穴から漏れ出る腐敗の闇

笛の音が聞こえる。

懐かしい音色だわ。


マチルダは席をつくことを許された食事の末席でふっと顔を上げて音の鳴る方を見た。先ほど伯爵様の筆頭執事に言われて世話をしてあげた少年が笛を吹いている。

幼い頃、故郷の祭りで聞いた笛の音色に驚い

た。この地に嫁いだ伯爵夫人と一緒に来てからはもう聞くことも出来ないと思っていた。


もちろん、その時に聞いた音律とはところどころ記憶とは異なるけれど、脈々と受け継がれてきたであろう故郷の音にずっと蓋をしていた感情が溢れ始める。


手紙で知った親や兄弟の訃報、ダオ争乱で徴兵され行方不明になった夫。それからほどなくして流行病で亡くなった息子。

亡くなってからも作るのをやめられなかった子供の服を着た少年が、生きていればこんな風に母の前で笛を吹いただろうか、と想像を掻き立てられた。


同時にいろんな感情が込み上げてきてたまらずに喧騒の中で人知れずマチルダは席をたった。



ーーー


井戸のそばまで来るともう堪えきれないほど涙が溢れた。


「…こんなことで泣いて。情けないね」


歳のせいなのかもしれない。

あるいはずっと親しくしてきた女主人の死が想像以上に自分のいく先を不安にさせているのかも知れない。喪が明けるまでこの館に居させてもらったが、この先の自分の身の振り方も考え、行動に移さなくては。故郷に帰ろうか、あるいは新しい雇用先を探そうか。


涙が収まる頃には次第に思考も明瞭になってきていた。すると雑木林の方からガサガサと音がした。


「誰かいるのかい?」


声をかけるが返事がない。

音は次第に大きくなってくる。

子供がいたずらに紛れ込んでいるのだろうか。それとも館に忍びこもうとする間抜けな狼藉者だろうか。マチルダは井戸のそばにあった空の桶を手に持ってもう一度声を掛けた。


司祭様だ。


雑木林の中を白地に青い刺繍が施された宗教服を着た司祭が力無くぼぅと立っている。

教会には礼拝のために何度も訪れている間違えるはずがなかった。行方不明になった時は領民が総出で探したが、どこにも見つからなかった。


「司祭様…!?ああ、司祭様。どちらにいらっしゃったんですか?」


みんな心配していましたよ、と声を掛けたが返事がない。どこか怪我でもしていて、聞こえないのだろうか。雑木林の暗がりで、表情もよく見えない。


「そちらに参りますね」


マチルダは生来の世話好きに背中を押されて司祭の方へ足を向けた。ちょうど雲に隠れていた月が顔を出す。

闇夜に隠された地上の全てを照らすように月明かりが司祭の顔を照らした。


穴。


マチルダの目に入ってきたのは窪んだ一つの丸い穴だ。司祭様、目を、その目はどうされたんですか?頭の中では質問がよぎったがマチルダの口から出ることはなかった。


ふたつあるはずの眼球が片方無い。

それに加えて、明らかに様子がおかしい。そう思った瞬間、マチルダの前に黒い風が吹いだと思ったら体が地面にぶつかった。


闇夜を切り裂く悲鳴が領内に響き渡った。

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