第3話

 死んだ男の傷から推測するに、獣に襲われて、崖かなにか高所から落ちたとみえる。

 致命傷になったのは、高所落下による内臓の損傷か、腹に残る獣の爪痕か――まあ、どちらもだろう。

 彼を襲ったのは傷跡の様子からするとクマと思われ、顔の右側は原形がわからないほど損傷している。

 残った顔の左半分と全体の背格好からすると年齢は40から50歳程度、シンプルな意匠の服装ではあるが、使われている生地は上等だし、なにより服の内側に縫い付けられた大量の宝石が、彼の高貴な身分を示している。

 財産を身に着けてあらかじめ逃げる準備をしていたということは、彼の追われていた相手は動物ではなく人間――彼が貴族であるとすれば、政敵とかそういったものであろう。

 逃亡の最中に森に迷い込み、足を滑らせて崖から墜落した、というところか。


 では、とエリスはもう一方に目を向ける。


 “黒の森”の霧が渦を巻いて形になったような、そんな印象を受ける男の子だった。

 衰弱して意識を失ってはいるが、彼が失神する寸前にエリスが見たその眼は夜空よりも真っ黒で、髪も同様である。

 背が低く肉付きが悪いので正確な年齢はわからないものの、それでも10歳に届くかどうかといったところか。


 死体ならばその場で刻むものの――現に、一緒にいた男はとうにもう薬の材料に加工した――、子供のほうはまだ当分死ななさそうであると気が付いたエリスは、迷った末に家に運び込んで介抱してやった。

 そして彼の汚れた服を着替えさせるとき、少年の体が痩せていることに気が付いた。

 ろくに食事を与えられず、かつ運動もしていなさそうな肉付きで、しかし指の先は柔らかい。

 となると、彼は農民や奴隷ではない――労働などついぞ知らぬような爪をしている。

 しかし男のそれとは違い、少年の服は粗末な素材で、財産と呼べるようなものも身につけてはいなかった。


(日に焼けていない肌……監禁されていた? ……いや、しかし、この髪と目は……)


