色の瞳を持つ、よく笑う愛らしい子だった。

 こんな不愛想な黒づくめの子供とは全然違うのに、何故今夜はあの子のことばかり思い出すのだろうか。


「あんたは私のところにいたら、きっと幸せになれない……だから、王都に連れていくつもりだったんだ」


 黙っている相手に向かって、こんな支離滅裂によくしゃべるものだなと自分でも思う。

 だが、言わずにはいられなかったのだ。


「……目の前で、死なれるのはごめんだ」


 言い切って、グラシムの未だ痩せた体を毛布でくるんでから軽く抱擁した。

 夜の“森”で奇跡的に生き延びた彼の体は、やや冷えてしまったようだ。


「グラシム。魔術師になるためには、なにより素質が必要だ。だから、あんたを魔術師にしてやれる保証は、ない。よく考えて……どんな結論が出ても、それまでは勝手に消えないと約束して」


 グラシムは何も答えなかった。

 ただ毛布が小さく動いて、黒い頭が控えめにうなずいた。

 それで十分だ、とエリスは思った。


 少年をベッドに寝かせてやって、額を撫でてやる。

 魔術を使えない少年のために枕元に置いたランプの光が、幼い顔に深い陰影を与えているのを見やって、ほんの少しだけエリスは微笑んで灯を消した。


「おやすみ」

「……おやすみなさい」


 かすれた声が答えるのを聞いて、エリスは部屋を出た。

 今夜はもう眠れる気がしなかった。


************


 そう、このときに気づくべきだったのだ。

 エリス・ランドスピアは“黒の森の賢者”であり、古き叡智を継いだただ一人の人間であり、重ねた年月の分だけ思慮があった。

 それなのにその夜のエリスは正気でなく、思考を放棄してしまった。


 考えるべきであったのだ。

 “黒の森”は、人間を忌避する。

 “知恵の樹”と誓約を結んでいない人間が迂闊に足を踏み入れて、果たして無事に生きて戻れる場所ではない。

 グラシム・アルスカヤが獣にも“森”にも害されることなく、追ってくるエリスから逃れるために走って、石につまずいて転んだ傷だけで済んだ理由など、考えれば気がついたはずなのだ。


 だからエリス・ランドスピアは、このときグラシム・アルスカヤを殺しておくべきだった。

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