狩人、襲来す
3
古めかしい木笛は、しかし実によく手入れされていた。その状態から愛着を持って接してきたことは明らかだった。
死んだ母の唯一の形見。
「なにするんだよ!!返せ!」
黒い犬からようやく木笛を剥ぎ取るとバッシュは笛が傷ついていないか隅々まで確認した。
黒犬はバッシュに叱られたのもなんのそので、ワン!ワン!と悪びれもせず吠えた。どうやら笛を吹いて欲しいように思えたが、大事な木笛から犬の唾液を拭い去るバッシュはジロリと黒犬を見下ろした。
木笛を磨きながらこんなに長くこの笛に触れたのも久々だった。
この木笛で母はよく東方の島国に伝わる民謡を歌っていた。あの歌はなんだっけ…絡まった記憶の糸を紐解くようにバッシュは木笛に刻まれた穴をうろ覚えの旋律を辿々しく押さえた。
バッシュは自分でも不思議なことを呟いた。
「その…タマシイのじょ、浄化?ってのは必ずやらなきゃいけないのか?」
うーん、と黒マントは腕を組んで少し考えてから話し始めた。
「必ず必要ではあるけれど、故人と繋がりのある縁故者がお供えすることで自分との繋がりを感じて魂が癒されることもある…でも、そういうのは強要できることじゃないだろう?」
なるほど。バッシュはそう答えたが自分の中でちゃんと理解できるようにもう一度黒マントの言葉を噛み砕いた。
タマシイは浄化されないとならない。
タマシイの浄化には他からのオソナエを必要とする。それは自らが進んで執り行わないといけない。
「…なぁ、その供物って花とかじゃないとダメなのか?」
「いいや。先ほども言ったけど、東方には歌のような調子で祈りを捧げる地域もある」
バッシュは自分の手の中におさまる笛を見た。
手入れはしていたが久しく吹いていなかった。教会の外に出てから一度だけ笛の演奏で物乞いをしたことがあったが住民からは迷惑だ、この孤児が家無しがと笑われ、汚いと蔑まれ石を投げれてからがら逃げたことがあった。それからは吹いていなかった。
でも、ちゃんと吹けるかな?バッシュは胸がドキドキした。自信はなかった。でも笛を吹くこと自体好きだった。
木笛に口を付けるとふぅうと息を吹き込んだ。
森の木々の隙間を、木笛の音が縫うように走った。
私は森の番人。
ひとつの雨が森に降る。
ふたつの雨が森を濡らす。
森で子供らが遊んでいる。
あの梟を射落とそう。勇気のあるものでていこい。この弓矢で射落とそう。自信のあるものでていこい。
老いた木こりが現れていった。
いいや梟、ここに隠れて子供らが遠くに行くのを待っていて。
貴方の羽は金銀財宝より美しい。貴方の瞳は世の理の全てを知る。
子供らの非礼を私が謝りましょう。どうかお怒りにならないで。老いた木こりは夜の晩のために残しておいたなけなしのパンを供えた。
夜の帳が下りる頃、梟は木こりの家に舞い降りて家の中を金で満たそうぞ。厩を銀で満たそうぞと、歌い羽からは金銀の雫が溢れた。
老いた木こりは驚いて梟に礼を言い、金銀の宝物を全ての村人と分け合った。
梟の宝物に感謝した村人は梟に酒を捧げて礼拝し、弓を放った子供らの親は非礼を詫びた。
私は森の番人。
人の子らとあまねく全ての生き物の幸福を願う者。そう梟は話して笑い金銀に煌めく羽を広げて神の国へと旅立った。
黒マントはすこし驚いたような顔をしたが、バッシュの演奏を聴いているうちに男とも女とも見分けのつかない顔を僅かに微笑ませた。
そばにいるリヒトもこの時ばかりは演奏に聴き入るように黒マントの肩で静かにしていた。
演奏が終わるとバッシュは久々に笛を吹いた爽快感と息切れに胸がどきどきした。
『あら、あんた人間のクセにやるじゃない』
