第2話



数度の失神を乗り越えてバッシュはなんとか目の前の食事を飲み込んだ。味はともかくとして空腹だけは満たされるのを感じて情けなく思った。


はやくこの森を抜けて普通の食事がしたい。もうカビの生えた黒パンなどと贅沢は言わない。この異形の食事を食べるくらいならスライムも食べられると思った。


「食事も取れたことだし、そろそろ準備をしようか」


もちろんバッシュも手伝いの頭数に入れられてて、断ればなにをされるか分からないと思い痛む足を引きずり黒マントの跡を歩いた。


先ほど2人で作った成人女性の身長ほどはある松明に油脂を染み込ませ巨大な梟の骸の周りを取り囲むように打ち立てた。


初めのうちはこの巨大な梟の骸が今にも動き出してこちらを襲ってくるのではないかと恐る恐るしていたが、人は慣れるもので最後の松明を打ち立て終わる頃にはバッシュは労働の達成感にふぅっと息を吐いた。


「ありがとうバッシュ。助かったよ」

「あー…じゃあオレはそろそろ森を出て…」


バッシュはこの摩訶不思議な世界からの退散を宣言した。

こんなことに関わっていたら頭がおかしくなっちまう。バッシュの頭の中によぎった言葉を止めるように汗に滲んだ首を搔いた。


そんなバッシュの心中を察したように黒マントは残念そうな顔をしたようにも思えたが、そう思ったのも束の間に暗闇の森の淵で静かにしていた黒い犬がぐるるるる…と唸った。


『ちょっと〜まだ‘葬送告知’してないの?』


黒い犬の唸り声と同時に再び唐突に2人の頭上を照らす明かりが現れる。黒マントにリヒトと呼ばれた光の玉…もとい、光源は最初に見た時と同じくらいの以丈高に言った。


「そろそろしようと思っていたよ」


黒マントの肩の付近にリヒトは座るように寄り添うと、おもむろにバッシュの方へ強い言葉を投げかけた。


『あなたがのろのろ仕事してるせいじゃない』

「おい!なんだよ、いまの。オレに言ってるのか?」


バッシュはムッとした。

感謝されるのはよいとして、こんな文句を言われる筋合いはない。手伝ってやったという意識があったからだ。


『あなたに付き合ってのんびりしてたから【ケガレ】が出てきちゃったじゃない!』


リヒトが強く発光した。それが何かを指差しているように見え、バッシュは思わず後ろを振り返った。


見えたのは闇だった。

リヒトの光に照らされて、森の輪郭が露わになる。光に照らされてもなお一層深い暗闇が、動いた。


ずる、ずるずるずる。

泥が地面を這いつくばるような。光に照らされた暗闇の凹凸からヘドロが吹き出しぼごぼごとと音を零して地面に飛び散った。


黒い犬が威嚇するように唸る。


「な、なんだあれ…!?」

『だから【ケガレ】よ!』


あなたがのんびりしているから番人の腐敗が始まったのよ、とリヒトはそんなことも知らないの?と、言わんばかりに呆れた声を出して続けた。


『あんたたち人間には理解できないと思うけど、番人だって生身の生物よ。生命の活動が終わって魂が抜ければ肉体は【腐敗】する。肉体を持たない【ケガレ】が腐敗した肉体を狙ってきたのよ』


