第一話.小田原の町(四)

ぽちゃん、小田原の宿に到着すると、お市はお風呂を所望した。

お湯で軽く洗い流してから湯に浸かる。

旅先で入る湯船は格別だった。

湯に浸かった後に、千雨がお市の玉の肌を丁寧に洗う。

この二日間、船倉の中にいたので酷い臭いが染みついており、石鹸を使って洗い流した。

洗ったあとにもう一度湯に浸かる。

その間に千雨が自分の体を洗っていた。


「いい湯じゃ」

「お市様。ゆっくり堪能して下さい。また、しばらく入れません」

「わかっておる」

「船で行けば、鎌倉まで一日で行けますが、駄目でございますか」

「わらわがそれを許可するとでも思ったのかや」

「いいえ、言ってみただけです」


小田原から鎌倉まで十里 (40km)しかない。

早朝の船に乗れば、風にもよるが夕方前に到着できる。

しかし、徒歩で行くとなると道は蛇行しており、途中の川を渡る為に渡河地点まで迂回するなどの障害の為に倍ほどの距離となる。

平塚か、一ノ宮がある寒川神社のある町に泊まることになるのだ。

今日の騒ぎを思えば、陸路を避けて鎌倉入りしたかった。

千雨はそう考えた。


お市は母親の土田御前と同じように薔薇入り風呂が大好きであり、可愛いモノや香りのよいモノを好む。

だが、熱田明神の生まれ代わりと謳われる魯坊丸は、薬師如来か千手観音のような民の救済を各地で行っており、炊き出しなどを手伝うお市は悪臭を放つ者らと接触することが多かった。

お市は匂いに敏感ではあるが、許容範囲が異常に広い。

死体の横に座っている酷い悪臭が移っている子供の手を取って、炊き出し場まで連れてくるなどを平気でやってしまう。

お市が魯坊丸の次に人々から愛される理由だ。

自分が汗まみれ・泥まみれの酷い体臭になっても割と平気でいられるなのだ。

しかし、土田御前に知れた瞬間、雷が落ちるので、マメに体を拭いて汚れを落とす癖が身に付いていた。

風呂好きも、その一つであった。


「千雨、知っておるかや。山の中には湯が沸くところがあり、温泉と呼ぶのじゃ」

「吉野の方に秘境の湯がありました」

「おぉ。千雨は入ったことはあるのじゃな」

「ございますが…………」

「わらわも入りたいのじゃ。魯兄じゃが以前、関東に『田毎たごとの湯』があるとかないとか」

「行きません。行く予定もございません。方向違いでございます」

「少しくらい遠まわ…………」

「絶対に無理です」


千雨が強く否定した。

少しでも妥協すれば、お市は勢いだけで行きかねない。

田毎は常陸国でも北にあり、奥州斯波家に行く途中で寄るとか言い出しかねない。

鹿島の塚原卜伝から一ノ太刀を伝習されたのちは海路で奥州に入る予定になっている。

それを陸路に変えられては大変なことになる。

お栄様から頼まれたのは関東の視察のみ。

奥州の視察は含まれない。

千雨は絶対に阻止しようとはっきりと駄目と言った。


「千雨。力むのは良いのじゃが、衝立から出て力説すると、窓から覗いておる者が鼻を伸ばしておるのじゃ」

「へぇ…………?」

「…………」

「あわぁあぁぁぁ、この無礼モノ」


お市に言われて窓へ目を上げた千雨の前に、暗闇の中に白い目だけが浮かんでいた。

千雨は洗い残りの石鹸水入りの桶ごと、覗き魔に投げてぶつけた。

覗き魔が慌てて退散してゆく。

それを見ていたお市がけらけらと笑う。


「お市様。もっと早く言って下さい」

「千雨がいつ気づくのかと見ておったのじゃ」

「お市様の大事な肌を覗かれてしまいました」

「わらわの方など見ておらん。彼奴の目は千雨しか追っておらんかったのじゃ」

「うぅぅぅ、失態です」


千雨は恥ずかしさが勝っていたので気づいていない。

伊賀の忍びであった千雨もお市ほどではないが気配が読める。

その千雨がまったく気づかなかった。

その事実を見逃していた。


風呂が終わると夕食であった。

町の宿に豪勢な料理が期待できる訳もなく、数品のおかずと山盛りの丼飯が出て来た。

犬千代らはそれで満足だ。

千雨は少し贅沢になったのか、品数が少ないことに物足りなさを感じた。

お市は知らない魚が出てきただけで大満足していた。


「おぉ、この魚は知らないのじゃ」

「そうでございますか。塩を降っただけで熱田の魚と同じに思えますが」

「全然違うのじゃ。身のノリが凄くよいのじゃ」

「ノリですか?」

「千雨はもっと味わって食べた方がいいのじゃ。旅はやはりよいのぉ」


魚だけで満足しているお市を見て、千雨もそれだけで満足だった。

食事が終わると就寝となる。

船にしろ、徒歩にしろ、朝は早い。

海に近い小田原は熱田の夜と同じでり、夜の凪を聞きながらお市はぐっすりと眠りについた。

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