02 森の世界

 意識は断続的な活性よりも遷移的な活動が好ましいが、時には両者とも異なる不思議な感覚を体験するときがある。曖昧な記憶として蓄積される夢は、その最たる例である。

 気付けば、私は、森の中にいた。斜陽が溢れる心地良い森ではなく、月光が暗闇を照らす不気味な森である。右手には、掌に収まらない大きさのVHSカメラと、その上部には、一寸先の視界を確保できるフラッシュライトがダクトテープで巻かれていた。

 どうやら私は森を探索していたらしいが、そんな記憶もなければ、カメラの記録は―――再生用のインターフェースが搭載されていないので、お手上げである。赤いライトが点滅していることから、昔も今も何かしらの映像を記録しているようだが。

 私が進む方向には、砂利の道が続いている。誰かの手で整備された道ではなく、大勢の人の歩みが残した道である。ただ、ひたすらに、その跡を追い続けた。視覚的な未知に感化されて、暗闇に佇む〝何か〟が私を睨み付ける―――そんな妄想が追い詰める。いや、恐怖が夢として具現化されているのかもしれない。とにかく、走る。やがて、疲れる。それを繰り返していた。

 ふと、立ち止まり、無闇な感情を抑えた。―――静かだ、静かすぎる。耳に入るのは自分の吐息と足音だけで、虫の音、風の音、それらは何一つ聞こえない。そんな時、物陰を発見した。光を当てると・・・小さな木造の屋台が映し出された。何かを販売していたらしい、しかし、描かれている文字が読めない。東諸国の文化を代表する漢字のようだが、それにしては造形が複雑すぎる。

 陳列された商品については、砂か薬か、何かの粉が傷だらけの瓶に詰められている。それを開けて舐める勇気はないし、私には関係のないものだろう。

 やがて、森が開けると海が現れた。昨日とは異なり、足元にあるのは砂浜ではなく、下れば二度と戻れない程度に険しい絶崖が広がっている。微かに霧が掛かった・・・海? 水だと思っていた液体に光を当てると、半透明の波紋というより・・・水銀だ。視界の端から地平線を跨ぐ水面の正体は、水銀なのか。一体、この量は・・・考えるも意味がない。そういう、世界なのだ。

 周囲を見渡せば、岸の続きに一つの造形物を発見した。カメラのファインダーを覗き込み、拡大、ピントを合わせて、そこには・・・何もない地平線に向けて、中途半端に途切れた石橋が掛けられている。石橋の末端には、何か―――正面へ向かったとき、正体が判明した。・・・旧式の鳥居だ。

 鳥居は、何を意味する? 世界を繋ぐ扉? 私の潜在意識? 確かに造形は好きだが・・・いや、進めば分かる。しかし、進むほど不可解に感じる。私が鳥居へ向かっているのではなく、鳥居が私に向かっている。そう感じられるほどに、鳥居は大きかった。十数メートルだと思っていた石橋の長さは、優に百メートルを超えていた。やがて、鳥居が視界から消え去り、眼には森よりも暗い夜空と水銀の海が映る。空を見たときの妙な安心感は、星が一つも見えないという界観の一致だった。

 歩んだ道を振り返れば、森を照らす巨大な月と森に覆われた陸地が映る。月を拡大しても眩しいばかりだが、クレーターの内部に特徴的な物陰が見えないので、ここは自分の知る世界よりも古い時代であると分かる。畜生、昨日も月を見ていれば・・・。

 再び後ろへ振り返り、その場に座り込む。魂がいなければ世界も痴れず、自分の思考は鉛のように鈍かった。体力だけは常にあるので、後方の広大な陸地を探索しても良い。道中には更なる造形物が放置されているかもしれない。しかし足が動かないのは、目の下に広がる海が恐ろしく―――そして美しい、そんな感情に支配されていた。もしくは、道を引き返す自分は許されず、この先を進まなければならないという、そんな使命を錯覚していた。

 やがて、私は橋の続きに足を踏み入れ、水銀の水面に落ちていく。大の字で仰向けになった私は、漆黒から漆黒へ、膜へ衝突した痛みも感じられずに空間を彷徨った。どうやら、水銀は虚空だった。自分がどこにいるのかも分からず、ただただ、落下していく―――落下しているのかも分からない。

 フラッシュライトを振り回していたとき、情報が存在していることに気が付いた。これは、情報という概念が視覚化されたものだろうか、道中で見掛けた文字が赤色で存在している。これは、何? ただただ、理解できない羅列が次々と空間を過ぎっていく。これは、私が手に入れたかった真実? 今の私には早すぎた? 後悔した。憎悪した。あの時、道を引き返していれば。

 握り締めるカメラに、真実は写り込んでいる? いや、私が記憶しなければ意味がないのだ。この世界を過ぎてしまえば、記録媒体を失う。持ち込めたとして、写り込んだ情報は無価値である。もしかすれば、再び同じ世界に出会えるかもしれないが―――。

 気付くと、私は背中に重力を感じた。・・・今、私が見ているのは虚空ではなく、夜空だろうか。上半身を起こせば、そこは、妙に湿り気のある平原だった。静寂だが、安堵した。あのまま、光すら届かない空間で永遠に覚醒していたら・・・考えるだけでも恐ろしい。

 目の先には、少しばかり浮いた巨木が聳え立っている。根と絡み合う地面には洞窟のような穴と、月と同じくらいの―――輝く何かが潜んでいる。本物の月は、巨木の右側に佇んでいる。あの輝きは何か? 今の私に野心は消え失せていたが、奇心は私の鈍足を動かし続けた。というより、水を含む芝生が邪魔をする。

 これも錯覚するぐらいに大きい巨木なのだと感じたとき、同時に妙な刺激を感じた。日差しを浴びたような痺れや痒み、だが、それだと気付いたときには遅すぎた。見えない強風が私を振動させる。耳鳴り、熱気、麻痺、それは全身というよりも、全身の原子に影響している。―――私の眼に映る光は、ただの可視光ではなく、全てを網羅した波動だった。それは力強く、ここで引き返しても無意味だと悟った。・・・ならば、気を失うその瞬間まで、前進しなければ。光の正体を認知しなければ。

 世界に善悪や慈悲は存在しない。私は狭まる視界の中で、分解されていく手先を眺めながら、世界から消え去った。世界を知るための五感は失われたが、世界を考えるための意識だけは明晰である。それは丁度、虚空を落下しているようだった。

 嗚呼、カメラは何時に忘れてしまったのだろう。道を引き返していれば、何かに、誰かに、出会えたかもしれない。そんな後悔ばかりが私の邪魔をする。自身に確証が持てないのは、記憶した事象が未知ではなく、曖昧だからだ。

 感覚も、意識も、―――もしかすれば、真実すらも・・・本当は曖昧なのかもしれない。

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