リヒトがバッシュに声をかけて、幼い肩に寄り添った。褒められるとは思っていなかったので、バッシュはどう答えて良いのか分からず耳を赤らめた。
『演奏がどうこうじゃないのよ。ほら…見て』
リヒトの光が指し示す方へ顔を向けると。子鹿が一輪の花を咥えて遠慮がちに立っていた。
ゆっくり歩きながらバッシュの横を通りすぎ、松明のそばを通りそして、巨大な梟の骸の前に立った。
黒マントの備えた野花のそばに一輪の花を供えると、梟に鼻を近づけた。それは別れを惜しむかのようにみえた。
『あなたの演奏に勇気づけられて現れたのよ』
「オレの…?」
「ああ、バッシュ。キミのおかげだ」
黒マントは葬儀の参列者が現れたことが嬉しかったようだ。
キミには音楽士の才能があるのかもね、と黒マントが言ったがそれがなにを示した言葉なのか、バッシュには全く分からなかった。
分からなかったが、バッシュは自分のしたことに対して喜んでもらえたことが純粋に嬉しかった。大人に褒められた。久しくしていなかった経験にバッシュは誇らしかった。たとえそれが人間なのかよく分からない存在だとしても。
子鹿に続いて他の動物たちが続いた。熊や栗鼠、イタチに狼…バッシュはこれほどの動物が一堂に集まるところを見たことがなかった。
こうして多くの動物たちが持ち寄った花々で梟の骸は覆われた。
それは気味の悪い巨大な骸からやがて花々の供された山に変わった。ただただ美しかった。
「もう時間だね」
黒マントが儀式の終わりを告げる。
梟の骸を囲んでいた松明を抜きとり、骸へと放る。その松明をもって火入れを行った。
火葬だ。
この巨大な梟の骸を燃やすのにどれくらい時間がかかるのだろう…バッシュはそう思ったが火が入ると驚くほど簡単に、そしてあっけなく燃え上がり、数分とたたずに巨大な梟の骸はなくなった。あとに残ったのは煤で黒くなった小さな梟の骸だった。
「トロント、お願いできるかな?」
その存在がいままで忘れられるほど名前を呼ばれた小馬は、名を呼ばれてもなおまだ草を食んでいたがようやくゆっくりと黒マントの方へ歩いていった。
トロントと呼ばれた小馬の両脇には荷物袋がぶら下がっており、黒マントはその荷物の中から鏡を取り出した。
鏡をーー人の顔が映るほどの大きさでーー黒マントはトロントの方に向けると、なんと馬が鏡に頭を突っ込んだのだ!
どういう原理なのか、鏡に突っ込んだ馬の頭は反対側には現れない。
一体どうなっているんだ??
バッシュは捻挫した足も忘れて馬の頭が吸い込まれていくのとは反対側を覗き込んだ。反対側にも鏡が貼り付けてあるだけだった。
そうこうしているうちにもう鏡の中に馬の半身が吸い込まれている。
バッシュが愕然として鏡を見ているとぬるりと馬の鼻面が顔を出したのだった。
「わっ!!」
また腰を抜かすところだった。
ぬるりぬるりと馬の鼻面が出てきたかと思うと、先ほどの子馬とは打って変わり、白く輝く立て髪を持つ立派な馬が現れた。
よく見るとうっすらと透明のようにも見える馬は飛び出た半身に力を込めてぶるりと鼻息を立てると、馬は力を込めて踏み出すと残りの馬身が鏡から抜け出てきた。
馬の体が全て鏡の中から出てくると次に荷車が鏡の中から現れた。
その荷馬車に黒マントは小さくなった梟の骸と供花と一緒に乗せた。バッシュもそれを手伝った。
これが最期だと分かった。
そう思うとバッシュはこの梟のことはなにも知らないというのに鼻の奥がツンした。
「あとは頼む。気をつけていってらっしゃい。」
黒マントがそっとトロントの眉間を撫ぜた。任された、と言わんばかりに馬は首を垂れてそれからゆっくりと歩き出す。ーー夜空に向かって
