第5話
リヒトが『ふぁ〜』と、大きくその光源の体を上下に伸ばしたかと思うと『ちょっと疲れたから休ませてもらうわぁ』と言ってヴァルの肩にもたれた。
それを聞いたヴァルは黒マントの中から小綺麗な袋を取り出すとリヒトはノロノロとその中へと入っていった。
リヒトが袋の中に入るとヴァルは袋の両端の紐をぎゅっと引っ張って口を結ぶとマントの結び目にくくり付けた。袋がほのかに光る。
まるで星が寝息を立てているかのようだった。
「オレが悪いんだ。盗みなんて悪いことしたから…」
バッシュは黒マントから木笛を受け取ると壊れているとは分かりつつ、口を付けて息を吹き込んだ。動物たちに葬送を促した木笛は以前のように音を奏でなかった。間の抜けた空気音だけが朝の空気に響いた。
バッシュは木笛を大事そうにバッグの中にしまうと、鼻水を拭いながら地面に捨てられた荷物をかき集める。
「盗みは、たしかに良くないな」
「うん、もうしない」
「これからどうするんだ?目的地があるのか?」
黒マントはバッシュに尋ねた。
「ああ、ある」
バッシュは短く答えた。
ちょうど手には上質な紙で作られた封筒ーーしかし、ずいぶん古びているーーが、握られていた。封筒には封蝋印がされており、それが王国の紋章であることを黒マントは見逃さなかった。
「もしかして王国に行こうとしていたのか?」
えっと思わずバッシュは声に出した。そして封蝋印を盗み見られたことを恨めしそうな視線で黒マントを見た。
「…だったらなんだっていうんだよ」
「いや、ちょうど私も王国の方へ向かう途中だったから」
バッシュはうつむいて黒マントの次の動向を待った。ここで下手に動くのはよくないと直感で悟ったからだった。
自分は子供で、しかもこの近辺の酒場を荒らしたスリ犯なのだ。このまま警ら隊に突き出されても文句は言えなかった。
「それにこの先には関所もある」
黒マントは要所要所でバッシュをギクリとさせるのが上手かった。ここを切り抜けたとしても王国に辿り着くまでには憲兵たちが守る関所が幾つもあった。そこが王国にたどり着くまでの難所であることはバッシュにも分かっていた。
「君には音楽士としての才能もあるようだからね。さて…どうかな。私と雇用契約を結ばないから?」
「こようけいやくぅ?」
「ああ」
キミにとっても悪い話ではないと思うよ。働きに見合う給料を約束しよう。
それに葬儀屋には国から発行される通貨許可証があるからね、と黒マントはバッシュに通行手形を見せた。畳み掛けるような言い方に、バッシュの頭は混乱した。
雇用するということはこいつの下で働くってこと?夜に味わった恐怖の時間がゾワゾウとバッシュの足元から騒がしく這い上がってきたと思えばしかし、年相応の今日自分が見たものはなんだったのかという好奇心と関所を通れるメリットも足されて恐怖を打ちのめしたつつあった。
「それに少なくとも食事には困らない」
もう盗みはしなくていいんだよと、暗に示されてうつむいていたバッシュはようやく顔をあげて黒マントに向き合った。
「ああ…いいぜ。アンタとそのこようけいやくってやつ、やってやっても」
「それなら話は決まりだな。ヴァル。私の名はヴァル=キュリア」
「バッシュ。ただのバッシュだ」
よろしくバッシュと、黒マントは手を差し出した。バッシュもグッと手に力を入れてそれに答えた。
でもあんたの飯は2度とごめんだ、とバッシュは付け加えた。そんなに嫌だったか?それなら音楽士兼シェフを任せるとしよう。ヴァルはふふっと笑った。
太陽が昇り、暗夜に支配されていた森を照らす。それは新しい日の始まりだった。
2人とも夜通しの仕事でお腹が空いていた。
黒マントは瞼の腫れたバッシュを気遣って自分が朝食の支度することを申し出たが、バッシュはそれを断固拒否した。
バッシュは黒マントから提供された食材をみて少し考えると、やがてまだ火の燻る焚き火に枯れた小枝を入れた。
火が安定するまでの間に木製の器のたまごを割り入れて落とした。鶏の卵かと思ったが、割ってでてきた卵の黄身は鶏のそれよりもずっと赤みが強く、バッシュはギョッとした。
