第1話 小田原の町(二)
弘治四年(1557年)三月十九日深夜。
飛鳥井家が奥州
大崎-義直に蹴鞠を伝習するのは飛鳥井-市となっており、護衛は織田家で手配すると通達があったのだ。
しかも帝が飛鳥井-雅綱に蹴鞠の件を尋ね、雅綱が「お市様に行かせることになった」と答えたというオマケ付きだった。
魯坊丸が本気なれば撤回など簡単であったが、それは強引な力技であり、後々まで悪影響がでることを懸念して断念した。
こんな事を度々されては溜まらないと、首謀者のお栄を呼び出したのだ。
「お栄。どういうつもりだ。姉を囮に使うなど、妹がすることか」
「魯坊丸兄上。私らは何の為に京に上がったのでしょうか。兄上方の手伝いをする為ではないのでしょうか?」
「十分に役に立っておる」
「いいえ、役に立っておりません。市姉上は武芸家であります。鳥籠に入れておく御仁ではありません。十分過ぎる護衛も付けました。私の策が駄目だと申されるならば、私も兄上らの役に立っておりません」
「そんなことはない」
「そうでございます。我らの為に兵を割いての気遣いされるならば、これ以上の邪魔にならぬように自らの死を選び撰びます」
そういうと、お栄は懐刀を取り出して、すっと首元に当てると
それが本気か、ハッタリか、魯坊丸には判断がつかない。
降参するしかなかった。
身内に甘いのは、信長だけではない。
今後、お栄が暴走しないように魯坊丸が率先して仕事を振ることを約束し、勝手な独走を禁じて、『
お栄が無邪気にはしゃいだ。
魯坊丸はお市を止めることを諦めると、京から出発するのは遅らせることを約束させた。
魯坊丸は西国の処理を後回しにして、自ら鎌倉に入って奥州平定を先に終わらせることにした。
そのために京から織田家の手の者がぐっと減り、魯坊丸が関東に向かう頃には、織田家の者を守る程度しか間者が残っていなかった。
それが『永禄の変』の引き金になるなどとは、知る由もない魯坊丸ではあった。
◆◆◆
弘治四年(1557年)四月二十六日に信長とお市が京を去ると、二十八日の小田原行きの船に乗ると、お市は五月一日に小田原湊に到着した。
「船の中は退屈だったのじゃ」
「お市様。お市様は織田の姫ではありません。
「それは拙いのじゃ。拙いから大人しくしていたのじゃ」
「この儘、小田原を出るまでは大人しくして下さい」
「わかっているのじゃ」
そう元気に返事したお市であったが、船の底でじっとしているのが、どれほど苦痛だったのか。
その足取りは自然と早くになり、誰よりも早く船関所まで駆けていった。
千雨が「追いますよ」と皆に声を掛けてお市を追った。
お市は関所を通ろうとして、門番に止められていた。
「小娘。こんな所に何のようだ」
「小娘ではない。お市じゃ」
「ここを素通りできるとでも思っておるのか」
「できるに決まっておる」
「門番様。お許し下さい。こちらの姫は京の呉服屋『旗屋』の姫君でございます。蝶よ。花よと大事に育てられました。この度、第十代鎌倉公方であらされる
「何ぃ、鎌倉公方様じゃと。手形があるか」
「こちらに。幕府より頂いた手形でございます」
千雨が懐の手形を見せると、門番の態度が一変した。
門番は名を名乗り、「鎌倉公方様に何卒よしなに」と自分の名前をアピールした。
門番で一生を終えたくなのかな?
その思いが千雨に過ったが、そんなことを気にしている場合ではなく、「通ってよし」と言った瞬間にお市はすでに歩き出してした。
千雨らも急いで関所を越えて小田原に入った。
関所の先は田んぼだった。
小田原湊は早川の東にあり、東の早川から西の酒匂川まで海岸に高い壁がそびえ立つ総堀になっており、壁の中に城、町、田んぼのすべてが収まっているのだ。
関所から町の入り口まで四百間(727m)でしかなく、長いという程もない距離を歩いた。
お市の護衛に犬千代こと
千雨はお市の侍女のままだ。
早足で歩くお市に追い付いた千雨がお市を諭した。
「お市様。急ぎになっても同じでございます。今日は小田原で宿を取ります」
「なんじゃ。鎌倉まで行かんのか」
「今日中には着きません」
「無理かや?」
「無理です」
「しかたない」
町に入ってところで甘ったるい匂いが漂ってくると、お市は引き寄せられるように茶店に向かった。
町の入り口近くにある茶店には多くの客人が腰を下ろして饅頭やうどんなどを食べていた。
茶店の娘がお市を見つけて声を掛けてきた。
「いらしゃいませ。外の席になりますが、宜しいでしょうか」
「わらわはどこでも大丈夫なのじゃ」
「では。あちらの席をお使い下さい」
「わかったのじゃ」
お市が腰を下ろすと、娘が水を運んできた。
水はタダだという。
千雨は茶店にしては珍しいと思った。
「ご注文はお決まりですか? お持ちできる商品はあちらになります」
店先に大きな墨汁で書かれた品の名が書かれており、饅頭、ういろう、黒ういろう、うどんの四品のみであった。
お市は漂ってくる甘い香りが何かと尋ねた。
「当店、自慢の『黒ういろう』でございます。黒砂糖で甘く煮たういろうに、当店の黒蜜をきな粉に掛けており、ほっぺが落ちるように甘いお菓子でございます。一度食べたら、もう何度も足を運びたくなる甘さでございます」
「ならば、黒ういろうを一つじゃ。千雨も同じでよいな」
「はい」
馬背は甘い物が苦手と言いながら黒ういろうを頼み、犬千代と捨丸はうどんを頼んだ。
届けられた黒ういろうを口に入れると、どこまでも甘い道に甘~いうりろうが絡んで、甘々な菓子となっており、お市様も満足そうに食されていた。
男衆に出されたうどんは熱田の長うどんではなく、珍しくない普通のうどん団子だった。
「旅をして名物を食べるのが贅沢じゃと魯兄者が言っておったが本当なのじゃ」
「本当に、美味しゅうございますね」
「これからの旅が楽しみなのじゃ」
お市が喜ぶならば、こんな自由な旅もよいものだと千雨は思い始めていた。
お市が「お栄や里にも持って帰りたいのぉ」というと、店の娘が残念そうに無理だという。
ういろうは日持ちしないのでお持ち帰りには向かない。
ちょっとがっかりするお市であった。
◆◆◆
そこまで読んで信忠が少し顔を上げた。
甫庵もそれに気づいて目線を上げた。
「黒ういろうは美味かったのか?」
「大変に美味しゅうございました」
「日持ちせぬのか?」
「二、三日が限界だそうです」
「父上が甘い物の土産を持って帰ってきたので、儂もそこそこの甘党じゃ」
「そう言われると思いました。ご安心下さい。信照様は開発された硝石クーラー箱に入れて、高速艇と早馬で届けさせてもらっております」
「誠か。よくやった甫庵」
甫庵が手をポンポンと叩くと、台所から切った『黒ういろう』の上にきな粉と温め直した黒蜜を掛けた菓子が出てきた。
信忠はそれを美味そうにパクッと食べると、満足そうな笑みを浮かべた。
完食すると、再び本を手に取られた。
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