第1話 小田原の町(一)
裏で織田政権を操っていると噂されるほどの実力者であり、その片鱗は幼少の頃からあった。
◆◆◆
弘治四年(1557年)三月十八日深夜。
お市は淑女とは遠い存在のように、とたとたと廊下を駆けて飛び込んできた。
「お栄。急ぎの用とは何じゃ。わらわは明日の『
「市姉上。我々が何故に京に上がったのかをお忘れですか?」
「忘れてないのじゃ。魯兄者のお手伝いにきたのじゃ。わらわは明日の『飛び魚大会』(鳥人間コンテスト)で、誰よりも遠くに飛んで、魯兄者の偉大さを皆に知らしめるのじゃ」
「それも大事でございますが、魯坊丸兄上の手伝いにはなりませんよ」
「そうなのか?」
「なりません」
「うぅぅぅぅ、難しいのじゃ」
「考えることは私に任せてください」
「お栄は頼りになるのじゃ」
栄は
早速、朝廷・幕府などに挨拶回りに出掛けると、魯坊丸を助ける案を提示して、その内諾を得て戻ってきていた。
「これは公方様(将軍)より頂いた鹿島
「おぉ、師匠の師匠じゃ」
「この紹介状があれば、鹿島に行くことができます」
「行ってよいのかや?」
「これだけでは魯坊丸兄上は承知してくださいませんので、
「蹴鞠は得意なのじゃ。免許皆伝なのじゃ」
「市姉上へのお仕事の依頼ですので、魯坊丸兄上も断わる訳にはいきません」
「栄は凄いのじゃ」
「関東には幕府に逆らう馬鹿者がおります。市姉上には、このような馬鹿者共を成敗してきてほしいのです。きっと魯坊丸兄上もお喜びになります」
「魯兄者が喜ぶのかや」
「言葉では叱るでしょうが、内心はお喜びになります」
「そうか」
お市はやる気になった。
詳しいことはお市の侍女で忍びである
敢えて口に出さなかったが、千雨はじっとりとした目でお栄を睨んだ。
お市に悪党を成敗させるというが、善悪の判断などできる訳がない。
それに危険な真似を魯坊丸が許す筈がないという目で、お市様を騙しておりますね。
そんな意見を訴える目であった。
「千雨は聡い子なので信用ができます」
「お市様を裏切る気はございません」
「裏切る必要はありません。私が用意した順路で鹿島を目指すだけです。悪党退治は姉上の仕事ではありません」
お栄がそう言うと障子が開かれた。
障子の向こうに、千雨の背筋が寒くなるような鋭い眼光をもつ侍が控えていた。
名を
大和の地で、一万人の筒井勢に攻められながら、父の
これ以上の被害を恐れた
「宗厳。これが柳生の里を天領とし、柳生が治めることを認める公方様の書状です。朝廷と織田家の印も入っています」
「ありがとうございます。お栄様」
「これで約束は果たしました。次は私の約束を守って頂けるかしら」
「承知しております。
「はじめに言いましたが、柳生の名は出せませんよ」
「承知しております。某はこれより
「では、これを預けます。
それは公方様と関白様からお市の護衛に配慮してほしいとの願い状であった。
石舟斎はそれを受け取って懐に仕舞った。
お栄は千雨の方に向き直した。
「千雨。市姉上は何もせずともよいのです。京の呉服商
「旗屋が織田家の御用達だからでしょうか?」
「そうです。以前、
「上杉家が魯坊丸様を不動明王の生まれ代わりと喧伝した話ですね」
「その妹は
「知れるのは拙いのはありませんか?」
「北条家と織田家の仲を裂きたい輩が、市姉上に危害を加えてくるでしょうね」
「お栄様⁉」
「それを排除するのが、この者達です。その馬鹿者らを排除すれば、魯坊丸兄上は西国に集中できます。これが最も効率的なやり方なのです。市姉上を傷付ける者など、多くはありません。況して、そこの石舟斎に敵う者も多くいません。燻りだせば、あとは北条家が始末してくれるでしょう」
「お市様は囮ですか」
「その通りです。魯坊丸兄上も思い付く策ですが、我らに危険がおよぶような策は採用はされないでしょうね」
「凄く、怒られる気がします」
「でしょうね。でも、怒られるのは私の仕事です」
お栄があっけらかんとした表情で千雨に笑みを零した。
お栄の独断だ。
これをお市に話しても強敵が襲ってくることを喜ぶだろうと千雨は感じた。
お市に相談は駄目だと判断した。
魯坊丸に相談すれば、この謀り事は阻止できる。
でも、お栄の報復を千雨は受けることになる。
どんな嫌がらせがあるのかと想像するのも嫌であった。
加えて、真の護衛に撰ばれた石舟斎が邪魔をするなと闘気を放っている。
殺されたくない。
千雨に選択肢なぞ、最初からなかったのだ。
お栄は効率がよいという理由だけで、お市を囮にするのを躊躇わない。
千雨はお栄の冷たさに恐怖を覚えた。
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