砂糖と少しの塩を振り入れ、赤い卵液をスプーンで溶き、乾いてパサパサになっているパンを漬け込む。
焚き火が安定したところで鉄フライパンに油を引いて卵液を染み込ませたパンを焼き始めた。
熱を加えているうちに赤から見慣れた黄色に変わっていっていくのは面白かった。
卵液の染み込んだパンのフチがカリカリとした頃、用意した皿に出来上がったパンを盛り付けた。最低限の調理用具と調味料だったが、これがなかなかうまく焼けたようだった。
燻製ベーコンも焼いた。匂いに連れられて黒い犬がそばまで近づいてきてぺたりと座った。
お前も食べるのか?と、聞くとワン!と吠えたのでヴァルの了解を得て焼けたベーコンの切れ端を黒犬の方へほうると見事にキャッチして食べた。
「おお…甘い。うまいな」
ヴァルは思わずつぶやいた。そのままフォークで刺したパンをパクりと頬張る。
バッシュはあの人間の食事とは思えないものを作るやつに褒められたところでどうなんだろうとは思ったが、それでも褒められて気恥ずかしいようにむずむずと鼻の下を指で擦った。
教会の孤児院では年長者にあたるバッシュは神父と修道女と一緒になって家事労働をしていた。洗濯、料理といった家事は一通りこなす事ができたのだ。
バッシュは久しぶりに口の中いっぱいに広がる砂糖の甘みを噛み締めながら、真面目で頑固な口うるさい修道女の目を盗んで作ってやったバッシュのフレンチトーストを嬉しそうに頬張る下の子供らを思い出していた。あいつら元気にしているかな…。
王国を目指すまでの旅路の過酷さが教会での暮らしを思い出せなくなるほどバッシュを圧迫していたのだ。当面、腹の心配をしなくても良さそうというゆとりがバッシュに教会の記憶を思い出させた。
食事を終えた2人は一緒に片付けをしながら、森を出る準備を始めた。
梟の骸があった場所に行くと、巨大な骸の重みに地面が凹んでいた。太陽の日差しが差し込み始めた地面にはもう小さな植物の芽が芽吹き始めていた。
昔の主人の面影をわずかに残しながら森は新しく生まれ変わるようだった。
「なぁ、ここの番人ってやつが死んでいなくなったけどこれからどうなるんだ?」
「ああ…彼は家族を作らなかったようだからね。世襲制で治められていくところもあれば、全く血縁のない者が跡を継ぐこともある」
「継ぐ者がいないところはどうなるんだ?」
「管理をする者がいなければやがて壊れてなくなるだろうね」
でもそれも自然の流れがそうさせているのだから悪い事ではない。そういう意味では【腐敗】と呼ぶ現象も生命ではない【ケガレ】を呼び寄せることを除いては、それを糧にして次の命を繋ぐ苗床となるだろうし、悪いことではないんだよ、とヴァルは付け加えた。
ふーん…とバッシュは納得したようなしないような返事をした。若いバッシュにはまだ分からなかった。
時間が経てば否応なく【腐敗】が始まり肉体はこの世から無くなってしまうのだろう?それにあの悪夢をギュッと押し込めたような【ケガレ】と呼ばれるものまで呼び寄せる。
ーーそれならそんなもの、【腐敗】そのものがない方がいいだろう。
肉体が腐敗しなければ【ケガレ】は現れず、魂のなくなった肉体はそのままに出来るんだろうか。
死んだ母の、もう食べ物も受け付けなくなった細い指先や手の甲をバッシュは朧げながら頭を掠めた。母がいなくなってあんなに辛いと思ったのに、記憶の中の母は少しずつ消えてなくなる。いつか母の歌声もあの笑い声も記憶から消えて分からなくなってしまうのだろうか。
そんなの、辛い。
「ここの土地は大丈夫だろう。あんなにたくさんのお別れに来てくれたのだから」
ヴァルはバッシュがまだ考えてるとは思わず話を打ち切るように自分の荷物の中から羊皮紙とペンを取り出す。
梟の骸のあった凹みに足を踏み入れ、なにかを探すようにあたりを見渡した。しばらくして「あった」と独り言を言うとバッシュに手招きしてから、おもむろに成人男性の背丈ほどにもなる藪の中へと半身を突っ込んだ。
