第17話 スタークとバルバリの国 6

 スタークの身を案じながらディゾラ海へ向かってアリーチェ・シルヴァを駆けていたサンティの肩の上で、ミディエの髪がふわりと風に逆らって靡いた。腰紐に縛っている革袋に収めていたフォッシリアから吹いた風だ。

「あ、ルクイトールが。サンティ、ちょっと繋いでみるけど、そのまま気にせず走ってて」

「ああ、わかった」

 すっかりその存在を失念していたフォッシリアからの反応に、ミディエは運命めいたものを感じた。とにかく何かに縋りたいという思いがそう期待させる。ミディエはフォッシリアを手に取り、額に当てた。小さく聞こえていた声が明瞭になる。

 その声に反応してオルビスも輝くと、さらに声は大きくなり、サンティの耳にもルクイトールで繋がる相手の声が聞こえた。最初に繋がった時と同じ声の主だが、やはり相手の言葉は理解できない。

「すみません、あなたの言葉が分からないのですが。私は組合の検石者、いえ、検石主でミディエ・ヴェントスという者です。私が今いるのはアリーチェ・シルヴァ。シェニムへ向かう途中です」

 少しの間を置いて返ってきた男の声を聞いたミディエは目を輝かせた。やはりどこのものか分からない言葉を話しているのだが、その意味が理解できるのだ。そして、相手もミディエの言葉を理解していると分かる内容の話を返している。

「いや、しかしこちらは貴女の言葉が分かりますよ。シェニムへ向かうのならばディゾラ海を渡るのですね。こちらはヌイーラのメンという小さな島に住む漁師です。名はチャウムと申します」

 ヌイーラはディゾラ海に浮かぶ小さな島国だ。メンという島の名前こそミディエは聞いたこともなかったが、辺境の地には違いない。そこに住む漁師と繋がったところで、これまでのミディエであれば何かの役に立つこともなかっただろう。ミディエはやはりこれは運命だと、チャウムに礼を欠くと思いながらも宿の提供を願い出た。サンティは走り詰めだ。日没までに広大なディゾラ海を渡り切るのはかなり厳しいはずだ。

「これまで生きてきた中で最大のほまれ。是非ともおいで下さいませ」

 チャウムは「組合」と「サンクテクォ」という名を聞いて、興奮を隠しきれずにいた。ごく短い時間、遠くからその姿を僅かに目にしただけでも幸運が訪れると言われる聖獣だ。その聖獣を家に招き入れるとなると、チャウムの興奮も仕方がなかった。

「本当に急で申し訳ありません。ではお言葉に甘えさせていただきます」

「ええ。ええ。では、早速準備いたしますので」

 ルクイトールの接続が切れる直前、チャウムのはしゃぐ声が聞こえ、ミディエは微笑んだ。久しぶりに聞く明るい声だ。サンティも、久しぶりに見るミディエの笑顔に、駆ける速度が上がった。


 ディゾラ海。この世界の半分を占める大海だ。そのディゾラ海を横断していたミディエとサンティは、三分の一を渡ったところでその足を休めていた。フィクスムは既に深いジャングルの向こうに落ちている。

 大海に浮かぶ島国ヌイーラ。ミディエのルクイトールが繋がった漁師がいる国だ。

 聖獣たちは、国によっては信仰の対象になっている。このヌイーラもそのひとつ。主に崇めているのは、島国らしく海の聖獣ポッシオだ。

 幼体の期間にシェニムを離れることの少ない聖獣たちだが、ポッシオは時折広大なディゾラ海を巡る。そのため、ヌイーラの家々の多くには、幼体と成体のどちらか、あるいは両方のポッシオをかたどった像が多く置かれている。

「今朝までのサンティもかわいかったけど、このポッシオもかわいいね」

 民家の門扉に飾られている幼体のポッシオを見て、ミディエがサンティをからかった。

「そもそも『かわいさ』というものは我々聖獣の幼体期にとって必要不可欠な要素であり、機能のひとつと言っても良いものなのだ。非力な幼体期は攻撃に対して無防備だからな。この数千年の間、その機能が役に立つ場面はそうなかったが、我々が単為発生による種の保存を始めた当時は大いに役に立ったものだ。『かわいさ』は力あるものに『守りたい』という気持ちを生ませる」

「サンティ、かわいくないよ」

「当然だ。この私は既に成体だからな。『かわいさ』よりも『威厳』がものをいう。ミディエは、かわいいな」

 サンティがニヤリと笑って鋭い牙をのぞかせた。長々とした理屈がミディエをからかい返すものだと分かると、ミディエは思い切りサンティの尻を叩いた。ミディエの小さな手が、サンティの長く柔らかい毛に埋もれた。

「おお、なんという。聖獣サンクテクォ、この目で見るまで恐れながら信じ切れずにおりました。狭苦しい家ですが、どうぞおくつろぎ下さい」

 ミディエの持つフォッシリアを通して、玄関から姿を現した家主の声がした。その家主は「狭苦しい」と言ったが、その家はミディエの家の優に五倍の広さがあった。

「チャウムさんですね。改めまして、ミディエ・ヴェントスです」

 ミディエはそう笑顔で言いながら、自分の顔の横でルクイトールのフォッシリアを振って見せた。

「思っていたよりも随分とお若い。いや、失礼。ルクイトールで話した時は落ち着いた印象でしたので。しかし、組合は大変でしたね」

 ミディエは「あなたは思っていたよりも随分と年上だった」という言葉を飲み込んだ。

「ご配慮くださりありがとうございます。寝床の提供までして頂いて」

「構いませんよ。聖獣サンクテクォと組合の検石主の頼みとなれば、断る者などこの世に居りますまい。ささ、どうぞ中へ。食事も用意できております」

 チャウムが玄関の扉を大きく開いてミディエとサンティを中に招き入れたが、サンティの巨体は広く開かれた扉からも中に入ることはできない。

「私に構うことはない。ここの庭は故郷の草原のようだ。私はここで休ませてもらう。外に居た方がいち早くフィクスムの光を浴びられることだしな」

「何も食べる必要がないっていうのも寂しいものね」

 ミディエがサンティの前足をいたわるように撫でてチャウムの屋敷に入ると、サンティは鼻を鳴らしてその場に横たわった。

「うわあっ、凄い」

 テーブルに並べられた食事に、ミディエは思わず喉を鳴らした。

 大好物の魚料理が並ぶのを見て輝かせていた眼が、その身を口にした時にさらに輝いた。

「アリーチェ・デザータでは、ジェイド湖の魚しか食べる機会がないでしょう? どちらが美味しいなどとは言うつもりもありませんが、ディゾラ海で育った魚はまるで別物のはずです」

 夢中で食事を口にするミディエにそう言ったのは、全身白い服に身を包んだ料理人だ。言葉ではそう言っているが、態度では自身の出した料理に絶対の自信を持っていると語っていた。

 実際ミディエには、同じ魚料理だとは思えなかった。

「本当に美味しい!」

 笑顔で言ったミディエに、料理人は何度も頷いた。

「きっとアレですね。海の水ってしょっぱいから、その味が染みているのでしょうね」

 ミディエのその発言を聞いて、料理人は「なるほど、そうに違いない」という顔をしていた。

「さて、お食事中申し訳ない。お伝えしていたものですが、その箱の中全てが未承認のフォッシリアです。役に立つものがあれば良いのですが」

 サンティにフィクスムの光を溜める蓄光のフォッシリアを食事として与えてきていたチャウムが、部屋の角に置いてある木箱を指して言った。大きな木箱だ。ミディエ二人分が入れるほどの容積がある。

「これが、全部そうなのですね。ありがとうございます。食事の後で早速確認してみます」

 箱を覗いたミディエが感嘆の声を出した。箱の半分以上がフォッシリアで埋まっている。既にミディエと繋がったフォッシリアのいくつかが、フォッシリアの山の中で光を放っていた。

 チャウムはこの小さな町の漁師だが、同時に海底に沈むフォッシリアの収集家でもあった。ディゾラ海を渡れるほどの船は所持していないため、箱が一杯になると、仲買業者にフォッシリアを纏めて卸し、組合に送っているという。

「ほとんどがコムーニャ(産出量が多く価値が低いもの)だとは思いますが、中にはアリーチェ・デザータで産出されるようなものもありますから。このルクイトールも私が引き上げたフォッシリアなのですよ」

