黒犬は女の肉を喰らうのか
(悲鳴…?)
喧騒に紛れて女の悲鳴が聞こえた気がする。
幼少の頃サーカスで鍛えられたどんな騒がしいところでも音が拾える耳を持つバッシュが異音に気がついてすぐに演奏をやめた。
宴会は最高潮に盛り上がっていたこともあり、バッシュが演奏をやめても宴会の喧騒は止まらなかった。
一段高いところに用意された舞台の上から悲鳴の方角に視線を向けた。喪明けの宴会のために各家庭から持ち寄られた電機洋燈がテーブルの上に置かれていた。道々に数は少ないが街灯もあったので、暗いながらも目を凝らせばなにかしら見えた。
教会前の広場の方からだ。
おーい。少年どうしたー?
疲れちまったかー。がんばれよー。
じっと闇夜に目を凝らすバッシュに対して酒に酔った大人たちのヤジが飛び始める。バッシュは酔っ払いのことなど気にもとめず、音の聞こえた方を見続けた。
気のせいかな…。
そう思っていると、なにか動いているのが分かった。
あ!と、おもった瞬間にバッシュは舞台から降りて駆け出していた。ヴァルも異変に気がついたのか舞台の袖から黒衣のマントが靡いて走っていた。2人が走り始める頃には闇夜の混乱が伝播し始めたらしく、宴会の末席の方からも悲鳴がではじめていた。
黒犬だ!
黒犬が村の人間を襲っている!!
バッシュは演奏で出た汗なのか、それとも自分が連れてきた犬が人を襲う場面を想像して出た冷や汗なのか、分からないまま拭うことも忘れてただひたすら夜道を走った。
そんな!
アイツは人間に乱暴なことをするようにはしないと思っていたのに!頭のいいヤツだ!
ショックで頭が混乱した。
混乱したまま、バッシュの前を走るヴァルの後を追いかけた。ヴァルの肩に乗っていたリヒトが先行するように人目もはばからずに夜道を飛翔した。
幾分かヴァルに遅れて広場の井戸に辿り着くと、バッシュは肩で息をして大きく上下させながら息を整えるのも後回しにしてバッシュは黒犬の方を見た。
先ほどバッシュの世話をしてくれた女中が地面に這いつくばっていた。その顔は恐怖に歪んで助けを求めている。
「助けて!たすけて!!お願い!!!」
その上を黒犬がその大きな体で覆っていた。
女とはいえ大人の体を覆うその黒犬は闘争心を剥き出しにして唸ると女中の足に涎が垂れた。
どうやら怪我はないようだった。バッシュは少しホッとしてからオイ!アホ犬!なにしているんだよ!と、バッシュが怒鳴ろうとしたところ、ヴァルがリヒトの光源に手を入れてあの虹色に光る細剣を取り出していた。
斬り殺すつもりだろうか?
バッシュは思わず、細剣を持つヴァルの手を止めようとした瞬間。
道の真ん中に誰かいるのに気がついた。
「司祭…?」
白地に青い刺繍の入った宗教服。
男の首は少し傾き、間の抜けたように空を見つめていた。見つめる2つの眼のうちのひとつは穴がぽっかりと空いて無限の暗闇と繋がっている。
司祭の服を着たそれは地面に打ち捨てられた空の桶を見るや否や、ずるずるずるずるずると、粘液が這いずるように音を立てて移動した。
おおよそ、人間が歩くときには聞こえるとは思えない不気味な音が聞こえた。
泥に汚れた宗教服の脚袖から覗くのは人間のそれとは形状が異なるように見える。人間にあるはずの2本の足はなく、完全にくっついてしまっている。
例えるならまるでナメクジに人間の上半身を乱暴にくっつけたようだった。
え。なんだこの音は?
足は?どうなっているんだ?
バッシュの混乱する頭の中はすでに聞いたことのあるこの異音に警報を鳴らしていた。
これは、この音は。
「バッシュ。その人を連れて、アーク司祭のところに逃げなさい。ーー行方不明の司祭がケガレになって現れたと伝えて欲しい」
有無を言わさないヴァルの言葉にバッシュはハッとなった。
司祭が空の桶を拾って持ち上げると、顔を上に向けて口を耳まで裂けさせて広げさせた。それを見ると先ほどまでの演奏の楽しい余韻はどこかに吹き飛んでしまった。
「か、かわいた…ノド…喉が」
かわいたぁぁああああああ。
司祭の顔をしたナメクジ男はそう叫ぶと空の桶を投げ捨てた。桶は勢いよく投げ捨てられて地面にぶつかり、簡単に壊れてしまった。
これはずいぶん間の抜けた悪夢だ。
バッシュはそう思った。2人がたどり着くと遅いと言わんばかりに黒犬はバッシュを睨みつけてから、女中の体から離れた。
命からがら、女中はジタバタと手足を動かしてバッシュの方まで逃げ出した。
バッシュは女中の両手を掴むと落ち着くように抱きしめた。背中を刺すってあげながら、黒犬に向かって叫んだ。
「お前!やっぱり襲ってなんかいないんだな!ごめんな!ごめんな、オレお前のこと…」
ーー疑っちまった。
バッシュはそう言いかけてやめた。
黒犬はバッシュが考えてることなどお見通しのようだったが、そんなこと気にも留めないようにフンと鼻息を立てて、背を向けた。
獲物はまだそこにいた。
細剣を構えるヴァルと牙を向く黒犬。一人と一匹に対峙しながらも、司祭の顔をしたナメクジ男は少しも揺るがなかった。いや、その思考さえないように見えた。不明瞭な言葉の羅列を繰り返しながらこちらにずるすると近づいてくる。
「ああ、おや、まぁ。これは」
えらいことなってますねぇ。
場面には相応しくないのんびりとした声が掛けられた。アーク司祭だった。
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