第一話.小田原の町(三)
お市が黒ういろうに舌を打っていると、茶店の中で騒ぎが起こった。
見た目は紋付羽織を身に付けた侍風の男だか、その周りに着流しを着たチンピラが取り巻いており、どうやらうどんの椀を持ち上げて苦情を言っていた。
「おいおい、虫が入っているようなものを俺に食わせたのか」
「申し訳ございません。すぐにお取り替えいたします」
「はぁ、取り替えて終わるとでも思っておるのか」
「いいえ、そんなことは…………」
「わかっているのか。こんなものを食わせたと知れたら、この店がどうなるのか」
周りの客は驚いている様子もなく、「またか」という反応であった。
お市がちらりと見ただけで反応しないことに千雨はほっと安心の息を吐いた。
しかし、
「あの者らは何を騒いでいるのですか?」
「無銭飲食店の上に小遣い稼ぎに迷惑料をせしめるつもりなのです。いつのも事です」
「迷惑料とは?」
「自分で虫や毛を入れて、『こんなものが食わせたのか』という迷惑料です。自分で入れておきながらよく言います」
「わかっているのに、迷惑料を払うのですか?」
「仕方ないのです。あのドラ息子の親は問注所の奉行をしており、下手に訴えた店が取り潰されたこともあります」
「酷い話ですな」
「北条様が名君などと言われますが、そんなことはありません」
そんな話を無視してお市は黒ういろうに夢中のようで、「おかわりなのじゃ」と次の皿を要求すると、店の娘が小走りに新しい黒ういろうを取りに戻った。
ドラ息子は店主から迷惑料をせしめると、その小銭の入った袋の重さを満足そうに確認しながら店を出たときだった。
黒ういろうを持って、反転した娘のドラ息子が衝突した。
きゃあ⁉?
小柄な娘は跳ね飛ばされたが、前に座っている客にのしかかった為に大事にならなそうだが、勢いの儘に黒ういろうが宙を舞った。
すばやく立ち上がったお市がすたすたと三角飛びで舞い上がると、ふわりと黒ういろうの皿を掴かんで華麗に着地を決めた。
おぉぉぉぉ、パチパチパチ。
店の客らが大道芸を見たような気分で拍手を送った。
だが、それで終わるようなお市ではなく、静かな声でドラ息子に言った。
「おい、ドサンピン。わらわの大切な黒ういろうが落ちるところだったのじゃ。この落とし前をどうつけるつもりなのじゃ」
「ドサンピンとはなんだ。俺は十両もらっておるわ」
「似たようなものであろう。ジュウピンでよいのか」
「子供と言えど、容赦せぬぞ」
「ジュウピンが騒いだところで、怖くもないのじゃ」
ドサンピンとは、年俸が「三両一人持」のことで最下級の武士を指す。
お前は最下層の武士かと、そんな感じでお市は喧嘩を吹っかけていた。
周りの客が青ざめた。
しかし、お市は動じない。
爪楊枝で黒ういろうを口に放り込むと、甘々を堪能している。
「この餓鬼がただではおかんぞ!」
ドラ息子が突進してお市の吹き飛ばそうと足を蹴り上げた。
お市はまったく動いていないような素振りでふわりと横移動して、何もなかったような顔で黒ういろうを堪能する。
見ていた者は、何もないところを蹴り上げてように見えて、クスクスと笑いが起こっていた。
ドラ息子の顔が真っ赤になった。
「この小娘を叩きのめせ!」
ドラ息子が吠えると、店の中に残っていた子分と、店の外に待機して子分らが集まってきた。
犬千代がうどんの椀を横に置くと、槍から見窄らしい袋を取って立ち上がった。
それを見た千雨が慌てて犬千代を制した。
「犬千代殿。槍はダメです。命を取るのもダメです。約束を破るなら帰って頂きます」
「おい。帰すとかなしだろう」
「小田原で騒ぎを起こしてどうするのです。お市様の迷惑になります」
「わかった。捨丸、預けた」
犬千代が丁稚役の捨丸に槍を放り投げた。
捨丸が飛んできた槍を受け取って慌てていたが、ドラ息子や周りの子分らは別の意味で動きが止まった。
そうだ。
お市からもらった『
槍身は穂(刃長)4尺6寸(138cm)、茎まであわせて全長7尺1寸(215cm)と桁外れの大きさで、重さも6貫目(22.5kg)もあり、切先から石突までの拵えを含めた長さは12尺半(3.8m)になる。
犬千代の身長が6尺(182cm)もあったので目立たないが、5尺(150cm)の捨丸が持つてみると、その大きさが際立っているのだ。
ドラ息子の目が光る。
「よい槍だな、その槍で詫び料としてやろう」
「お市様からもらった槍を他の誰かにやれるものか」
「無理矢理にでも頂くまでだ」
「やれるものならやってみやがれ」
「ここでは客の邪魔だ。あっちでやろうぜ」
突撃した犬千代がウエスタンラリアットのような一撃で二・三人を吹っ飛ばすと、道の中央まで出て、こっちにこいとばかりに手の平で誘った。
血の気の多いチンピラが犬千代に掛かってゆくが、十四人をちぎっては投げちぎっては投げて一方的な戦いとなった。
大通りには相撲見物でもみるように喧嘩見物の客が溢れかえってくる。
ドラ息子への鬱憤か、犬千代に応援の声が響くと、ドラ息子がさらに怒りを露わにした。
「何をしておる。刀を抜け。殺してもかわん」
「おいおい、手加減できなくなるだろう」
「死にたくなければ、その場に伏せて命乞いをしろ」
「誰がするか。殺されても文句をいうなよ」
犬千代がそう吠えた瞬間に、千雨が「殺してダメです」と叫んだ。
犬千代が『えっ』という顔で千雨を見た。
ここでいうのか。
そんな顔で犬千代が訴えても、千雨はウンと言わない。
手加減なしで振り下ろす刀より先に殴るのは簡単だが、手加減すると刀の方が速くなる。
刀を回避して攻撃に移ろうとすると、他の敵が背後から襲ってくるので防戦一方になってしまう。
ちょっと拙い。
今度は犬千代が回避だけで手一杯となってゆく。
バラバラな攻撃に連携が加わると、さらに追い詰められてゆく。
冷や汗を流しながらチンピラの一撃を躱す。
躱す。躱す。シマッタ!
犬千代がヤバいと思った瞬間に、犬千代の背中を刀で突こうとしていた奴が、派手に転んで倒れた。
何故か、怒っている千雨が叫んだ。
「犬千代殿。さっさと片付けなさい」
「おまえがやったのか?」
「お市様の助力です。お市様の手を煩わすのではありません」
「お市様じゃと?」
犬千代の思考が追い付かない。
だが、あっという間に四人が転がっていた。
ドラ息子に護衛が二人残っているので、残りは八人となる。
勢いのままに殴りつけて一人をのかし、裏拳でもう一人を吹っ飛ばした。
身を低くして突進で一人を捕まえると、持ち上げてもう一人に放り投げると二人が片付いた。
その場でくるりと回ると切り出した足で、もう一人を吹き飛ばす。
犬千代が鬼のような形相で「あと三人」と叫ぶと、残りの三人の心が折れた。
殺されたないのか、刀を捨てた。
そんな雰囲気の中でお市が犬千代に話し掛けていた。
「犬千代、以前より弱くなったのかや?」
「そんなことはございません。鯨を相手に戦って以前より強くなっております」
「それにしては避けるのが下手くそなのじゃ」
「兜と鎧をつけておれば、こんな奴らなど一撃です」
「鎧に頼るのではないのじゃ」
お市が三寸 (9cm)針を指先で回していた。
倒れた男らの足の甲にその針らしきものが刺さって痛がっており、お市の助力が何を意味したのかを犬千代は悟った。
そうだ。
お市は千雨が所持している針を借りると、犬千代の死角になったチンピラ四人の足の甲に針を投げて貫いていった。
千雨はお市の手を煩わせたことを怒っている。
千雨と犬千代の掛け合いを無視すると、お市がドラ息子の方を向いた。
お市が「まだ、続けるのかや」という目で、針を見せ付けてドラ息子を睨んだ。
護衛がドラ息子の前に割って入った。
しばらく睨み合ったが、ぐるりと見渡すとあっさりと負けを認めた。
「こちらに非があった。申し訳ない」
そういうと懐から銭が詰まったような袋を台に上に置いて引き始めた。
ドラ息子は「何をする。彼奴を倒せ」などと吠えているが、護衛はそれを無視して引きずって去ってゆく。
最後に小物らしくドラ息子は「覚えておけ。このままでは済まさんぞ」と捨て台詞を残していた。
「これにて一件落着なのじゃ」
そんなお市の声に周囲の見物客から歓声があがる。
やはり、お市が大人しくできる訳がない。
置いていった銭袋を娘に渡す。
「これは店への迷惑料なのじゃ」
「姫様。それはいけません」
「わらわにそんな小銭はいらんのじゃ。なぁ、千雨」
「はい。旅費は十分にございます」
「そういう訳じゃ」
店主からも礼を言われ、お市は満足そうに店を後にした。
見物客の拍手に送られて、お市は今日の宿を探しに歩きはじめた。
皆、気持ちよさそうに見送られた。
が、千雨だけは溜め息は吐く。
このまま小田原の町を出られるのだろうかと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます