第12話 スタークとバルバリの国 1
ジェイド湖には多様な生物が生息しているが、特にチェア山脈側の岸には、より多くの水生生物が存在している。
チェア山脈から地下水脈を通ってきた水は、多くの養分を含み、微生物たちのエネルギー源になっている。その微生物たちを食料とする小型の水生生物のほとんどが、ジェイド湖の固有種だ。
有史以来、その生態系を根拠に、バルバリの民とノス・クオッドの民との争いは現実あったことだと説いた生物学者も数人いた。また、原始の生物が多く存在しているジェイド湖は、今でも生物学者たちの注目の的だ。
一万年前に、ノス・クオッドの生き残りであるバルバリの民によって創られた自然。雨が降らなくなった地に、雨を降らせるために創られた自然だ。
「山脈の向こう側には行ったことはあるか?」
成体になったサンティの右肩に座るスタークが、左肩に座るミディエに聞いた。フォッシリアとの繋がりが回復しないまま、歩いて「ジェイド湖の底」を目指していたスタークたちだったが、その歩みの遅さに痺れを切らしたサンティが、二人を肩に乗せて、広大な砂漠の上を風のように疾走している。
「うん、何度かね。こちら側とは全くの別世界。でも、今のスタークの話を聞くまで、チェア山脈があるせいで、アリーチェ・デザータは砂漠だらけなんだと思ってた。だって、山脈の向こうは広い森がどこまでも拡がっているんだもの。それこそ、大きな生き物みたいな森が。その森が大陸全体に拡がるのを、山脈が食い止めているように思えてたんだよね。でも、実際はその逆ってことなんでしょ? 一万年前は、山脈の向こう側もずっと砂漠が拡がっていた。それが、チェア山脈が創られて、アリーチェ・シルヴァには森が拡がって、アリーチェ・デザータにはジェイド湖ができた」
ミディエがそう言うと、スタークはサンティの肩を二度ノックするように叩いた。
「聖獣たちはそれも見てきているだろうに、無関心なものだな。その叡知を示せば、喜ぶ学者どもも多かろう」
「スターク、分かっていて言っているのだろうが、言葉が話せぬ聖獣にそれは無理だ」
聖獣たちは、それぞれ一体ずつしか存在しない。唯一世代交代の瞬間に二体が存在するが、記憶を含めたすべての情報は、新しい聖獣が発生した後、言葉以外の方法で個別に受け継がれている。
その言葉を必要としない聖獣でありながらサンティが言葉を話せるのは、ミディエがフォッシリアの力を使って言葉を教えたからだ。既に一度言葉を覚えたサンティはもちろん、今後サンクテクォを継ぐ個体も、言葉を話せることになるはずだ。
「それに、我々は人との関わりを嫌う。理由は問うなよ。一万年前以上前のことを根に持つ、頑固者だと思われたくない」
「じゃあ、どうしてその人嫌いの聖獣サンクテクォがこうしてるの?」
ミディエが、悪戯っぽくサンティの首筋をくすぐりながら言った。
「人そのものを嫌っているわけではない。だが、そうだな。重要なのは『なぜこうしているのか』という問いだろうが、その答えはひとつしかない。先代が殺され、そうせざるを得ない状況になったからだ」
ミディエは期待していた。「ミディエが好きだから」と、答えてくれるのではないかと。だが、期待に反して悲しい答えを述べたサンティの駆ける速度が、僅かに上がった気がした。
「それと、ミディエは好きだ」
肩越しに何かを感じたのか、サンティが小声でそう呟くと、ミディエは柔らかく
「ありがとう、サンティ。私もサンティが好きだよ。この姿も凄く綺麗だし」
ミディエがそう言ってサンティを抱きしめると、そのサンティの身体が浮いた。
「ん、フォッシリアとの繋がりが戻ったか。ミディエ、そのオルビスとの力は認めぬでもないが、扱いを習得してもらわねば困るな」
スタークがミディエの方を向いて、苦笑しつつ言った。