【ケガレ】と呼ばれたそれはずるずるずると暗闇から抜け出し、這いずりながら巨大な梟の死体に近づく。やけにゆっくりとした動作が殊更不気味さを強調していた。


「リヒト。お願いできるかな」


はいはい、とリヒトは軽く返事した。

リヒトが返事をしたと同時にぎゅっと光を濃縮させてると黒マントが右手を光の中に手を入れる。なにかを掴むような動作をすると光の中からなにかを取り出してた。


それは白く輝く細剣だった。

黒マントの全身真っ黒さに反してその細剣は眩いほど白く、リヒトの光源に当たると細剣の刃は虹色に輝くようにさえ見えた。


バッシュは近づいてきた黒い犬に思わずぎゅっとしがみついて座り込んだ。犬は抵抗しなかった。


黒マントは一度、細剣を確かめるように空を切って振る。風切り音がした。


黒マントは【ケガレ】と呼ばれたヘドロに向かい、優美な動作で細剣を頬の位置まで真っ直ぐに持ち上げ構えると、グッと左足に力を込めたかと思うと細剣でヘドロを突いた。


ヘドロに細剣が突き立てられると突いた部分から吐瀉物のように汚泥が吹き出し、そして最後は瓦解して地面に吸い込まれるようにして消えた。


輝く細剣は刃がきらきらと小さく瞬いてあっという間に無くなった。一瞬の静寂。


しゃべる火の玉、巨大な梟の骸、それ以上の怪異の片鱗に触れてバッシュは自分の頭がおかしくなったのだと思った。


「あれが【ケガレ】だ。

生き物の情念や生への執着から生まれた。

あれ自体は生命ではない。

番人の骸に取り憑いくことだけを目的として、こうして葬儀が行われる隙を狙って近づいてくる」


黒マントは顔色ひとつ変えずに言った。


「私たちは番人の葬儀を執り行うこと。そして番人の骸に取り憑こうとする【ケガレ】を祓う」


リヒトが出してくれるあの剣の力には【ケガレ】を祓う能力があると続けて説明したようだったが、バッシュは全く聞いていなかった。


ここにいてはいけない。

あんなもの見たことがない。存在してはいけない存在を目の当たりにしてバッシュは理解することを一切やめた。

狂ってしまう。そう思うや否、逃げたそうと捻挫した足を動かそうとしたがドスンっと地面に大きな音を立てて尻餅をつく。


ーー完全に腰が抜けてしまった。


逃げられない。そう分かると


「バッシュ、落ち着いて…」


ケガレがこれほど大きくなっているとは分からなかった。私のミスだと、謝罪されたがその言葉の全てをバッシュの耳には聞くことを拒絶した。


「お、落ち着いてなんかいられない!こっちへ来るな!化け物!!」


黒マントは腰の抜けたバッシュを起こそうと手を伸ばしたが、バッシュの叫びに手を止めた。


『はぁ〜も〜だからイヤなのよ』


先ほどまでギュッと光を濃縮させていたリヒトだった。


『悪いけど、もう時間よ。

番人の腐敗がこれ以上進む前に‘葬送告知’を始めないと、腐敗した番人の骸がこの森を覆うわ。

早くしないとこの森も腐敗し近くの村にも影響が出るのよ」


あんたのせいよ、ノロマ。と、リヒトが最後に付け足すような言い方にバッシュは恐怖以外にようやく怒りの感情を感じることができた。


「悪かった。リヒト、ごめん」


黒マントが謝るとリヒトは納得したように黒マントのそばを飛んだ。先ほど細剣を取り出した時と同じように濃縮した光を瞬かせるリヒトに手を伸ばしてなにかを取り出した。


それは白く煌めくペンだった。

黒マントは取り出したペンを空中にそっと立てると、なにもない場所にまるで文字を書くように綴った。

文字がひとつひとつ綴られていくのが分かる。それに相応するように森が、木々が強い風に揺さぶられて大きくしなり始めた。

木々の間からぽっかりと空が見えた。

目に飛び込んできたのは満月と星々。

月明かりが巨大な梟の骸を包み込むように照らした。

バッシュは子供の時に修道女にせがんで読んでもらった神話の本にあった挿絵を思い出した。


黒マントとバッシュが打ち立てた松明が火元もないのにひとつひとつぼぅと燃え始める。


「ここに宣言する!

森の番人の逝去

生前の功績を讃え、葬送儀礼を開始する。


縁故者は番人に敬意を表し、集いたまえ。


葬儀執行者…我が名は」


黒マントのそばにいたリヒトの光が弾けた。

弾け飛んだ光の粒は空へ浮かび、やがて梟の骸を囲んで少しずつ姿を変えた。


白い鐘だ。

それと黄金に輝く文字が空一面を覆い尽くした。バッシュにはそれがなんと書いてあるのか、全くわからなかった。文字の読み方が分からなかったのではない。その文字は人間の間で使われていない、見たことのない文字だった。


満月よりも大きい白く輝く鐘が大小様々に梟の骸の上を囲んだ。そして、黒マントが読み終えると同時に大鐘が鳴り始めた。大小、音の高低

様々にだがどこか調和の取れた不思議な鐘の音だった。


あまりの鐘の音の大きさにバッシュは耳を手で覆った。なんだこれ…なんなんだ…バッシュが恐怖に慄いていると、しばらくして音が鳴り止み、役割を終えたらしい大きな鐘たちや黄金の文字は跡形もなく胡散霧散に消えてしまった。