「ありがとうございます。コムーニャでも旅先では役に立つものも多いですし、役に立たなくても、サンティの、サンクテクォの食事替わりにはなりますから」

 ミディエは感謝に深々と頭を下げて言った。

「いやぁ、道楽もそこまで検石主殿に感謝されるのであれば、遊んでいた甲斐もあったというものです。お陰でうるさい家内にも面目が立つ」

 チャウムの明るい笑いに、美味しい食事。辛く厳しかった一日の締めくくりに、思わぬ褒美をもらったミディエは、スタークから言われたひと言を思い返していた。

 ――誰かが動かねば、我々が生き続けることは叶わん。

 我々とは、バルバリの民だけではない。聖獣も、ノヴィネスたちも、その他全ての生物たちも。そういう目をしてスタークは言っていた。自分が、自分たちが立ち向かわなくては、この幸せな時間が奪われてしまう。ミディエはこの時、自分の宿命を受け入れる決心をした。


 翌朝、ミディエは久しぶりに聞く音で目覚めた。屋根を叩く激しい雨の音だ。アリーチェ・デザータに雨が降ることはない。天から水が絶え間なく降り注ぐ様子を目にして、ミディエは珍しさに外へと飛び出した。玄関のすぐ外にいたサンティの尾を踏む寸前、「おっと」と声に出して飛び越えた。

 まだ育ての親が健在だった子供の頃に雨に打たれたことはあるミディエだったが、胸の中にもその雨が染みたような、悲しみに似た懐かしさを感じた。

「ママ」

 頭で考えるより早く、心で感じるより早く、その言葉がミディエの口をついて出た。育ての母ではなく、チェア山脈の雲の中、本当の母の胸に抱かれたぬくもりが蘇ったような気がしていた。

「じきに止む。アリーチェ大陸の方は晴れていたからな」

 そこにサンティしかいないと思っていたミディエは、思わぬ声の主に驚いた。

「スターク! よくここが分かったわね」

 今到着したところなのか、スタークのローブからは雨が滴り落ちている。

「サンクテクォの輝きが見えたからな。昨日は成体になって走り通しだったうえに、この雨でフィクスムの光も弱い。相当腹が減っていたのだろう」

「腹は減らぬ。スタークの気配がしたから目印になってやっただけだ。バルバリの国はどうだった?」

 サンティの問いに、スタークの表情は厳しい。良くないことが起こったのだろうとはミディエも想像できていたが、スタークが話した内容は、ミディエの想像よりもはるかに酷かった。サンティも同じだったようで、珍しく嘆息している。

「まるで命を命と思っていないらしい。あるいはバシリアス、いやファンデルにも正義があるかと考えぬでもなかったが、考えを改めざるを得ぬようだ」

 サンティは悲しげな眼でそう述べたが、スタークはその言葉に呆れていた。

「正義だと? お前の先代を殺した時点で、ヤツにそんなものがないのは分かり切っているだろうに」

「先代を殺したのは、ファンデルではない。キノニアとしてのファンデルを手にしようとしたバシリアスだ」

「それはそうに違いないが」

 サンティの言葉の意味するところを噛みしめ、スタークは腕組みして考えを巡らせた。

 最初のノス・クオッドであるファンデル。無から自分自身を創り出した存在。バシリアスが封印を解いたのは、そのファンデルのキノニアだった。

 オルビスを求めているのは、バシリアスか、ファンデルか。

 スタークの脳裏に、ピートと対峙した後に初めて姿を見せたバシリアスと、バルバリの図書館で見た聖獣の目が映した惨劇が蘇る。

 ピートを使い、スタークたちを襲った時はバシリアスを名乗っていたが、議長に問われたときは名乗らなかった。その違いがスタークには引っかかった。

 スタークにも正直分からないことだらけだった。エスに答えを求めても、肝心のファンデルが何をしようとしているのか、バシリアスの意志がどれほど働いているのか、まるで分らない。

 だが、スタークには分かったこともあった。いや、分かったというよりも、再認識したことだ。

 自分たちには、平和に生きる権利がある。それを誰かに奪わせるわけにはいかない。それがバシリアスであれ、ファンデルであれ。

 再び仲間と合流したスタークは、王としての約束を必ず守ってみせると改めて自身の心に誓った。

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