第18話 サンティと聖獣の国 1

 大きな葉を持つ樹木が鬱蒼うっそうと茂ったジャングルは、夜明けに降った雨を受け、温かいスープから立ち上る湯気のような霧を生んでいる。その霧は海の上にもあって、フィクスムの光を乱反射し、風が吹く度に様々な輝きを生んでいた。

 久しぶりの雨を存分に楽しんだのち朝食を終えたミディエは、寝そべるサンティに背中を預け、潮の香りを楽しんでいる。

 ミディエはまるで言葉を覚えたばかりの子供が、目に入るもの全てのことわりを親に聞くように、サンティへ質問を続けていた。サンティはその質問に答えながら、これまで聖獣として歩んできた歴史を振り返っていた。

「ミディエ、チャウム氏の確認作業も済んだようだ。そろそろ出発の準備を」

 そう言ってチャウムの家から出てきたスタークは、幼体だったサンティの身体が丁度入るくらいのガルの革の袋いっぱいに詰まったフォッシリアを手に言った。

「そんなに良いの? なんだか申し訳ないくらい」

 立ち上がったミディエが、屋敷の方へ振り返って言った。スタークの後に出てきたチャウムとその妻が並んで手を振っている。

「礼はいつでもできる。この世界に平穏が戻ればな」

 スタークは二人に手を振り返して言った。この辺境の孤島は平和そのものだ。だが、いつ組合やバルバリの国のような惨劇に襲われるか分からない。

 シェニムへと向かって駆け始めても、ミディエはサンティに色々と問い続けている。サンティ自身も故郷のシェニムとアリーチェ・デザータしか知らないが、ミディエとの違いは、過去のサンクテクォたちの全ての記憶を持っていることだ。その記憶は、いわば知識だ。引き継いだ記憶と、実感する経験とは違うのか、サンティもミディエほどではないが、見慣れぬ景色や生物たちに心躍らせていた。

「そろそろシェニムが見えてくるはずだ。何もないとは思うが、警戒だけはしておけよ」

 サンティの肩の上で、スタークがサンティとミディエに注意を呼び掛けた。

「バシリアスは本当にフィリヘイトナに行ったのかしら」

 シェニムとフィリヘイトナとでは方角が真逆だ。議長の陽動通りにバシリアスが動いていれば、かなりの時間を稼げる。願いを含んだミディエの言葉にも、スタークは緊張を解かなかった。

「そう願うが、期待はできんな。バシリアスを動かすファンデルはフィリヘイトナがどういうところか知らんだろうが、道中で耳にしないとも限らん。もしフィリヘイトナがどういう土地か知れば、そこにオルビスがあるはずないと知る。そうなったときにヤツがどう動くかだが。ようやく見えてきたな」

 水平線の向こうからシェニムの森が顔を出すと、その姿はみるみる視界の多くを占めていった。

「シェニムの大樹のないシェニム。やはり見慣れぬ」

 陸地が近づきサンティが足を緩めると、海面を蹴っていた足が少しずつ海へと沈んだ。森は海へもその範囲を広げている。サンティは森の切れ目を探し、海岸線を見渡した。

 海に生える木はそこに根を張っているわけではない。海上に姿を見せている木々は、いわば枝の一本一本だ。海底に張り巡らされている地下茎を辿れば、陸上に生える一本の本木ほんぼくに繋がっている。浄化された土地が少なかった時代、木々が生き残るために進化した結果の形だ。

 海上に顔を出す枝は、成長が早いのと同時に寿命も約半年と短い。半年ごとに変化する海岸線ではあるが、必ず数か所は砂浜が露わになっている部分があった。だが、今サンティが目にしている海岸線は、切れ目なく木々が砂浜を覆っている。

「これもシェニムの大樹が倒された影響か。フィクスムの光を遮るものがなくなって、森が成長したようだ。スターク、どうする? 迂回すれば時間を要するが」

「これだけ木々が密集しているとなると、間をすり抜けていくのも難しいな。ユーランの住む火山の洞窟はどっちの方向だ?」

「丁度今フィクスムがある方向だ。やはり迂回するか。フォッシリアを使い、空を駆けるのは最後の手段にしておこう。同じ飛ぶにしても距離は短い方がいいだろう」

 スタークとサンティで話し合い、洞窟に近い入江までは、森の切れ目を探しながら海岸線を走ることに決めた。フィクスムはまだ天の一番高い所まで昇りきっていないとはいえ、休まずに駆け続けても、今日中にユーランの「眼」を借りられるかギリギリのところだ。だが、その心配は杞憂に終わった。

 明け方にディゾラ海の広い範囲に雨を降らせた雲は、この時間にはひと欠片としてスタークたちの頭上には残っていない。広い青空の中、フィクスムだけがポツンと浮かんでいる。そんな中、彼らの周囲を巨大な影が覆った。

「フィル!」

 最初に気付いたのはミディエだった。ミディエの声に応えるかのように、フィルは上空で勇ましい咆哮を響かせた。

 サンティが速度を緩めると、フィルはサンティの目の前に降りてきた。

 フィルの体躯はサンティとほぼ同じ大きさだが、広げた両翼は体長の三倍以上ある。その巨大な翼を大きく羽ばたかせながら、海面の僅か上で空中に静止している。翼の動きに合わせて、身体は上下に動いているが、顔はその位置を全く変えない。その中で、双眸はサンティを射抜き続けている。