『まあまあね』

「リヒト、ありがとう。お疲れ様」


呆気に取られていたバッシュは2人の声にハッとした。あれほど大きくしなっていた木々も元通りなにごともなかったかのようにたちつくして、森は元の静けさを取り戻していた。


バッシュ、私たちは端に行こうかと言って黒マントは再び腰の抜けたバッシュに手を差し出した。バッシュは思考の停止した頭でその手を握って立ち上がった。足の痛みがこれが現実であるとイヤなほどバッシュに分からせた。


促されるまま座った。燃える松明が取り囲む巨大な梟の骸がよく見渡すことができた。


「…ああやって森の番人が治めていた地域に番人が亡くなったことを知らせたんだ」


黒マントは慎重に言葉を選びながら話し始める。


「そうでないと、彼に関わった生き物がお別れに来れないからね」

「お別れ…?」

「そう。彼と関わりのあった生き物があれを見て呼びかけに答えて彼の葬儀に参列する。」


葬儀に参列したことはある?と、聞かれてバッシュは答えに詰まった。育ててくれた教会で葬儀をしているのを見たことはある。銀出てきた儀式道具を磨く手伝いをしたこともあった。だが請われて葬儀に参列したことは、ない。

そういう意味ではバッシュはまだ幼い子供だった。

バッシュが小さな声で無いと言うと黒マントは説明を続けた。


「葬儀は番人の治めていた地域の信仰を元に開始されることが多い。この辺りでは教会信仰が盛んだからそれらを象徴するあの鐘が具現化されたんだ。

東方ではオキョウやノリトと呼ばれる歌みたいなものから始まるところもあるらしい。」 


黒マントはごそごそとマントの中で蠢くとなにかを取り出した。また剣やらペンやらが出てくるのかと思ってバッシュはビクッと肩を揺らした。


「今回の番人は信仰は最低限に抑え、出来うる限りシンプルで簡素にして欲しいと遺言が残っていたからね。

供物をお供えして、終わりの時間が来たら一緒に火葬する計画だよ」


そう言ってマントのどこに入っていたのか、その手には野花があった。

取り出した野花を持って黒マントは大きな梟の骸に近づいて、骸のそばに置いた。

梟の骸にそっと手を触れると小さくなにか言った。なにを言ったのかバッシュには聞き取れなかった。


「終わりって…どのくらいかかるんだ?」


黒マントが戻ってくるとバッシュはカラカラに乾いた喉を振り絞って尋ねた。この狂気の時間に終わりがくる、そのことだけが気になった。


「そうだね。だいたい月が沈んで太陽がで始める頃までかな」


黒マントは空の様子を伺った。木々の隙間からは月上がりが溢れていた。

まだ相当かかりそうであったが、これに終わりが来るということだけ分かっただけでもバッシュの理性を保つ希望の一筋となった。


そして一刻が過ぎた頃バッシュは黒マントに尋ねた。


「…誰も来ないじゃないか」


あんなに派手に鐘やらなんやら騒々しくしておいて、森は静かさをたたえ、梟の骸はただ独り松明の炎に照らされ、いささか寂しそうに見えた。


「彼は長い時間生きてきた。人間よりもずっと長く。生き物の寿命をはるかに超えて…彼を知る縁故の者は先に死んでいった。

「え?」

「彼は忘れ去られた存在なんだ」


黒マントが備えた野花だけが梟の骸のそばに寄り添った。

死後も老いた梟は独りのままだった。


孤独ーーバッシュは疲れた目を擦るように手で拭った。教会で飼っていた野ネズミだって最期は子供たちが泣きながら埋葬していた。


こいつはどんな人生を歩んできたんだ。

家族はいなかったのか。友達は?

寂しくはなかったのか。


独りは、寂しい。


その時黒い犬がおもむろににバッシュの荷物を弄った。


「あ!おい!なにするんだよ!」


この犬…と、バッシュが荷物から黒い犬を引き剥がそうとすると犬は口になにかを咥えた。


それは木出てきた古めかしい笛だった。

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