第15話 スタークとバルバリの国 4

 チェア山脈を覆う厚い雲。その直下を、千切れた雲が風に逆らって流れている。その雲を目にした者がいたならば、その美しさに心を奪われただろう。千切れた雲のように見えた者の正体は、山肌を駆ける聖獣サンクテクォだ。しなやかに動く身体は優しく打ち付ける波のようでもあり、森を撫でる風そのもののようでもある。三岐に分かれた尾は、それぞれに意志を持っているかのように、駆ける身体の後で乱れた風を整えながら妖しく蠢いている。

 聖獣サンクテクォが向かう先には、チェア山脈を挟んでアリーチェ・デザータと隣り合う国、アリーチェ・シルヴァへと向かう唯一の交易路があった。

 行きかう貿易商たちは、その道を咆哮の谷と呼んでいる。山脈を巨大な斧で切りつけたかのような深い谷を常に吹き抜けている風が、巨大な翼を有する聖獣フィルの咆哮に似た音を絶えず奏でている。

「アリーチェ・シルヴァが見えてきた。サンティ、あとどれくらい?」

「まだ四分の一も来ていない。アリーチェ・シルヴァを横断した先に海がある。この世界で最も広い海だ。シェニムは、その海の向こう側だ」

 聖獣たちの故郷、シェニム。その地に最初のノス・クオッド、ファンデルが眠っていた。バシリアスがファンデルを目覚めさせ何が起きたのか。聖獣ユーランはそれも知っているかもしれない。命を奪われた先代のサンクテクォと、最後の力を振り絞って生み出されたばかりの、幼かったサンティが知らない何かを。

 走り続けるサンティの肩を、スタークが強く掴んだ。

「どうしたの? スターク」

 明らかに緊張が走っているスタークを見て、ミディエが問いかけた。だが、スタークは別の所に意識が向いているようだ。ミディエではなく、サンティに向かって言葉を発した。

「止まってくれ、サンクテクォ」

 スタークが肩を強く掴む直前から駆ける速度を緩めていたサンティが、理由を聞かずに言われるまま足を止めた。

 サンティの肩から地に降り立ったスタークは、顔を上げて雲を見上げている。

「すまないが私は残る」

「ひとりで良いのだな?」

 サンティは、スタークになぜ残るのかも問わなかった。

「無論、もとよりひとりだ。お前たちは急いでシェニムへ向かってくれ」

 スタークはローブの腰紐をきつく縛り直し、斜面を駆け上がり始めた。

「スターク!」

 ミディエがその背中に叫んだが、スタークは振り返ることなく雲の中に姿を消していった。

「サンティ、スタークはどうしたの?」

 サンティも既にテネブリスへと駆け始めている。ミディエがその肩から振り落とされないように、首にしがみつきながら聞いた。

「分からないが、バルバリの国で良くないことが起きているのは確かなようだ。私の耳にも人々の嘆く声が聞こえ、血の匂いもした」

「嘆く声と血の匂い?」

 ミディエが雲の先に視線を向けるが、人の声など聞こえない。聞こえるのは、遥か下を通り抜ける風が作る咆哮だけだ。「スタークも言っていた。元々彼はひとり。ここは彼に任せていれば良い」

 サンティが心配そうに空を見上げるミディエに声を掛けた。

「ひとりって。私も同じバルバリの仲間じゃなかったの?」

 ミディエはそうサンティに返した後に、自分でも思いもよらないほど言葉に棘を含んでいたことに罪悪感を覚えた。

「あっ、ごめんなさい。サンティを責めるつもりとかじゃなくて」

「いや、オレこそ言い方が悪かったようだ」

 今日一日で全てが変わった。ただ笑っていた日々が遠い過去のようだ。ミディエはスタークの姿を飲み込んだ雲を見つめ、山脈の雲の中よりも見通しの悪い未来を案じていた。


 その厚い雲を抜け、スタークは故郷であるバルバリの国を目指していた。

 その道を進むためにバルバリの国を囲む高い尾根を越える必要はない。国内にある五つの通りと同じく、聖獣の名を冠したトンネルを抜ければいい。咆哮の谷の真上にはフィルのトンネルがある。

 そのフィルのトンネルの中を駆け抜けていたスタークの足が、出口の光を目にした瞬間、その速度を落とした。嗅覚が警戒しろと訴えかけている。血の匂いだ。雲の下で聞こえた人々の苦しみ嘆く声はもう聞こえない。