「すまないが、二人とも一度降りてくれないか」

「降りるって、ここで?」

 サンティの命令に近い請う言葉に、ミディエは聞き返した。

「大丈夫、ここの深さはミディエの膝までもない」

 水深を心配したわけでもなかったミディエだが、それ以上サンティの肩から降ろされる理由を聞くこともできず、スタークと海へ飛び降りた。

 サンティは二人が肩から無事に降りたのを確認すると、フィルの方へ向き直った。

「見ての通りだ。私はこの者たちに従っているわけではない。だが、この者たちを従わせているわけでもない」

 しばらく黙ってサンティを見つめていたフィルが大きく一度吠えると、一度の羽ばたきで上空高く舞い上がり、フィクスムに向かって進み始めた。

「フィルは何て言ってたの、サンティ」

 ミディエが服の裾を濡らさないように手で持ちながら、サンティの横まで歩いて聞いた。

「フィルはユーランから頼まれて様子を見に来たようだ。彼の後を追う。さあ、また肩に乗ってくれ」

 サンティは両膝を折り二人を促しながら、フィルの姿を見失わないように目で追っていたが、その向かった先に首を傾げた。海岸線を離れ、岬の延長線上にある沖の小島に向かっている。

「あの島に向かっているのか?」

 サンティの肩の上に乗ったスタークもそれに気付いたようで、顎を撫でながら言った。

「そのようだ」

「なんだ、その答えは。向かう先は聞いていないのか?」

「フィルとは細かい意思の疎通はできない。確認できたのはユーランが我々を待っているということ。そのユーランが用意した森を抜ける道が、近くにあるということ。そして、ついてこいと」

 再び二人が肩に乗り、落ちないようしっかり掴まったのを確認して、サンティは海上を駆けだした。向かう先には、岩肌を露わにした小島がポツンと浮かんでいる。いや、浮かんでいるというよりも、海から突き出しているといった様相だ。その島は剣先のように鋭く切り立っていて、生物が足を休ませられるような場所もない。

「あの島で間違いないらしいな」

 島に近づいてくるサンティを認め、高度を下げて崖の横に静止したフィルを見て、スタークが呟いた。しかし、そこに道があるようには見えない。ただの険しい崖だ。

 一体どこに道があるというのか。サンティがそれをフィルに尋ねる前に、フィルは飛び去ってしまった。

「ねえ、あそこ見て!」

 ミディエが、崖の水面に近い位置を指さして言った。

「あそこ、波が崖に吸い込まれてる」

 ミディエの言う通り、崖にぶつかり砕ける波が、ミディエの指さす一帯だけ弾かれることなく岩礁の中へと吸い込まれている。スタークが腰の剣を抜き、風の刃を纏わせてその場所に突き刺すと、剣先は何の抵抗もなく岩の中へと侵入した。

「ここか」

 スタークは、剣を大きく円を描くように動かし、入り口の広さを確かめた。

「このまま通れそうだ。サンクテクォ、行ってみてくれ」

 サンティは頷き、岩壁に向けてゆっくりと進んだ。サンティが手を差し入れ、ゆっくりと二人の頭上を気遣いながら進むと、薄いカーテンをくぐったような感触を全員が味わった。

 穴の中にあかりはない。サンティの身体が道の中に入り切った所で、ミディエがひとつのフォッシリアを出して、前方を照らした。

 道は上り坂になっているが、そのすぐ先で下っているのか、入り口からは通路の天井しか見えない。

「海の水が通路の奥へ入らないための造りだな」

 ミディエの頭の中を覗いたわけでもないだろうが、スタークがその構造の意味を口にした。

 サンティは特に警戒するでもなく道を進んでいる。フィルの案内があったということは、安全な道なのだと信頼している。一方でスタークは警戒を解いていない。周囲を注意深く観察しながら、右手は腰の剣を握っていた。

「フォッシリアの坑道と同じ掘られ方をしているな。掘る時にできる溝が続いている。どうやら人が掘ったようだが」

 話すスタークの声が少しずつ小さくなっていった。道の先で、人の声のような音がしたのだ。

「ミディエ、灯りをひとつ寄こせ」

「それが人にものを頼む言い方?」

 手だけを横に伸ばして言ったスタークに毒づきながらも、ミディエは光らせたフォッシリアをひとつ手渡した。受け取ったスタークは、それをそのまま前方に投げた。

 投げられたフォッシリアが作る影で、洞窟の壁が生きているかのようにうごめいて見えた。地面を転がったフォッシリアが止まると、壁の影の動きも止まったが、別の影が複数動いた。

 その影の正体を見たサンティの毛が逆立ち、両膝を僅かに折って身構えた。

「どうした、サンクテクォ」

「スキアボスだ」

 バシリアスに加担し、聖獣サンクテクォへ凶刃を振るった種族の名を、サンティは唸りと共に口にした。

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