01 海の世界

 広大な水が広大な砂を濁す音、無数の草木が微風に煽られる音、しかし奇妙なことに、鳥や虫の音は何一つ聞こえない。

 目を開ければ、そこには、海が広がっていた。輪郭が滲む地平線には立派な積乱雲だけが浮かび、島や船は見当たらない。後ろを振り返ると、そこには、崖が広がっていた。下部は鼠色の岩々が乱雑に積み上がっている。それとは対等に、上部は緑と黄の有機的な空間が楽園を造っている。いいや、壁を超えれば、これが常識なのだろう。

 ここの地理も、歴史も、何も分からない。ただただ、起こした身体を棒のように固めて、本当の海を眺め続けた。景色を視界に焼き付ける行為は、価値に敏感な現代人の悪い癖だろうか? いいや、人類は常に感情を掻き混ぜていたはず。今も昔も、脳は科学のスープで構成されている。

 「・・・こんにちは。」

 現実の更なる乖離は、ここからだった。突如と聞こえた謎の声、優しい声、しかし、人の姿はどこにも見当たらない。人の気配すらも感じられない。

 「・・・貴女は、誰?」

 幻聴ではない。確かに、自分よりは幼い男児の声だ。

 「・・・君こそ、誰?」 「・・・どこにいるの?」

 「貴女の記憶の中にいるよ。ここには、この世界には、もういない。」 「・・・。」

 彼は、そう答えた。記憶が私に語り掛けている。・・・これは彼という《レコード》なのか?

 「・・・ここは、どこなの?」 「貴女の知らない世界・・・いや、元々は貴女と同じ世界か。」 「僕も驚いたよ。人が消えた世界に、人がいるんだもの。」 「・・・君は、人間じゃないの?」 「人間だけれど、実体を持たないというか・・・魂だよ。」 「・・・。」

 この世界に人類が存在しないと、彼は言う。声の主は死んでしまったのか? ・・・それにしても何故、現代の言語で意思疎通が行える? そういうものなのか?

 岩に腰を掛けて、瑠璃色の海を茫然と眺めた。―――ここは、私が知る地球だ。時間か、空間か、何かが異なるのだろう。・・・絶望した訳でも、興奮している訳でもない。ただ―――理由もなく、鳥肌が立っている。

 「・・・地球?」 「そう。でも、貴女が居た世界よりも随分と離れている。」 「私が生まれる前とか?」 「いいや、そんな規模じゃない。何万年も前の世界だよ。」 「どうして分かるの?」 「だって、貴女と自分は違いすぎるんだもの。言語は冷たいというか〝硬い〟感じがするし、服装は立体的な白い・・・〝ワンピース〟と呼ぶの? 最も、魂は人を直感で理解するからね。」

 どうやら、魂は人の頭を覗くことができるらしい。嗚呼、聞きたいことが山々だ。

 「・・・なぜ、君は死んでしまった?」 「アハハ―――あんな津波が来たら、誰も生き残ることはできないよ。」 「津波・・・海で作られる、大きな波?」 「そうだよ・・・? 海を知らないとは、珍しいね。」 「山の頂上で繁盛していた町も、その標高を上廻る津波に全て流された。一瞬だったよ。自分は流される間もなく気絶したから、痛みとか悲しみとか、・・・何も、憶えていないけれど。」 「・・・。」

 私は、そのような神話や映画を観たことがある。確か、作中では〝ノアの箱舟〟によって僅かな人類と物資が生き延びた。・・・彼、いや、彼の時代では、それほどの科学力や予知力を備えていないことが示唆される。

 「何か、避難は勧告されなかったの?」 「残念ながら、なかったね。・・・そうかそうか、貴女の時代には〝インターネット〟という情報の網があるのか。・・・面白い!」

 「私の記憶を、読めるの?」 「読むというか、知りたいと思えば自然と浮かび上がるんだ。僕もこんな経験は初めてだから、少し戸惑っている。」 「・・・面白いわね。」

 座るのに疲れた私は、海水に侵される岩々を飛び越えながら、彼と話を続けた。

 「・・・貴女が来て、安心した。貴女が居るということは、少なからず、誰かが生き残っていた。そして、僕の世代よりも知識や環境が豊富だ!」 「・・・良かった。・・・〝貴女〟と呼ばれるのも変な気がするから、名前にしない? 私の名前は『████』よ。」 「良い響きの名前だ。僕の名前は『觰鏇镳难』だよ。」 「・・・えッ?」 「『觰鏇镳难』!」 「・・・。」

 どうやら、私の記憶に彼の言語が対応していないらしい。こちらの感覚では、東諸国の・・・北京語のような発音だった。

 その後、彼から様々な話を聞いた。ここは小さな孤島であり、その昔は辺りに様々な小島が在ったこと。私の後ろにある山の名前や固有名詞については分からなかったが、発展途上にある彼の文明は自然と結び付きの強い平和な暮らしを営んでいたこと。愛する家族や隣人がいたこと。津波が来る直前に大きな地鳴りが発生したこと。・・・他にも多くの話を聞いたはずだが、今の私は思い出すことができない。もしくは、それほどの時間がなかったのかもしれない。

 「ありがとう。―――僕の話を聞いてくれて。楽しかったよ。」 「・・・こちらこそ。」

 最後の一時は、山頂で、その昔に立派な鳥居が建てられていた場所で、星が映る夕焼け空を眺めていた。これが地球なのか、これが人間の支配から免れた世界の姿なのか、そんな感傷に浸りながら、段々と視界が歪み、世界は崩れ落ちていく。・・・魂は、招かれざる人が帰る時間も知っていたようだった。

 「・・・さようなら。」 「―――さようなら。」

 世界から姿を消す直前に、ふと、気が付いてしまった。確かに、私と彼に共通点はなく、私のほうが多くの情報を持っていた。だが、それが〝何万年も前〟であることを確定する要素とはならない。

 その逆―――ここが〝何万年も後〟の世界である可能性は? 人類が築いた最大の《循環都市》は悠久と謳われるが、それを覆す何か―――山を超える波が生まれたのだから、ピラミッドが壊滅する未来も可笑しくはない。

 たった数百年の寿命しか持たない人間が、未来に怯える義理はない。それでも―――故郷が消える悲しさを、無視できなかった。・・・彼のような魂が、故郷だった場所に佇んでいたのだから。

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