 スタークが慎重に歩みを進めていると、出口の丸い光の中を複数の人影が横切った。その影に邪悪なものは感じない。

「誰かいるのか?」

 トンネル付近には、一年に五回ある祭礼の日を除いて近寄る者はいない。そこに複数の人影があると言うだけで、ただ事ではないと知れた。

 スタークが外に向かって声を掛けると、一度通り過ぎた人影が光の中心に立った。影は四つだ。

「賊の仲間か? これ以上この地を荒らすことは絶対に許さんぞ」

 四人が警戒しながら、じわりとトンネルの中にいるスタークとの間を詰めた。そして、互いの顔が確認できる距離まで近づくと、先頭に立っていた男が目を見開いた。

「あなた様はもしや」

「まだ私の顔を憶えてくれているようで何よりだ。何があったのか教えてくれ」

 先頭の男が片膝をつくと、後ろに居た三人もそれに倣った。

「陛下、議会が襲われました。カルニフェクス議長以下、議員の十四名も全員無残に」

 話す男の地面に付けられた拳は、怒りのせいか細かく震えている。

「殺されたというのか?」

「はい。その他にも、女子供を含む農民たちも何人か犠牲に。賊の狙いは分からず、今はその姿も消えています」

 スタークは深い溜息を吐いた。姿を消しているということは、この地での目的を果たしたのだろう。だが、男の言う「賊」の狙いが議会の壊滅にあるとは思えなかった。

「そいつを見て生き残っている者はいないのか?」

 スタークの言葉の中に、怒りと苛立ちを感じた男は、肩を強張らせた。

「今まさにそれを調べているところですが、残念ながら」

 スタークは舌打ちをしてトンネルの外に向かって歩いた。男たちもスタークの後に続く。

 外に出たスタークが、光に溢れる国土の眩しさに瞼を細める。その光に慣れ、眼下に広がる風景を目の当たりにしてスタークは唇を噛んだ。スタークがこの地を去ったときから変わらず、円形の国土の中心にあるフィクスムの塔は空高く聳えているが、五つの門のうち、二つが破壊されている。

「これだけやられて、見ている者が誰も残っていないと言うのか?」

 叱責されているような言葉に、男たちはスタークの背後で再び片膝をつき、平伏した。

「はい。付近にいた者たちは、その場から逃げ出すのがやっとだったと。もっと近くにいた者たちはことごとく」

「『聖獣の目』に記憶が残されているのではないのか?」

「残されているとは思いますが、確認の許可を出す議長がいません」

 振り返ったスタークの目の前にいた男が表情を暗くさせているのを見て、スタークは嘆息した。

「議会が壊滅したというのに、まだ法にこだわっていたのか」

「そうやって今までこの国を存続させてきたので」

 男は言葉強くそう返した。それが誇りだと言わんばかりに。

「その調子では、まずは議会を再建してからと言いそうだ」

「この者もそう申しているわけではありません。失礼ながら申し上げますが、長らく国を離れて忘れてしまわれたのですか?」

 別の男が俯いたまま小さく溢した。スタークはすぐに言葉を返さず、視線を破壊された門に向け、そして目を閉じた。

「バルバリ律令りつりょう第十二項」

「憶えていらっしゃいましたか。では、国民に命じて下さい」

 スタークは膝をつく四人を見渡した。第十二項には、議会が機能を停止したときに、通常政治は行わず議会における決定事項の最終承認のみを行う国王が、議会運営の代理も担うという内容が記されている。

「だが、それでは私がこの国に留まらなくてはならなくなる。それはできん」

「形式だけでも構いません。民たちが混乱している今、陛下の姿を見れば、誰もが安心するでしょう」

 その言葉を合図にしたかのように、四人の男たちは揃ってこうべを垂れた。

「形式だけか。分かった。では、そのようにしよう。ヤツがこの国にまで足を延ばしたということは、時間もそれほど残されてはいまい」

「ヤツ、ですか? 陛下は賊の正体を知っておられると?」

 スタークは門に振り返って一歩を踏み出し、四人を横目でちらりと見て、背中越しに口を開いた。

「ああ。今はノヴィネスの姿をしているが、ヤツの正体はファンデル。最初のノス・クオッドだ」

「ファンデル? ノヴィネスの姿? 一体なんなのですか、それは?」

 これまで平和に暮らしていただけのバルバリの民が知らないのは仕方がない。スタークでさえ、ファンデルの正体はサンティに聞かされるまで知らなかったのだ。

「太古から蘇った厄災。二年前の聖獣殺しもそいつの仕業だ」

 スタークはそう言い残し、地面を蹴って議会門へ向け飛翔した。

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