梟の骸を乗せたトロントの荷馬車が西の彼方へと飛んで姿が見えなくなるまで見送った。
ようやく空が白み始めていた。朝がそこまで迫ってきていた。
悪夢のような摩訶不思議な夜が終わった。
黒マントはグッと腕を空に突き上げて背を伸ばした。あぁお腹が空いたなぁ。ねぇバッシュ。
その言葉にどきりとしながらバッシュは後退りしてすでに逃げる体勢に入っていた。
もう全てのことにごめん被りたい。バッシュはなにも言わずに走り出した。
あんなやつらと一緒にいるなんてもうごめんだ!とてもじゃないが耐えられないーードンっ。
バッシュは自分の体がどうなったのかよく分からないまま尻餅をついた。今日で2度目の尻餅。想像していなかった痛みにバッシュは気を取られ、自分の荷物が宙に浮かんだことなど気が付きもしなかったのだ。
「イ…いだ。にぃにの荷物、泥棒した。トる。泥棒、よくない」
「やぁあと見つけたぞぉお!小僧!!はあはあ…」
バッシュの荷物は数頭の猟犬を引き連れた2人組の男たちの手の中にあった。その荷物の中には母の忘れ形見の木笛が入っていたことにハッとしてバッシュはままならない状態で「返せ!」と、男たちに迫った。
「返せって…おまえが先にオレらから盗んだんだろうが!!」
小男の怒りはもっともだった。
尻餅から立ちあがろうとしたバッシュの腹目掛けて小男が蹴り上げた。たいした威力では無かったが油断した状態には相当効いた。
バッシュが蹴り上げられた腹を抑えてもなお返せと迫った。黒い犬が加勢するとばかりに吠え立てた。黒い犬は、男たちの引き連れている猟犬よりも数倍大きかった。
小男の隣…バッシュの荷物を持つ長身の男は現状を理解ができているのか、いないのか。あーイヌ…ボクのイヌと、ぶつぶつと言った。黒い犬は遠慮することなくその鋭い牙を剥き出しにした。元飼い主に反旗を翻したのは明らかだった。
イヌーと呟く長身の男は不気味なほどに腕が長かった。
「オレたち‘狩人商店’の兄弟から物を盗むなんてぇいい度胸していやがる」
この小僧に分からせてやれ、と小男は長身の男から荷物を受け取ると顎で指図し、ついでにその気に食わないイヌも始末しろと、続けた。
「あー…イヌ。オレ始末して、死体イヌ喰わせる」
様子を伺っていた黒マントは性別の分からない顔を不愉快そうにぴくりとさせたのをこの騒動の渦中にいる誰にもわからなかった。
小男の言葉を理解するように長身の男はぶつぶつと呟き、そしてやたらと長い腕を前にぐいっと向けた。手の甲に取り付けられたアイアンクローが太陽の光に当たって鈍くひかった。
人を傷つける為に取り付けられたものだということは明らかだった。それを見たバッシュは血の気が引いたが、それでもなお食い下がった。
「た、頼む…謝るから…お前の荷物を全部盗もうなんて思ってなかったんだ。オレの荷物も全部おまえらにやる…で、でもお願いだ。木笛だけは…それだけは返してほしい」
「木笛だとぉ?」
小男はわざと憎らしげに答えると自分の荷物が安全だったことをたしかめたあとにバッシュの荷物を漁った。
油の入っていない洋燈、切れ味の悪い折りたたみナイフ、小汚い手紙…これは上等な紙出てきていたが指の皮が人より分厚い小男には分からなかった。次々とバッシュの大事な金にならない荷物が地面に散らばる。
大したもんはいってねぇなぁと大声で小男が喚くと「お?」と、わざとらしくニヤァと笑った。
荷物の底からバッシュの、母の木笛が出てきたのだ。
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