第2話

 魔女は夜の眷属であり、悪魔と同一の世界に身を置く汚れた者である。


 ――という信仰が、かつて存在していた。


 その当時魔女とされて処刑された人々は、アニミズムのにおいが色濃い土着の宗教により儀式を行う巫女であったり、迷信と医術をごった煮にしたような処方をする薬師であったりしたという。

 魔女の迫害が行われたのは、カンチアネリ王国と呼ばれるこの国が興ってからのことで、なんのことはない、要するに王国が国教と定めるイオチャーフ教と相容れない類の、異教の信徒を悪魔と決めつけて炎に放り込んだのだ。

 異教徒は一掃され、先住民が守っていた古い神や文化も姿を消したのが、エリスの生きる今の時代である。


 それでも魔女が夜の眷属であり、悪魔と同一の世界に身を置く汚れた者であるという迷信は、未だに世の中にはびこっている。

 魔女狩りが行われたのは、もう400年も前のことだ。

 文字と紙をこの大陸にもたらしたカンチアネリ王国は、ゆえに400年前の凄惨な出来事を記録に留めてしまった。 

 建国以前の人々はそのいずれも持たなかったから、400年前のことなど、とうに口伝にも残っていなかったろうに。


 今の王国民は、魔女というものが“黒の森”の“知恵の樹”に認められた賢者であり、歴史そのものを身に宿す存在であって、そして得てして強力な魔術師であるため、王家でさえ迂闊に手を出せないことを知っている。

 それでもなおエリスたち歴史上の“賢者”が悪魔と同一視されるのは、かつて火あぶりにされた魔女たちの怨念が、歴史を超えて、人々の中に執念深く焼き付いているからかもしれない。


 閑話休題。


 実のところ夜の眷属ではないエリスは、早起きである。

 昨夜は遅くに“樹”のに付き合わされてしまったから、あまり睡眠時間はとれていないはずなのだが、いつも通り、夜明けを告げる鶏の声で目が覚めてしまった。

 年寄りは朝早くに目が覚めるというのは本当かねえ、などと思いながら、大きなあくびをしてベッドから滑り降りる。

 寝ぼけ眼のまま指を振ると、何もない虚空から水の塊が現れて、エリスの全身をばしゃっと濡らした。

 水は床に散ることもなく、エリスの全身から都合よく汚れを落として、あっという間に、生じたときと同様に虚空へと消えていく。

 濡れ鼠になったはずのエリスの体も服も、それと同時にすっかり乾いていた。

 エリスは風呂に浸かるのも好きなのだが、朝はこうやってで手を抜くことがほとんどである。

 どうせ畑を見たり、鶏の世話をしているうちに、またすぐに汗をかくのだ。

 だったら、風呂は夜になってからじっくり入ればいい。


 エリスが再び指揮者のように指を奮うと、クローゼットから服の一式が飛び出してきて、同時に身にまとっていた寝間着と下着がするりと脱げ、先ほど飛んできた服がそれらに代わってエリスの体にまとわりつく。

 あくびをもう一つし終えた頃には、エリスはいつものフォルマ――魔術師であることを示す真っ黒なローブにその身を包んでいた。

 脱いだ寝間着と下着を少し眺め、さっき洗ったけどまあいいか、と呟いて指を振れば、それらはふわりと宙を舞って洗濯物籠に自ら落ち着いた。


 エリスは“黒の森”の“知恵の樹”に選ばれた賢者であり、そして同時に、彼らの叡智、すなわち至高の魔術の使い手だ。

 だから、市井の魔術師たちと違って声を出さずとも魔術を使うことができるし、指一本振るだけで、着替えも洗濯もできるし、パンは勝手に温まって、卵はフライパンの上でひとりでに割れて目玉焼きになってくれる。卵の隣でベーコンがこんがり焼け、野菜庫から飛び出したレタスは自ら水で汚れを落としたのちサラダになる。

 だいたいのことはそれだけで魔術として発現する。

 若い頃、文字通り泥水をすすって生きていた自分が今の様子を見たら、いったいどんな顔をするのやら。


 朝食を食べ終えたエリスは、外に出る前に、一応鏡をのぞいて身だしなみを確認する。

 人とあまり交わらない生活をしているため、こうやって意識をしないと、自分自身の姿や常識にとんと無頓着になってしまうためだ。

 市場に出回っている者に比べて異様に歪みなく映る鏡には、中年と呼ぶには若く、妙齢というにはやや年のいった、年齢不詳の中肉中背の女が映っている。

 真っ白な肌に紫色の瞳が2つ、人よりも薄い唇と頬にはあまり血の気がない。

 ややくすんだ金色の髪だけは立派に波打って、後ろで結んでいても正面からわかるほどの存在感がある。

 彼女が真っ黒なフォルマを着ていなければ、他人が彼女の生活や身分を想像することは難しいだろう。

 フォルマ自体は3級以上の魔術師として認められた者ならば、誰でも身にまとうことができるものだが――というよりも、着用しなければ罰せられ得る――、その襟元には、彼女の瞳とよく似た色の大きな宝石をあしらったブローチが留められている。

 これはエリスの身分証のようなもので、他の魔術師が見ればその身分を推し量って恐れおののく類のものである。

 いや、それ以上に、世間一般の常識がある者ならば、エリスの髪と瞳の色を見た時点で膝をついてしまうかもしれない。

 金の髪に紫の瞳といえば、王家や高位貴族に独特の特徴だからだ。

 エリス自身、もとは王妹という出自である。

 ただ、“知恵の樹”に誓約を捧げた時点で、エリスはその名前以外のものをすべて捨て去った。

 だからこの目と髪には、供物以上の意味はない。


 朝食を終えたエリスは魔術で洗濯物を洗って干したのち――これも指を振っただけだが――、庭に作った薬草園の様子を見に行く。

 薬草そのものの生育は順調だが、先日徹底的に抜いたばかりの雑草がすでにまた姿を見せていたので、手袋をつけて端から丁寧に抜いていった。

 魔術で除草することも可能ではあるものの、ここで育てている薬草は魔力の影響を受けやすいものばかりだ。

 変質させないためには魔術を用いず、丁寧に手作業していくよりほかない。

 畑と呼びたくなる規模の薬草園の手入れは地味できついものだが、エリスは嫌いではなかった。

 無心に雑草を抜いていくうちに、ふと魔術の改良を思いつくこともあれば、先日魔術なしで作ったミートパイがまずくなった理由に思い当たることもある。

 日々を研究と思索に費やす彼女にとって、この淡々とした作業はある意味で息抜きであり、数少ない運動の機会でもあった。


 さて、いかな至高の魔術の遣い手であり、唯一の賢者であっても、エリスは夜の眷属でもなければ化け物でもない。

 過去の叡智により多少人より長生きをして若く見えているだけの女に過ぎないのだから、切りつければ血を流すし、殴りつければ死ぬこともある。

 つまり日が高くなれば熱中症になる危険もあるので、日が中天に至る頃には潔く作業を止めた。

 目覚めのときと同様に魔術で体を清めたのち、小腹が空いたのでスープをすする。

 午後は軽く昼寝をして、それから今日は何をしようか。

 宮廷から求められていた薬を作るには、まだ薬草の育ちが足りていない。

 先日思いついた魔術の改良は、ぼんやりとした思いつきから先が思い浮かばない。


 いっそ今日は何もせず、娯楽小説でも読んで過ごそうか――

 そう思ったとき、ぴくりとエリスの肩が跳ねた。

 家の周りを囲む結界に何かが触れたのだ。


 この危険な場所へは人の出入りがほとんどないため、未だ多くの動物たちが棲んでおり、エリスの結界はクマだのオオカミだのといった生き物から家を守るために張られている。

 例外として、人間の死体だけはその結界を通ることができる。

 もちろん死体が屍肉人となって自ら跳ねてくるなどというお伽噺のようなことではなく、もう助かる可能性のない者だけが誘い込まれるようにやってくるように、エリス自身が結界を作ったのだ。

 何故ならば、人間の肉や内臓はよい薬の材料となりうる。

 エリスが頼めば王城から罪人の死体を送ってもらうことも可能だが、よほど困らない限り彼らに借りを作りたくないので、ごくまれに迷い込んでくる人間を調達することにしているのだ。


 死体は鮮度が命だ。

 エリスは麻袋を手にいそいそと結界の報せてきた方向へ急ぎ――腹を裂かれて倒れた男と、まだあどけない目をした少年を見つけることになる。

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