チェア山脈には、いくつかの坑道がある。その多くは廃坑になっているが、今なお掘り進められている坑道が三か所。いずれも、山脈のアリーチェ・デザータが国土を有する斜面側にあり、樹木のない岩肌にその口を開けている。
坑道が集中する中腹までは、その地を訪れる者に穏やかな山容を見せている。だが、雲が覆い始める高度からはその姿も一変する。翼を持つ生物たちでさえ、雲には近づかない。そこに向かえばどうなるのかを知っているからだ。
「この先は歩いていく。ミディエはサンクテクォの肩に乗っていろ。サンクテクォは私から離れないようについてこい」
先頭を飛ぶスタークが、なだらかな斜面を選んでその地に足を降ろした。よく見ると、その一帯には多くの足跡が見られる。
「この上がバルバリの国」
ミディエが斜面の上に目を向け呟いた。目前に浮かぶ雲に隠れるその先が、一体どこまで続いているのか想像もできない。
「バルバリの国は雲を抜けた先にあるが、エスが眠る場所への入口は雲の中だ。雲の先までは行かん」
休むことなく歩きながら、スタークは言葉を発している。その後も話を続けながら歩き続けた。三歩でも離れれば、白い世界に飲み込まれて姿が見えなくなる。白い体毛に覆われたサンティの肩に乗るミディエからは、サンティが踏みしめているはずの地面さえ見えず、白い世界の中を漂っているような恐怖を感じていた。スタークが話し続けているのは、その位置を知らせるためと、ミディエの恐怖心を抑えるためだ。
そのスタークの足が、止まった。
「すぐに戻る。動かずに待っていろ」
サンティにそう命じて、スタークがひとり歩みを進めた。やはり三歩も進めば、その姿は雲の中に消える。
ミディエがゆっくりと呼吸を十回した頃には、スタークが戻ってきた。
「道は開いた。行くぞ」
そのスタークの後を追い、五歩も進むと雲は背後に残るのみとなり、上下左右は山を削ったとは思えない滑らかな壁に囲まれていた。他の坑道とは全く違う様相だ。エスが眠る地に続く通路に入ったと知れた。
「ここは、本当に山脈の中?」
ミディエがそう言うのも仕方がない。光の届かない洞窟であるはずなのに、通路は明るく照らされている。松明のようなものも見当たらない。
「エスが眠る場所には、常にフィクスムの光が届く。そこから無数の鏡が天井の裏に貼られていて、通路が照らされているのさ」
「常にって、夜は?」
「山頂の上、空よりさらに高い所にも鏡がある。この世界の空の上には巨大な三つの鏡が浮かんでいると聞いたことがある。エスに絶えずフィクスムの光を与えるためだけに」
途方もない話を聞いて、ミディエは眩暈がした。額には汗が浮かび、歩を進めるごとに耳鳴りも激しくなっている。
「ごめんなさい。私、疲れてるみたい」
ミディエは眉間に深い皴を刻み、肩で息をしている。歩みを止めたスタークが、身に着けていた闇のローブをミディエの肩に掛け、フード越しにやさしく頭へ手を添えた。
「長らくのこの国を離れていたミディエには光が濃すぎるかもしれんな。これを羽織っていろ。楽になるはずだ」
「あっ、ありがとう」
スタークの言う通り、ローブに身を包むと、ミディエを襲っていた嘘のように耳鳴りと眩暈が停まった。
「どうした? まだどこか痛む所があるか?」
厳しい表情でスタークのことを見つめ続けているミディエに、スタークは首を傾げた。
「ううん、別に。初めの印象とは随分違うから」
スタークは眩しく輝く天井を見上げ、組合の前で最初にミディエに会ったときの自分を思い返した。しばらく天井を見上げて考えていたスタークは、やがて頭を掻いて再び歩き始めた。
「ふむ。どう考えても、変わったのはそちらの方だと思うがな」
背中を向けて溢したスタークに向けて、ミディエは思い切り舌を出していた。
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