喪明けの儀礼
喪明けの儀礼を知らせる教会の鐘が響き渡った。教会の鐘が亡き人を偲び、最後の夜の始まりを告げていた。その鐘の音の余韻はどこまでも残るようだった。
その余韻に釣られるように一人の男が音の鳴る方へ体の向きを変えた。
ーーー喉が渇くナぁ。
暗い夜道を、洋燈も付けずにただ歩く。
男の頭にたったひとつ言葉が浮かんだ。いや、言葉ですらなかった。ただただ本能に従って男は思わずと言うふうに手で喉に触れると…ぺろりと皮膚が剥けた。
手についたままの皮膚に、男は驚くこともなく淡々と見て、理解することなく淡々と歩いた。
ただただ男は‘渇いていた’。
渇きを癒せる場所を探していた。
頭の中にあるのはそれだけだった。
領主館のある街の灯りが男の腐りかけの濁った瞳に宿った。
ーーー
教会の小さなバルコニーからアーク司祭が神明へ祈りを捧げ、辺境伯夫人への弔いの言葉を説いたあとに教会の鐘が鳴った。日付の変わるちょうどぴったりに。
教会の前には領民たちが誰かが誘導したわけでもなく時間と共に集まり始め、整然と並んで儀式を見届けていた。
バッシュも自分の出番はいつだろうとぼんやりと考えながら、なんとなく流れに従って遠くから儀式を眺めていた。
そもそも関係のない自分なんかが演奏なんかして良いのだろうか…不安を感じながらバッシュは梟のレリーフが施された笛を握った。
笛だけが頼りだった。
あの時アーク司祭には余興の演奏なんて簡単に言われだが、これはそもそも簡単なものではなかったのではないか。自分はえらい役目を押し付けられたのではないか、とバッシュは遠くに見えるアーク司祭を恨み始めていた。
司祭がなんと言っているのかは遠くにいるバッシュには分からなかった。たぶん周りの大人たちもそうであっただろうが、みんな神妙な顔をして聞いていた。
教会の鐘が鳴る。
鐘の鳴る間は領民らは目を閉じて両手を組んで祈りを捧げた。喪明けの宴会が始まる前に我慢できずにたくさんの食前酒を飲んで酔っ払っていた領民らも、この時ばかりは背筋を正していた。
少なくない人間の目に涙が溢れているのを見ると辺境伯夫人が領民に好かれていたんだろうな、というのは一目瞭然だった。それを見ていると最初は金のためと思っていたバッシュも周囲に感化されて少し気持ちが変わりはじめていた。
これは、真剣に向き合わなければいけない。
下手でもなんでもいいから、自分に課せられた使命を果たさなくてはならない。
ーーよし!がんばろう!
バッシュは会ったこともない辺境伯夫人のために気持ちを込めて演奏すると誓って、意気込んだ。
その瞬間、背中がぞわりと痙攣した。
嫌な感じだ。見られているようで、見られていない。そこにいるようで、いない。生きているようで生きていない、なにか。
不穏な気配の正体が分からないまま鳥肌の立つ皮膚を慰めるように手のひらで摩っていると横からひっそりと声を掛けられた。
「バッシュさん、こちらにいらっしゃいましたか」
探しましたよ、と端正な顔の従僕、ミレーユが声を掛けてきた。
「そろそろ出番になるので教会までお越しいただけますか?」
「あ、ああ…」
どうしましたか?と、ミレーユはバッシュの顔を覗き込んだ。
バッシュの青白い顔を見た従僕はこの少年が大勢の前で演奏することに緊張しているのだと思い、励ましの言葉を掛けた。
気のせいだろう…気のせいだ…うん、そうに違いない。
バッシュは自分に言い聞かせるようにしてその場を後にした。
ーーー
教会の前ではテンプル教団の音楽隊の演奏が始まっていた。それと同時に夜の静けさの中で様子を探りつつ、再び賑やかな声が戻り始めていた。
アーク司祭の喪明けの儀は終わり、これから太陽が昇るまで個人を偲ぶ会が始まった。
領民達が各々持ち寄った食事に手をつける者、酒を飲む者、待ちくたびれて眠った子供を腕に抱いてあやす者。
それはほとんど宴会の様相を呈していたが、会話の中にたびたび辺境伯夫人の名が上がった。
(これは音楽なんて聞いてないんじゃないのか?)
バッシュはホッとするようで、先ほどの決意も相まってこれはこれで寂しい気持ちにもなる。
あれはなんという楽器だろう?
少し心許ない街頭に照らされてキラキラと銀食器のように光る細い笛に興味を惹かれた。演奏家らは唇を尖らせて渾身の音を奏でていた。
「きれいだな…」
それに比べると手に持つ木笛のなんと頼りのないことか。
やっぱり断ろうか?
いまならまだ間に合うかもしれない。
どうせみんな食べたり飲んだり話したりに夢中で音楽など耳にはいってもいないだろう。
バッシュは教会付きの音楽隊の訓練された一糸乱れぬ演奏に圧倒されていた。
いいや、そんなことはない。
こいつはオレの相棒なんだ、と気持ちを無理やり奮い立たせた。それに、なんといってもオレたちには金がいる。食べさせなくてはいけない悪食の小馬と大きい犬もいるのだから。
『バッシュくん、緊張しているのね』
肩にふわりと光の球が寄り添ってきた。リヒトだ。人の多いところではなかなか出てくるタイミングがなかったこともあり、袋の中にいるのもくたびれちゃった、と言って体をほぐすかなように光が上下に伸びた。
「オイオイ、こんな人の多いところで出てきて大丈夫なのかよ。見つかるぞ」
『みんな宴会に夢中で気がつきもしないわ』
そもそも私、普通のニンゲンにはこの光さえ可視化されないのよ、そう言うとリヒトはふわりと浮かんでヴァルの肩の上で停まった。
「アーク司祭のように心の強い人には見える人間もいるからね。
テンプル教団はリヒトのような存在を神の梯子と呼んで神聖視しているから、トラブルを避けるためには隠れていた方が身のためだよ」
ヴァルは肩に留まったリヒトをすくうように手のひらに乗せた。
普通って…オレは至って普通の人間だぞ。少なくともお前らと出会う前は幽霊の影も見たことがなかったのに。バッシュが言い掛けたところで宴会を取り仕切っている教団司祭に「そろそろ出番ですよ」と、呼びかけられた。
急に心臓がバクバクと早鐘を打ち始める。
落ち着けるために笛を持っていない方の手で心臓のあたりを撫でていると、ヴァルが近づいてきて男とも女ともとれる顔を微笑ませて「大丈夫。楽しんできて」と、言った。
リヒトも心なしが応援するようにヴァルの手のひらでキラキラと発光する。
バッシュは今までひとりで緊張していたことが見透かされていたと気がつくと、2人の応援がなんだか勇気付けられるような、気恥ずかしいような気持ちになった。
バッシュは耳を赤くしながら教団関係者に言われるがまま用意された舞台に飛び出していった。
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