 エリスは溜息をつき、濡らしたタオルを魔術でよく冷やしてから少年の額に当ててやる。

 男と違って大きな怪我はなかったのに、癒しの魔術と薬を馬鹿みたいに費やしてもなお、少年の熱は下がらず、発見からもう4日間目を覚ましていなかった。


 気になることは他にもあった。

 本来あの結界には死にぞこない以外はかからないはずで、生きた人間は無意識のうちに遠ざかるように、エリス自身が組み上げた。

 それなのに、この少年は生きたまま結界のそばに倒れていた。

 考えられる可能性としては、死にかけた男が誘い込まれるのに引きずられて逆らう力もなかった、というくらいか。


 エリスは“黒の森”に命を捧げた過去の賢者たちが積み重ねてきた叡知をすべて受け継いでいる。

 その中には医者であった者もいて、多少の医術の心得もエリスは受け取った。

 しかし、だからといってすべてを見通す目を持っているわけではない。

 少年の素性も、彼が目を覚まさない理由もわからなかった。


**********


 少年が目を覚ましたのは、きっかり1週間経った頃だった。

 脱水や栄養失調で死なぬよう、魔術と薬で命をつないでやっていたおかげか、それだけ眠り続けていたのに後遺症がなかったのは幸いなことだ。


 エリスは目を覚ました少年を支えてやり、彼の置かれた現状をゆっくり説明してやりながら――怪訝に思わざるを得ない。

 彼の表情がまったく変化しないのだ。

 見たこともない場所で目覚めれば、大人でもうろたえ、状況の把握に努めようとするだろう。

 だが、彼にはそういった様子はなく、ただ黙って周りを見渡したのち、何の感情もない真っ黒な目をエリスに向けただけだ。

 この年頃の少年としては明らかに異常である。


「あんた、自分の名前は言えるかい」

「グラシム・アルスカヤ」

「一緒にいた男は死んだが、あんたの親かね」

「違う。あれはグレゴリー」

「グレゴリーってのは貴族かい」

「知らない」


 かすれてはいたが、明瞭な発声である。

 エリスは自分の受け継いだ知識を総動員して考える。

 訛りのない綺麗な標準語、否定の部分にかすかな独特の間合い――宮廷言葉? 王族、貴族、官僚の手元で育った? いや、でも今時の貴族が話しているものではない、と思う。


 グラシムというのはあまりある名前ではないが、まったく聞かないこともなく、300年前の軍人にそういう名の男がいた。

 古い――とうに失われた異教徒の軍神に由来する名前であったはず。

 ということは、黒髪黒目、やや尖った鷲鼻と下がり気味の細い目という造作と合わせて考えるに、北方の少数民族ミルスロータの出自か。

 顔の作りだけならば王国民に交じっても目立たないと言えなくもないから、恐らくは王国民と少数民族の混血であろう。


 北方のミルスロータ族は、かつてカンチアネリ王国に征服されて文化と宗教を抹消された土地の者たちで、もともとは大陸中央に住んでいたのだが、王国に追われて北の山脈の向こうへ逃げ込んで、今はそこが彼らの自治区として制定されている。

 彼らの信奉する神々と言葉は奪われたが、誰かが細々と伝承を守っていたとしてもおかしくはなく、それを異民族狩りの狂気が去った400年後の今、密かに子供に名付ける親がいたとしても、酔狂ではあれ、不思議ではなかった。


(だけど、ほとんど混血の進んだ今となっては、真っ黒な髪と目っていうのは、ミルスロータ自治区でもまず見られないと聞く……いわゆる先祖返りだろうか?)


 そして、アルスカヤという家名だ。

 これもまた標準的な王国の名前ではなく、異国風の響きである。

 家名を持つということは、この少年が少なくとも貴族階級の生い立ちであるという意味であるが、少なくともエリスの知る王国の貴族にその家名はない。

 失われた歴史の中にある異民族の貴族や王家の名でもなく、現存する少数民族らの家長の姓でもない。


「グラシムといったね、あんたどこから来たの」

「わからない」

「寒いところに暮らしていたかい?」

「うん」


 グラシムという少年が言うには、物心の付いたころから石でできた部屋で暮らしてきたらしい。

 空もろくに見えない明り取りの窓がずっと上のほうに一つ開いているだけで、世話人が暖炉に火を入れ忘れると、指先が凍りそうなほど寒かったのだという――ということは、やはり北方山脈のあたりにいたのだろう。少なくとも王都周辺にそこまで冷え込む場所はない。

 日々の世話をする男女が何人か、それと死んだグレゴリー以外に生きた人間を見たことはなく、またグレゴリー以外はグラシムと口をきかないように決められていたらしく、グラシムは彼らの名前も知らなかった。


「じゃあ、親の顔も知らないってわけか」

「そう」

「あんた、年齢は?」

「今年の年始に12歳になったってグレゴリーが言ってた」

「綺麗な発音だね。グレゴリーが教えてくれたのかい?」

「生まれたときからできた」

「その名前は誰がつけたのか知ってる?」

「ずっと前からこれ」


 エリスは天を仰いだ。

 まるで“黒の森”の闇が固まったように不気味なことを言う。

 深く考えずとも、厄介な存在に違いなかった。


「……まあ、いいさね。とりあえずあんた、息を止めてな」


 エリスは指を振り、呼び出した水で少年を丸洗いした。

 息を止めるのが間に合わなかったグラシムが反射的にむせて、初めて感情らしきものをみせた――目を丸くして、きょとんとエリスを見る様子は、まるで年相応の子供だ。


「今のですっかり目が覚めたろう。寝てる間に薬は飲ませておいたけど、食べ物は入れられなかったからね。スープを作ってやるからちょっと待ってな。あんた、好き嫌いはあるかい?」

「ネズミは、お腹が痛くなるからいや」


 あんまりな言葉にエリスは眉をしかめ、「そんなもの食べなくていいんだ」と少年の頭をなんとなく撫でてやった。

 手入れの悪い猫のような触り心地がした。

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