「ちょ…あんたなにしてんだよ」
ここまで風変わりな人間をバッシュは知らない。薮の中に消えた半身がごそごそと動くヴァルのマントをバッシュは軽く引っ張った。
「遺書に残された財産の目録を取らないといけなくてね」
「財産?」
「これは通常管財人が行う仕事なんだけど…ここはちょっと森が深くて立ち入るのが難しいだろう?そういう時には我々が財産目録を取る事があるんだ。記録をとった目録は‘葬礼教団’に送る。そこで後日管財人たちが財産の保護に訪れる手筈になっている」
ヴァルは薮を無造作に手でどかすとバッシュに見るように促した。バッシュが恐る恐る除いた。
いままで受け継がれてきた森の宝石やもう朽ちてこの世にはない香木、もう名前も分からない遠い昔の国の硬貨や森で見つけた人間たちの荷物が無造作に置かれていた。
バッシュは見たことのない品々に圧倒された。そのどれもが古めかしく価値のありそうなものだった。
「こんなところかな…」
目録を書き終えたヴァルはふっと一呼吸した。目録の最後に自分の名前を署名をすると折りたたみのナイフで指を切り目録の最後に血判印を押した。血判印を押されると羊皮紙の上の文字が赤く鈍い光を放ってじゅううと音を立てた。
「すぐに終わって良かったよ。以前カラスの番人の葬儀をあげた時には人間たちの使う金属類を集めるのが趣味でね。たくさんあったから目録を書くのに時間が掛かったんだ」
不思議な品々を好奇心いっぱいで見ているバッシュにそろそろ行こうか、とヴァルは声をかけた。
「あと、はい」
「なんだ?」
ヴァルは梟の財産の中から慎重に取り出してバッシュに手渡した。バッシュがなにも分からずに受け取るとそれは見事な梟のレリーフがあしらわれた木笛だった。
「今回の報酬だよ」
死人(この場合は死梟?)の持ち物から奪い去るようでバッシュは引け目を感じたが笛に刻まれた梟の見事なレリーフがバッシュを引き付けた。
「葬儀屋は葬儀を執り行ったあと残された財産から代金を貰うんだ。
労働の対価だ。
それは他の仕事と何ら変わらない。
もちろん彼の遺書にも葬儀代金は財産の決められた一部から支払う承諾の旨が書いてあるから心配はいらないよ」
基本的には‘葬礼教団’経由で報酬をいただくことが多いんだけどね、とヴァルは続けた。
まぁいらないならそれで構わないけれど、とヴァルはバッシュの手の中に納まる笛に再び手を伸ばしたが「いる!いります!」と、バッシュは体を旋回させてヴァルの伸びた腕から笛を守った。
形見の木笛は吹けなくなったが香木の良い香りのする新しい梟の笛はバッシュの手の中に不思議と馴染んだ。
はやく笛を弾きたくてバッシュは胸がワクワクした。
出発の準備が整うと梟を送り届けていたトロントがいつの間にか戻ってきていた。再びヴァルのあの不思議な鏡に吸い込まれると元の呑気なまでに牧歌的な小馬に戻った。ヴァルは小馬に労うとようやく梟の森を後した。
鬱蒼と生い茂る森を抜け、やっと歩きやすい道に出てからはバッシュの足は平坦な道のありがたさを噛み締めていた。
しばらく歩いていると道が二手に分かれていた。
「どっちの道が良いと思う?」
ヴァルが広げた地図を確認すると二つの道どちらを選んでも最終目的地とする王国へは辿り着けるようであった。
「んー右…かなぁ?」
意見を求められたバッシュは悩んだ挙句、右を選択した。とくに理由があったわけではない。なんとなく右の方が良い気がした。
「うん、わかった。右に行こう」
そういうとヴァルはトロントの手綱を引っ張り、先頭を歩き始めた。バッシュののんびりと歩く小馬と黒マントのの背中を数秒見つめてから急いで後を追った。
ヴァルはバッシュをただの子供ではなく1人の対等な人間として勤めて接しているようだった。
その時初めてバッシュはこの摩訶不思議な黒マントの振る舞いを好ましく思い、親しみを感じるのであった。
はじまりの森 終
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます