04 梵の世界
必ずしも、朝の目覚めが良いとは限らない。意識が朦朧としている私は、名前も場所も分からない廊下を歩いている。四方は打ち放しのコンクリートで、空気は淀んでおり、微かに黴の臭いがする。
入り組んだ廊下を行き、光を標に建物を抜け出した。肌寒い微風、雲に遮られた陽の光、それらに慣れると、カフェテラスのような丸机と椅子が何席も―――白色だったプラスチックの半分が、苔に覆われているのが確認できる。そこは無機質な外庭で、区間の外側には植物の壁が聳え立っている。
適当な席に座り、何気なく地平線と曇り空を眺める。昨日のような廃墟や高速道路、それどころか人類の痕跡は見当たらない。後ろを振り返れば、それは先程の・・・ガンマの形をした、不思議な人工物だった。
紅茶やケーキを嗜むわけでもなく、ひたすら風を感じる。その間は、眠気でも絶気でもない不思議な感覚に意識が蝕まれそうになる。それに留まらず、視界―――いや、世界が小刻に揺らいでいる。自分の掌は明瞭で、奥に翳した建物は曖昧で・・・嗚呼、気持ち悪く、心地が良い。
気付けば、自分は再びコンクリートに囲まれた空間で佇んでいた。廊下というよりは部屋で、目の前には全てを反射する滑らかな鉄球が置かれていた。内部を覗き込もうと顔を近づけても、碧色の瞳が映るだけ。無邪気に触れてみるが、球は動かず、代わりに自分が押し返されるだけ。
これは真実? 意識? それとも意味を持たない世界の一部? 馬鹿々々しい、これは己の断片的な記憶・・・違う、本当に馬鹿なのは本当の自分だ。光を当てなければ、手持ちの光源を―――
その瞬間、世界は死んだ。普段と異なるのは、自分の意識が維持されるという―――どうにも〝日付〟を跨いだ感触が分からず、五感を失った私は、意識・・・記憶に直接、何かを流し込まれる。
始まりの挨拶もなく、初めに映されたものは名も知らぬ恒星だった。それを背景に、独創的なディスプレイかオシロスコープか、何かが何かを示している。三角形や四角形、果てには遺伝子のような二重螺旋構造を自在に踊らせる。おそらく情報であるが、それを理解する前に全て消えてしまった。
次に、独楽の形を成した無数の星―――名も知らぬ銀河が出現する。どちらかといえば黒色のキャンバスに描かれたような内容で、時間と共に系の軌跡も描き足される。水平に周るものや、エリスのように自由奔放なものまで存在するらしい。文章も書き足されていた気もするが、あまりに可笑しな文字だったのか忘れてしまった。
加えて、宇宙を展開した地図も描画される。誰が定義したのかは不明であるが、密度を基準に幾つか区分されており、我々は右下あたりに居ることや、最近傍では強烈な嵐が巻き起こる大惑星に小型の生命が居ることも理解した。確かに生命であるが、生物らしい顔や穴があるわけではなく、強風の力で無作為に繁殖するだけの、何の面白みもない生態だと感じた。
段々と、実際の様子もグラフィックで教えられる。とある系の中心には巨大な暗黒惑星があり、その周りに唯一、三次元のハニカム構造で作られた軽い惑星が存在している。これは生命体が重力を考慮して建築した居住区なのか、それとも他の機能を持つ巨大な構造物なのか。どちらにせよ、今の私に知る術はない。
かつては地球を平面だと考える人間も多いと聞いたが、その考えは間違いではなく、早すぎたのかもしれない。高層ビルのような棒状の構造物には《循環都市》以上の機能が備わっており、それらが巨大な鋼のトーラスの内側で束となり、豊富な淡水と大気を共有しながら、自由惑星のように広大な宇宙を彷徨い続ける。おそらく、これらは定住よりも移住の用途で使われるものだ。私の眼には煌びやかな都市として映るが、実際は光量が少ないので暗黒に包まれた都市が見えるだろう。
自転で水の空を造り上げる惑星は圧巻だ。地球よりも数倍は大きく、想像もできない量の水層には輸入された多様な水生生物が暮らしている。その下には僅かな空層もあるが、地上や地底の様子は物寂しい。人と呼ばれる生物は熱圏に僅かな港を置いて、そこで何かをしているらしい。
情報は、更に多くなる。楕円状の移動手段が故障により物質を引き寄せることで生まれた小惑星、砂鉄色の霧で覆われた惑星に住み着く異星人、フラクタルの虚空を避けながら高次元の旅を続ける方舟、三角形と四角形の狭間にある何か、放射線の直撃により緑色の炎が拡がる地球、系の崩壊により高層の都市まで海に飲み込まれてしまう地球、岩盤の歪みにより火山は爆発する―――黒雲と山岳の故郷を収めた記録媒体は何処へ消えた? 坂道を登り続けなければ! 消化装置は!?
駄目だ、全てを記憶できない。これこそが、探し求めていた情報? ・・・しかし、分からない。読み方も解き方も分からなければ、何が本当なのかも分からない。おそらく、私は今、大河を成す水という真実の一杯を掬っている。それは濁っており、肉眼では何も分からないが、確かに微細な粒が存在する。おそらく、私は今、無知という言葉、無謀という言葉を理解した。一人の人間だろうと、一類の人類だろうと、矮小な存在が悠久の真実を歓迎するなど愚かであった。
相対的には全てがノイズであり、我々が知覚する真実など、都合の良いノイズに過ぎない。・・・しかし、私が憶えている情報は〝それっぽい〟と感じる。ノイズの一部に真実が記されているのか、それとも、ノイズから情報を取り出す方法こそが真実か。嗚呼、それもノイズに記されているだ。
ノイズの全体を捉えなければ。・・・それも、叶わぬ願いだ。私の瞳には絵の具が塗り混ぜられたような、不思議な世界の内側だけが映っている。私の身体は落下しているのか、浮遊しているのか、自由に遷移する七色のノイズから脱出しようと、ひたすら手足を踠き続ける。
この時ぐらいか―――段々と、世界の歩き方を悟り始めた。世界は、私の欲望や思想を忠実に再現している。得体も知れない真実を求めるから、こうなるのだ。まずは、真実の正体を調べなければ。その為に世界を創らなければ。その為に世界を探さなければ。
気付けば、視界には白色の世界が広がっていた。それは雪山でもなく、部屋でもなく、本当に何もない。平衡感覚を失い、再び落下か浮遊を続ける。ただ、生きている感覚―――鳥肌を奮い立たせるような、不思議な感覚を身に付けていた。実体のない感覚を弄る、すると―――景色が豹変した。
嗚呼、交差点だ。馴染み深い建造物で囲まれたコンクリートの道路に、人々や車両が行き交う。更に進めば、自分は、手付かずの美しい草原に立っていた。太陽が霞んだ大気を照らす。微風に草木が靡く。ここは、何年前? ここは、何処? ここは、―――誰?
・・・留まりたい、しかし、行かなければ。ノイズという、私が創る次の世界へ。
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