第4話

 グラシム・アルスカヤという少年は、寡黙だった。

 エリスが話しかけない限り、まず口を開かないうえ、聞かれたことにも最低限の答えしか寄こさない。

 最初のうち、エリスは慎重にグラシムに質問を投げかけ、彼の素性を探ろうとしたが、ほとんど「わからない」「知らない」ばかりで、嘘をついている気配もないため、さすがのエリスも匙を投げてしまった。

 いずれにせよ、たまたま拾ってしまっただけの迷い子である。

 そこまで考える必要もない、とエリスは結論付けた。


 エリスは一人で生きている期間が長いし、そもそもおしゃべりを楽しむたちでもないので、新しく増えた同居人が無口であってもいっこうに構わなかったが、それはともかく、グラシムはしゃべらないだけでなく動かない。

 朝になって、まだ自力で体を起こすことのままならないグラシムを支えて起き上がらせてやり、魔術で体を清めて朝食をとらせたのち、日課の散歩や畑仕事をして戻ってくると、出かける前とまったく同じ姿勢でベッドに座っているのだ。

 ただ、戻ってきたエリスを見たグラシムが、少しだけ目を伏せて「トイレ」とこぼしたので、エリスは自分のうかつさに額を叩きながら、魔術で彼を宙に浮かべてトイレに運んでやった。


「……これも、魔術?」


 思えば、これが初めてグラシムが自発的にした質問だった。

 エリスは、彼が子供っぽく目をきらりとさせたことに気づき、


「そうだよ、すごいだろ」


 と、軽い体を空中でくるくると回してやる。

 決して笑顔ではないけれど、ほんの少し、グラシムの表情が柔らかく子供らしいものになったようにエリスには見えた。

 もしかしたら――いや、間違いなくこの子供はエリスの下で初めて魔術を見るのだろう。

 この時代、魔術は決して珍しいものではないというのに。

 魔術だけではない。彼の言葉通り、本当に石の牢獄に閉じ込められて育ったのならば、世界の大半を目にしたことがないに違いない。

 王都に連れて行ったら、憲兵に引き渡す前に、少しだけ観光でもさせてやろうか、などとエリスは思う。


 枕元にベルを置き、尿意を催したら鳴らすようにと伝えると、彼は1日3回、定刻に鳴らすようになった。

 そんなにきっちり出るものだろうかとエリスは思うが、まあ本人がそれでいいと言うならばよいのだろう。


「まだ歩けないにしたって、多少動かないと尻の皮が剥けちまうよ」


 グラシムが意識を取り戻して5日目、魔術で浮かべてもらうとき以外一切表情を変えず、身動ぎもしない彼にエリスがそう声をかけると、次の日からはベッドの上を多少横移動した形跡が見られるようになった。

 素直なのはいいことなのだが、なんだかそういう動植物を育てている気分になるエリスである。


 それでもエリスの献身的な――というほど親身でもないが――看病の甲斐あり、2週間たつ頃には、グラシムは自分でベッドから降りて歩くことができるようになり、エリスの手を煩わせることもなくなった。

 それでも行動範囲は彼の居室としてあてがわれた小部屋――もとは応接間である――と、ダイニングくらいで、決して外に出ようとはしなかった。


 動けるようになったからといって、グラシムとエリスの距離が縮まったかというと、むしろ遠くなったようにエリスには感じられる。

 食事はダイニングで一緒にとるようにしていたが、それ以外は決してエリスに近づかない。

 まるで傷ついた野良猫が、不本意ながら人間から与えられている餌を待っているような、そんな距離感である。

 エリスのことを名前で呼んだこともない少年は、身体が動くようになれば、隙を見て逃げ出そうとしているのかもしれなかった。


「グラシム、あんた行くあてはあるのかい」


 毎日の食事で少年のやや頬がふっくらしてきた頃、夕食の席でエリスはそう切り出した。

 唐突な問いに、グラシムはちぎりかけたパンを手にしたまま目を伏せた。


「そんなの、ない」

「そうかい。じゃあ、王都に連れていく」

「王都?」

「ああ。王都になら私も多少のつてはある。あんたはきっと貴族に育てられたんだろうから、貴族に引き取ってもらうのが一番さね」


 エリスは、汚れのない彼の手元を見てそう指摘する。

 監禁されていたとしか思えない育ちをしていたにも関わらず、彼のテーブルマナーは平民のそれと違ってある程度完成されている。

 元は王族であるエリスの目から見ても、見苦しいところはさほどない。

 グラシム自身の血統はともかく、彼を育てたというグレゴリーが貴族階級であることは、遺体が身に着けていたものからしても間違いない。

 グレゴリーなる男がどうしてグラシムを寒々しい石の牢獄に閉じ込め、どういう意図で貴族のマナーを仕込み、そしてともに“黒の森”に迷い込んだのかは、エリスが考えても仕方のないことだ。


「あんたが育ったらしい北方とは付き合いがないが、王都なら多少はある。そこであんたの親代になりそうな相手を探す。なに、私の名前を出せば悪いことにはならないから、安心したらいい。こう見えて、それなりに名前は売れている方さ」


 それに、王都に連れていけば、この子供のことを知っている人間がいるかもしれない、とエリスは考えていた。

 こんな今時お目にかかれないほどの黒髪黒目だ。

 まるで闇が具現化したようなその外見は、悪魔のようでもあり、神秘的でもあり、いずれにせよ一度見れば忘れられない。

 幸い、エリスの「王都のつて」とは王侯貴族であり、くだんのグレゴリーの遺品と併せて報告してやれば、なんらかの情報は得られるだろうし、そこから適切な人間のもとにこの子供を託すことも叶うだろう。

 そこでエリスはお役御免というわけだ。

 

「…………」


 グラシムは、エリスの言葉の意味を考えているようだった。

 ややあって、彼は真っ黒な瞳でこちらを伺うように見た。


「エリスのところじゃ、だめ?」


 初めて、名前を呼ばれた。

 まるで媚びるような目つきで発せられた一言にエリスは一瞬息をつめ、それからようやくその意味を理解して眉をしかめた。


「私は、人の親にはなれない」

「親になんかなってくれなくていい。僕も、魔術師になりたい。エリスみたいに」


 思ってもみない告白だった。

 いや――予想外、というほどでもあるまい。エリスが無意識のうちに、考えないようにしていなかっただけで。

 魔術を目の当たりにしたときにだけ、少年の目は年相応にくるくるとよく動いた。

 こういう言葉が出てくることも予想せねばならなかったのだ。


「…………魔術師なんか、いいもんじゃないよ」


 エリスは額に手を当てて低い声でうめき、その言い様が、かつて自分が魔術師になるのだと宣言したときに返ってきた男の口調そっくりなことに気づいて慄然とした。


(ああ……だから子供は嫌なんだ)


 自分でも忘れていた古傷のかさぶたを掻きむしられたような、そんな不愉快な気持ちだ。


「…………だめなら、いい」


 だが、エリスよりも先にグラシムのほうが折れた。


「エリスの言うとおりにする。わがまま言って、ごめんなさい」


 グラシムはそのまま食事半ばで席を立ち、小走りに自室に戻っていった。

 エリスはその細い背中に声をかけられない。



 グラシムが夜の“森”に姿を消したのは、そのすぐあとのことだった。

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